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第三章 傷だらけのロンリネス
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イヤホンを片方の耳にさして、スマートフォンから流れてくるクラシックの夜想曲に集中する。動画サイトでたまたま見つけたピアニストの演奏だ。
切なく繊細な調べが耳の奥にやわらかく広がり、目を閉じると無数の美しい星々が脳裏に浮かびあがる。乳白色の天の川に沿って赤や青の星雲が散らばり、絶え間なく流れ星が白い光線を描いた。
めぐるはイヤホンをはずすと、自室の掃き出し窓からベランダへ出て、天をあおいだ。
涼しげな風が吹き渡る深夜、思ったよりもクリアに見えた星は静かに瞬いて、その神秘的な輝きに思わず目を奪われた。
伊央が犯人なのだろうか。
──こんな世界なくなっちゃえばいいのに。
あの声はおそらく伊央だ。世の中になんらかの恨みがあるからこそのあのセリフなのだろうか。
伊央には謎が多い。もしかすると自分やクラスメイトの知らない顔があるのではないかと考えてしまう。
だが、すぐさま首を振って否定した。いや、そんなはずはない。伊央は、「動機がない」ときっぱり言いきった。その言葉を信じたい。信じなければ、伊央が手の届かないところに行ってしまうような気がした。
心も離れてしまったら、二度と取り戻すことはできない。伊央は流れ星のように儚く消えてしまうだろう。
翌朝、鏡のなかの疲れきった自分の顔がまるで死人みたいに思えた。無表情で覇気がない。めぐるは口の両端を指で押しあげ、無理やり笑顔を作った。
刑事から事情聴取を受けたのは三日前の金曜日のこと。吐き気はおさまったが、微熱と倦怠感で結局土曜日は学校を休んでしまった。
そして月曜日となったのだが、今朝も食欲が戻らず、朝食を半分ほど残してしまった。その後、めぐるは自宅を出る。まぶしい朝日が降りそそぐなか、校門まで続くゆるやかな坂道をのぼっていった。
しかし急に息苦しくなり、立ち止まる。寝不足の身体には燦々とした太陽の輝きとこの坂道はきつい。呼吸を整えていると、背後から伊央が心配そうに声をかけてきた。
「おはよ、まだ具合悪い?」
「ううん、もう平気。ぜんぜん元気!」
めぐるは強がって精いっぱいの笑顔を向ける。
「よかった。心配だったから、昨日めぐるの家に行ったんだ。でもお母さんに『今寝てます』って言われちゃった」
「う、嘘!? 聞いてないっ!」
めぐるは素っ頓狂な声をあげた。具合が悪いとへこたれている場合ではない。
「名前を言ったら急に機嫌を損ねちゃって。筧先生からぼくのことを聞いていたみたいだね」
「ごめん……」
「僕のせいでめぐるも警察に事情聴取されたんだから無理ないよ」
伊央はたいして気にしていない様子だが、めぐるにとってはそうでない。せっかく伊央が訪ねてきてくれたのに追い返すようなことをしてしまい、申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね。うちのお母さんが失礼なことして。説明はしたんだけど、いまだに誤解してるの」
自分の意思で伊央と一緒にいたのに、伊央にそそのかされたと思い込んでいためぐるの母親は、見舞いに来てくれた伊央に冷たくあたった。ふたりは十年ぶりの対面だったが、成長した伊央にめぐるの母親は気づくことはなかった。
「めぐるのお母さんは美人だね。色白できれいな顔をしてる」
「えっ……? うちのお母さんが美人? きれい?」
これまでそんなふうに思ったことは一度もない。他人にはそんなふうに見えるのかと唖然とする。
「それに十年前とあんまり変わってない」
「そ、そっかな?」
「うん、若いよ。めぐるに似てるね。あっ、逆か。めぐるが似てるのか」
伊央は照れたようにクスリと笑みを浮かべた。
「……あれ? うちのお母さんのこと、覚えてるの?」
「めぐるのお父さんのことも覚えてるよ。十年前、めぐるの家に行ったときに見た。あの頃ははお父さんに似てたけど、今はお母さん似だよ」
「相変わらず伊央の記憶力は尋常じゃないね。ていうか、お母さんに似てるって言われてもうれしくない」
「どうして? いいことだろう? 自分のルーツが明確なんだから」
「ルーツ……」
「僕は両親の顔を知らないから、ときどき不安になるんだ。いろんな意味で……」
めぐるは心臓をぎゅっとつぶされるような感覚がして苦しくなる。ルーツを知らない人間の気持ちなんて考えたこともなかった。
「やっぱり知りたい?」
「僕は……知らなくていい。本当のことを知ったとき……」
数秒ほど伊央が言葉につまった。しかしすぐに覚悟を決めたように口を開いた。
「その事実が、『おまえは誰にも祝福されずに生まれてきた人間なんだ』と烙印を押すものなら一生事実を聞かないでおいたほうがいい」
いつもの淡々とした口調ではない。きっと誰にも言えずに生きてきたんだろう。このときばかりは小さな子どもが脅えているようにも見えた。
「大丈夫?」
「ごめん、僕がめぐるを心配してたはずなのに逆になっちゃったね」
「ううん。それより、誰にも祝福されずに生まれてきたって……そんな悲しいこと言わないでよ。わたしは生まれてきてくれてありがとうって思ってるから」
どうかこの想いが伝わりますようにと、めぐるは真剣に訴えた。
「ありがとう。めぐるに言われるとうれしいよ」
「ずっとひとりで悩んでいたんだね」
「今まで誰にも言えなかった。だからいつも自分で解決した」
「どうやって?」
「たとえば高いところから世界を見おろすと、自分の存在はちっぽけなものだって思い知ることができる。視点が変わるだけで自分の悩みが小さいものだと錯覚できるんだよ」
「つまり、あの非常階段は伊央の癒やしの場所ってこと?」
「そうだよ。悲しみとか苦しみとか、ぐちゃぐちゃになった気持ちが整理できて力がわいてくる。嫌なことを全部パワーにして、いつか平穏な毎日にしてやるんだって……。叶わないかもしれないけど希望を持てそうな気がしてくるんだ」
行こ、と天使のような笑顔になって歩き出す伊央の背中を、めぐるは不思議な気持ちで見つめる。
本当に同じ人なのだろうか。絶望と希望。もし相反する精神が共存しているのなら、伊央のすがる希望を失わせてはいけない。ひと筋の光がなくなってしまったら、彼は闇に飲まれ、消えてしまう。そんな気がした。
切なく繊細な調べが耳の奥にやわらかく広がり、目を閉じると無数の美しい星々が脳裏に浮かびあがる。乳白色の天の川に沿って赤や青の星雲が散らばり、絶え間なく流れ星が白い光線を描いた。
めぐるはイヤホンをはずすと、自室の掃き出し窓からベランダへ出て、天をあおいだ。
涼しげな風が吹き渡る深夜、思ったよりもクリアに見えた星は静かに瞬いて、その神秘的な輝きに思わず目を奪われた。
伊央が犯人なのだろうか。
──こんな世界なくなっちゃえばいいのに。
あの声はおそらく伊央だ。世の中になんらかの恨みがあるからこそのあのセリフなのだろうか。
伊央には謎が多い。もしかすると自分やクラスメイトの知らない顔があるのではないかと考えてしまう。
だが、すぐさま首を振って否定した。いや、そんなはずはない。伊央は、「動機がない」ときっぱり言いきった。その言葉を信じたい。信じなければ、伊央が手の届かないところに行ってしまうような気がした。
心も離れてしまったら、二度と取り戻すことはできない。伊央は流れ星のように儚く消えてしまうだろう。
翌朝、鏡のなかの疲れきった自分の顔がまるで死人みたいに思えた。無表情で覇気がない。めぐるは口の両端を指で押しあげ、無理やり笑顔を作った。
刑事から事情聴取を受けたのは三日前の金曜日のこと。吐き気はおさまったが、微熱と倦怠感で結局土曜日は学校を休んでしまった。
そして月曜日となったのだが、今朝も食欲が戻らず、朝食を半分ほど残してしまった。その後、めぐるは自宅を出る。まぶしい朝日が降りそそぐなか、校門まで続くゆるやかな坂道をのぼっていった。
しかし急に息苦しくなり、立ち止まる。寝不足の身体には燦々とした太陽の輝きとこの坂道はきつい。呼吸を整えていると、背後から伊央が心配そうに声をかけてきた。
「おはよ、まだ具合悪い?」
「ううん、もう平気。ぜんぜん元気!」
めぐるは強がって精いっぱいの笑顔を向ける。
「よかった。心配だったから、昨日めぐるの家に行ったんだ。でもお母さんに『今寝てます』って言われちゃった」
「う、嘘!? 聞いてないっ!」
めぐるは素っ頓狂な声をあげた。具合が悪いとへこたれている場合ではない。
「名前を言ったら急に機嫌を損ねちゃって。筧先生からぼくのことを聞いていたみたいだね」
「ごめん……」
「僕のせいでめぐるも警察に事情聴取されたんだから無理ないよ」
伊央はたいして気にしていない様子だが、めぐるにとってはそうでない。せっかく伊央が訪ねてきてくれたのに追い返すようなことをしてしまい、申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね。うちのお母さんが失礼なことして。説明はしたんだけど、いまだに誤解してるの」
自分の意思で伊央と一緒にいたのに、伊央にそそのかされたと思い込んでいためぐるの母親は、見舞いに来てくれた伊央に冷たくあたった。ふたりは十年ぶりの対面だったが、成長した伊央にめぐるの母親は気づくことはなかった。
「めぐるのお母さんは美人だね。色白できれいな顔をしてる」
「えっ……? うちのお母さんが美人? きれい?」
これまでそんなふうに思ったことは一度もない。他人にはそんなふうに見えるのかと唖然とする。
「それに十年前とあんまり変わってない」
「そ、そっかな?」
「うん、若いよ。めぐるに似てるね。あっ、逆か。めぐるが似てるのか」
伊央は照れたようにクスリと笑みを浮かべた。
「……あれ? うちのお母さんのこと、覚えてるの?」
「めぐるのお父さんのことも覚えてるよ。十年前、めぐるの家に行ったときに見た。あの頃ははお父さんに似てたけど、今はお母さん似だよ」
「相変わらず伊央の記憶力は尋常じゃないね。ていうか、お母さんに似てるって言われてもうれしくない」
「どうして? いいことだろう? 自分のルーツが明確なんだから」
「ルーツ……」
「僕は両親の顔を知らないから、ときどき不安になるんだ。いろんな意味で……」
めぐるは心臓をぎゅっとつぶされるような感覚がして苦しくなる。ルーツを知らない人間の気持ちなんて考えたこともなかった。
「やっぱり知りたい?」
「僕は……知らなくていい。本当のことを知ったとき……」
数秒ほど伊央が言葉につまった。しかしすぐに覚悟を決めたように口を開いた。
「その事実が、『おまえは誰にも祝福されずに生まれてきた人間なんだ』と烙印を押すものなら一生事実を聞かないでおいたほうがいい」
いつもの淡々とした口調ではない。きっと誰にも言えずに生きてきたんだろう。このときばかりは小さな子どもが脅えているようにも見えた。
「大丈夫?」
「ごめん、僕がめぐるを心配してたはずなのに逆になっちゃったね」
「ううん。それより、誰にも祝福されずに生まれてきたって……そんな悲しいこと言わないでよ。わたしは生まれてきてくれてありがとうって思ってるから」
どうかこの想いが伝わりますようにと、めぐるは真剣に訴えた。
「ありがとう。めぐるに言われるとうれしいよ」
「ずっとひとりで悩んでいたんだね」
「今まで誰にも言えなかった。だからいつも自分で解決した」
「どうやって?」
「たとえば高いところから世界を見おろすと、自分の存在はちっぽけなものだって思い知ることができる。視点が変わるだけで自分の悩みが小さいものだと錯覚できるんだよ」
「つまり、あの非常階段は伊央の癒やしの場所ってこと?」
「そうだよ。悲しみとか苦しみとか、ぐちゃぐちゃになった気持ちが整理できて力がわいてくる。嫌なことを全部パワーにして、いつか平穏な毎日にしてやるんだって……。叶わないかもしれないけど希望を持てそうな気がしてくるんだ」
行こ、と天使のような笑顔になって歩き出す伊央の背中を、めぐるは不思議な気持ちで見つめる。
本当に同じ人なのだろうか。絶望と希望。もし相反する精神が共存しているのなら、伊央のすがる希望を失わせてはいけない。ひと筋の光がなくなってしまったら、彼は闇に飲まれ、消えてしまう。そんな気がした。
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