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第一章 悲しみのエンパシー
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めぐるにはまったく覚えがなかった。たしかに五歳上の兄がいる。近所に年齢の近い友達がいなかった幼少期のめぐるの遊び相手は主に兄の佑だった。
佑は現在、大学三年。県外にある有名国立大学に進学し、大学近くのアパートでひとり暮らしをしている。
当時の佑は特別面倒見がいいというわけではなかったが、家に閉じこもりがちだっためぐるを気にかけ、山翠公園に連れ出すことが多かった。
めぐるの家は高台にあり、家の前から続く道をくだったところに市営の山翠公園がある。敷地内には梅や桜の木のほかに小さなバラ園がある。また道沿いには紫陽花が植えられ、花の開花時期である六月下旬から七月中旬にかけてはたくさんの人が訪れるが、普段は静かな憩いの場で穴場スポットともいえる。
六歳前後の記憶は曖昧だが、めぐるは兄に連れられ、山翠公園のライトアップされた桜や紫陽花を見た覚えはある。けれど、流星を見た記憶はまったくなかった。
「やっぱり覚えてない?」
胸に手をあて、じっと考え込んでいるめぐるを見て、伊央はゆっくりと立ちあがった。
なにをするのだろうと、めぐるは伊央の行動を目で追う。伊央はおもむろにTシャツの左袖をまくりあげた。服で隠れていた部分があらわになる。
「その手……」
めぐるは口もとを手で押さえ、そのまま絶句する。
まくりあげた袖の下にあったのは、ひどく歪な形をした不完全な左手。五本あるはずの指が二本足りない。それはかなりの違和感だ。さらに三本の指のうち一本だけが異様に短くて、その一本は指としての機能もだいぶ劣るのではないかと思う。
「生まれつき三本指なんだ。先天性四肢障がいっていうんだって」
伊央は三本の指を動かしてみせた。
「知ってる」
「聞いたことある?」
「ううん、そうじゃない。この手を知ってる。三本のうち、この指が極端に短いの」
めぐるは伊央の左手を取ると、外側の小指とも薬指ともいえる指をそっと撫でた。
「気持ち悪くない?」
「ううん、ちっとも。それよりすごく懐かしい感じがする」
ほかのことは思い出せない。けれどこの手は強烈に印象に残っていた。
伊央はめぐるをまっすぐ見つめた。
ふたりの身長差はあまりない。伊央が一六三センチほどで、めぐるはそれより一、二センチ低いくらい。まだ成長途中の伊央の幼さの残る顔と、男子にしては長めのやわらかそうな茶色のくせっ毛は、遠目で見たら女の子に間違われそうなほど中性的だ。
そのためこれだけの至近距離でも異性に対する怖さや緊張をめぐるは感じなかった。
「あの日もめぐるはこんなふうに好奇心いっぱいの目で、この手を見てたよ」
「だってこの手は龍神様……」
「そう、それ! 僕のことをその龍神様の化身だと言って、目を輝かせたんだ」
龍神とは湖や沼などの水中に住む龍の姿をした神様で、水をつかさどり、雨をもたらすとされ、昔から雨ごい祈願など信仰の対象とされてきた。めぐるは幼少期に祖母から龍神様の話を聞かされ、その存在を信じていた。
想像上の生きものである龍の爪は三本。そのため二本欠損している左手を見ためぐるは、とっさに龍神様と思ったのだ。
「昔、お兄ちゃんが言ってたの。山翠公園の池に千年前から龍神様が住んでいるんだって。でもあの池は、わたしが生まれた頃に作られた人工の池だって小学四年のときに知ってショックだった」
山翠公園の池には夏になると美しい蓮の花が咲き誇る。その池を眺めながら佑は、「この蓮の花は龍神様を祭るために大昔の人が供えたんだ」と言ったのだ。めぐるが龍神様の存在を信じていたので、夢を壊さないようにというやさしさからだった。
「あのときの男の子だったんだ。でもペルセウス座流星群のことは覚えていないの」
言われてみれば、外出した目的は天体観測だったように思う。けれどペルセウス座流星群のことを忘れてしまうほど、あの夜はいろいろと衝撃的だったのだ。
伊央の左手を見て、めぐるは六歳の記憶をよみがえらせる。
◇
十年前の八月十二日。
この日はめぐるの六歳の誕生日。夕方、保育園に迎えに来た母と帰宅しためぐるは、生クリームたっぷりのホールケーキを期待して母にたずねた。
「ねえ、どんなケーキ? 見せて!」
しかし無情にも、母はめぐるの期待を粉々に打ち砕く言葉を吐き出した。
「そんなものあるわけないでしょう。誕生日会もやらないからね。お母さん、忙しくてそれどころじゃないの」
めぐるの両親は共働きだった。父は個人で電気工事の仕事を請け負っており、母は小さな食品卸会社の事務をしている。
父は会社員ではないため毎月の稼ぎは不安定で、なおかつ出張も多く、金銭面、子育てにおいての母の負担は大きかった。そのため体力的にも精神的にも余裕をなくした母は甘えてくるめぐるにいつも冷たかった。
「でもケーキ買ってくれるって言った」
「いつ言ったの? お母さんはそんなこと言った覚えはないけど」
「お父さんが……」
「じゃあ、お父さんに買ってもらいなさい」
父はまだ帰宅していない。めぐるは目に涙を浮かべ、ダイニングテーブルにあった麦茶の入ったグラスを手に取る。自分の感情をぶつけるものがそれしかなかった。
食器棚に向かって投げつけたグラスが「ガシャン!」と乾いた音を立てた。麦茶が四方八方に飛び散り、砕けたグラスの破片がバラバラと床に散乱し、母が鬼の形相になる。
物音に驚いた佑が二階の自室から飛び出し、階段を駆けおりてきた。
佑は現在、大学三年。県外にある有名国立大学に進学し、大学近くのアパートでひとり暮らしをしている。
当時の佑は特別面倒見がいいというわけではなかったが、家に閉じこもりがちだっためぐるを気にかけ、山翠公園に連れ出すことが多かった。
めぐるの家は高台にあり、家の前から続く道をくだったところに市営の山翠公園がある。敷地内には梅や桜の木のほかに小さなバラ園がある。また道沿いには紫陽花が植えられ、花の開花時期である六月下旬から七月中旬にかけてはたくさんの人が訪れるが、普段は静かな憩いの場で穴場スポットともいえる。
六歳前後の記憶は曖昧だが、めぐるは兄に連れられ、山翠公園のライトアップされた桜や紫陽花を見た覚えはある。けれど、流星を見た記憶はまったくなかった。
「やっぱり覚えてない?」
胸に手をあて、じっと考え込んでいるめぐるを見て、伊央はゆっくりと立ちあがった。
なにをするのだろうと、めぐるは伊央の行動を目で追う。伊央はおもむろにTシャツの左袖をまくりあげた。服で隠れていた部分があらわになる。
「その手……」
めぐるは口もとを手で押さえ、そのまま絶句する。
まくりあげた袖の下にあったのは、ひどく歪な形をした不完全な左手。五本あるはずの指が二本足りない。それはかなりの違和感だ。さらに三本の指のうち一本だけが異様に短くて、その一本は指としての機能もだいぶ劣るのではないかと思う。
「生まれつき三本指なんだ。先天性四肢障がいっていうんだって」
伊央は三本の指を動かしてみせた。
「知ってる」
「聞いたことある?」
「ううん、そうじゃない。この手を知ってる。三本のうち、この指が極端に短いの」
めぐるは伊央の左手を取ると、外側の小指とも薬指ともいえる指をそっと撫でた。
「気持ち悪くない?」
「ううん、ちっとも。それよりすごく懐かしい感じがする」
ほかのことは思い出せない。けれどこの手は強烈に印象に残っていた。
伊央はめぐるをまっすぐ見つめた。
ふたりの身長差はあまりない。伊央が一六三センチほどで、めぐるはそれより一、二センチ低いくらい。まだ成長途中の伊央の幼さの残る顔と、男子にしては長めのやわらかそうな茶色のくせっ毛は、遠目で見たら女の子に間違われそうなほど中性的だ。
そのためこれだけの至近距離でも異性に対する怖さや緊張をめぐるは感じなかった。
「あの日もめぐるはこんなふうに好奇心いっぱいの目で、この手を見てたよ」
「だってこの手は龍神様……」
「そう、それ! 僕のことをその龍神様の化身だと言って、目を輝かせたんだ」
龍神とは湖や沼などの水中に住む龍の姿をした神様で、水をつかさどり、雨をもたらすとされ、昔から雨ごい祈願など信仰の対象とされてきた。めぐるは幼少期に祖母から龍神様の話を聞かされ、その存在を信じていた。
想像上の生きものである龍の爪は三本。そのため二本欠損している左手を見ためぐるは、とっさに龍神様と思ったのだ。
「昔、お兄ちゃんが言ってたの。山翠公園の池に千年前から龍神様が住んでいるんだって。でもあの池は、わたしが生まれた頃に作られた人工の池だって小学四年のときに知ってショックだった」
山翠公園の池には夏になると美しい蓮の花が咲き誇る。その池を眺めながら佑は、「この蓮の花は龍神様を祭るために大昔の人が供えたんだ」と言ったのだ。めぐるが龍神様の存在を信じていたので、夢を壊さないようにというやさしさからだった。
「あのときの男の子だったんだ。でもペルセウス座流星群のことは覚えていないの」
言われてみれば、外出した目的は天体観測だったように思う。けれどペルセウス座流星群のことを忘れてしまうほど、あの夜はいろいろと衝撃的だったのだ。
伊央の左手を見て、めぐるは六歳の記憶をよみがえらせる。
◇
十年前の八月十二日。
この日はめぐるの六歳の誕生日。夕方、保育園に迎えに来た母と帰宅しためぐるは、生クリームたっぷりのホールケーキを期待して母にたずねた。
「ねえ、どんなケーキ? 見せて!」
しかし無情にも、母はめぐるの期待を粉々に打ち砕く言葉を吐き出した。
「そんなものあるわけないでしょう。誕生日会もやらないからね。お母さん、忙しくてそれどころじゃないの」
めぐるの両親は共働きだった。父は個人で電気工事の仕事を請け負っており、母は小さな食品卸会社の事務をしている。
父は会社員ではないため毎月の稼ぎは不安定で、なおかつ出張も多く、金銭面、子育てにおいての母の負担は大きかった。そのため体力的にも精神的にも余裕をなくした母は甘えてくるめぐるにいつも冷たかった。
「でもケーキ買ってくれるって言った」
「いつ言ったの? お母さんはそんなこと言った覚えはないけど」
「お父さんが……」
「じゃあ、お父さんに買ってもらいなさい」
父はまだ帰宅していない。めぐるは目に涙を浮かべ、ダイニングテーブルにあった麦茶の入ったグラスを手に取る。自分の感情をぶつけるものがそれしかなかった。
食器棚に向かって投げつけたグラスが「ガシャン!」と乾いた音を立てた。麦茶が四方八方に飛び散り、砕けたグラスの破片がバラバラと床に散乱し、母が鬼の形相になる。
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