必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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深淵の森

第4話

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 森の奥へ進むにつれ、空気はますます重苦しくなった。
 木々は異様に背を伸ばし、枝葉が頭上で絡み合って昼であることを忘れさせる。霧は消えず、地面を這うようにして靴を濡らした。

 荷馬車の列は速度を落とし、誰の顔にも疲労と不安が浮かんでいた。やがて、商人の一人がぽつりとつぶやいた。

「……やはり引き返すべきだった」

 返事はなかった。
 その沈黙が列の皆の胸に同じ後悔を映し、空気はよりいっそう重く沈んでいった。

 先頭付近でヴァルガンが歩みを止め、腕を組みながら隣を歩く年配の商人に視線を向ける。

「ひとつ聞きたい。あなたほどの方が、どうしてこんな危険を承知で先を急ぐんだ?」

 唐突な問いに、商人は眉をひそめ、数拍の沈黙が訪れた。やがて深く息を吐き、覚悟を決めたように話し出した。

「……国王に、この国の現状を知っていただかねばならぬのです」

 ヴァルガンの眉がさらに寄る。
 商人の声音には、軽々しく扱えるものではない重みがあった。表情は硬いが、その瞳の奥には揺るがぬ決意が宿っている。

「皆が無事に森を抜けられるかどうかすら分からない。だが、それでも行くしかない。街道は荒れ、魔の影が広がっている。王が知らぬままでは、この国は腐っていくだけだ」

 視線を少し落とし、商人は低く続けた。

「巻き込んで申し訳ない。だが、あなた方ならきっと大丈夫だと……そう判断しました」

 それを聞いたヴァルガンはしばらく沈黙した後、ゆっくりとうなずいた。いつもの豪胆さとは違い、珍しく真剣な影を顔に帯びていた。

 だがリリアには、その言葉の意味がまったく分からなかった。王や国の現状の重さを量る術がなかったのだ。
 
 ──そうか。だから私は、いらない人間なのかもしれない。

 ほんの少し前までは王都に暮らし、それなりの立場もあった。
 なのに今、リリアが理解できるのは「彼には命を賭けてでも伝えねばならないなにかがある」という事実だけだった。


 隣から小さなため息が聞こえた。カイだ。
 皮肉げな笑みを浮かべながらも、その目にはどこか不満が宿っていた。彼は歩調を合わせてリリアの傍に寄ってきた。

「なあ、リリア」

 静かな声。焚き火のぬくもりのように柔らかく、親密さがそのまま耳に届くようだった。

「……なに?」

 リリアはわずかに身をこわばらせる。問いの返事を待つように、胸の鼓動が早まった。

「そんな顔をするなよ」

 カイは穏やかに笑った。

「お前は役立たずなんかじゃない。俺はちゃんと見てる」

 その言葉にリリアの胸が締め付けられる。
 首を小さく振り、歩きながら革袋の重みを指先で確かめる。そこにある鈴は、今や意味を失っているように思えた。墓守の一族は切り捨てられ、役割も奪われたのだ。

「……私はただ荷物を抱えて震えていただけ。私にできることなんて、そんなものよ……」

「あるさ」

 カイは間髪入れずに返し、肩が触れそうな距離まで詰めた。笑みは柔らかく、声は囁くように甘い。

「お前の力は眠ってるだけだ。俺と一緒なら引き出せる。二重律を試そう。きっと、お前が思ってるよりずっと強い」

 リリアの心臓が大きく跳ねる。

「……でも、二重律は禁じられてる。そんなものを使ったら」

「古い掟なんて、守って誰が救われる?」

 その低い囁きは、まさに危険な誘惑そのものだった。カイの瞳は深い闇のようでありながら、どこか温かさを帯びている。

「お前はもう十分苦しんだだろう? もう、自分を縛らなくていい」

 その声は、傷口をそっと撫でる優しい手のようだった。リリアは息を詰め、視線を逸らす。

「大丈夫。俺と一緒なら……怖くない」

 吐息が頬をかすめ、リリアの心は激しく揺れた。
 墓守としての自分が必要とされない現実、掟を守ってもなにも残らないもどかしさ。
 そのすべてが、差し伸べられた手へとリリアを引き寄せる。

 ──墓守としての私は、もう必要とされていない。なら、せめて……。

 喉が熱くなり、唇が震える。

「……カイさん」

 リリアの口から漏れ出たのは懇願にも似た声だ。
 うなずきかけたその瞬間、森の奥から不気味なざわめきが広がった。


 風は吹いていないはずなのに、枝葉が一斉に揺れた。黒い影が地を這い、木立のあいだを駆け抜ける。
 霧が歪み、そこかしこに無数の眼のような光点が灯った。
 誰かが息を呑む。商人の子が泣き出し、馬がいななき、荷車の軋む音が一斉に響く。

 森が──蠢き始めた。


 土を裂く音がし、獣のような唸りが断続的に響いた。
 人々の鼓動が跳ね、子どもが叫ぶ。
 護衛の一人が「行け!」と叫ぶ前に、薄闇から手が伸びた。細く冷たい指が、商人の子の肩を掴む。

 子が悲鳴を上げ、母親が咄嗟に飛び出した。母は子を抱きしめ、自らを盾にした。

 金属と肉がぶつかる音。
 母の衣が引き裂かれ、暗いしぶきが地に落ちる。

 リリアは鈴を掴んだが、その指先は震え、半歩遅れた。頭の中で祖母の言葉と禁忌の映像がぶつかり合い、身体が一瞬固まった。

 カリムの剣閃が闇を裂き、カイの律が風を引いた。
 怪異は散ったが、母は膝から崩れ落ちた。
 母の胸元から血が滲み、周囲に鉄の匂いが立ち込めた。子は母にしがみつき、顔を埋めて嗚咽を繰り返す。
 商人たちが慌てて包帯を当てるが、胸の動きは刻々と弱まっていった。

「ここに置いていくしかない。血の匂いであいつらがまた寄るんだ。動ける者だけで進むんだよ」

 周囲の大人たちは声を落としてうなずき、短く祈りをつぶやいた。

 リリアは膝をつき、母の顔を覗き込む。鈴を握る手の甲が白くなっていく。胸の奥が凍りつく。

 ──死者に名を与え、導く。

 祖母が教えてくれた。それが務めのはずだった。

 だというのに、唇が震えるだけで、言葉にはならなかった。
 祈りの言葉は口の中で砂のように砕け、出てこなかった。
 
 わずかな息が消え、まぶたが静かに閉じられると、リリアの世界は無音になった。
 周囲の祈りも誰かの呟きも、遠くの波紋のように薄れていく。リリアはただ、鈴を握ったまま震えていた。

「君が迷っていたからだ。ためらったから、あの母親がここに横たわっているんだよ」

 耳元で囁くように聞こえたその声は、思いのほか冷たく響いた。
 カイの瞳が、いつになく厳しくリリアを射抜く。甘い言葉は刃に変わり、リリアの胸に深く突き刺さる。言葉は責めであり、同時に誘いでもあった。

 商人たちは小さく十字を切り、抱えきれぬ悲しみを噛みしめながら列を整える。
 しかし、リリアは立ち上がれない。
 鈴は冷たく、指の中で振動を失っている。祈るべき人の前で祈ることができない自分を突きつけられる苦さが、リリアの胸を切り裂いた。

 夜が再び森を覆う。
 人々は進むしかないと決め、残された母の体は霧の中へと消えていった。
 
 リリアの胸の中で別の火が灯った。それは恥であり、怒りであり、絶望であり、そして不器用な決意でもあった。

 ──もう迷わない。二度と、誰かが死ぬのを見たくない。

 その思いを胸に、リリアは歯を食いしばって列の後を追った。
 カイの囁きは未だ耳に残り、森の向こうで次の影が蠢いているのをリリアは知っていた。
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