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第4話 決別
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式典の会場に戻ろうと回廊へ足を踏み入れようとした、そのときだった。
「随分と楽しそうだったな」
低く怒りを抑えたような声が聞こえた。
足を止めて振り向くと、そこに王太子が立っていた。
いつから剣士とのやり取りを見ていたのかは分からない。
けれど、その表情が今まで一度も見たことのないものだということだけは、はっきりと分かった。
「剣士と何を話していた」
ただの問いかけというより、詰問に近い声音だ。
驚きはしたものの、私はいつも通りに笑みを浮かべながら答える。
「世間話ですわ」
当たり障りのない、無難な返事を口にする。
だが、その言葉を耳にした途端、王太子の眉が不快感を表すようにピクリと動いた。
「……笑っていたな」
「ええ」
事実なので、私は素直に肯定する。
すると、王太子はわずかに唇を噛んだ。
「君はっ──」
王太子は一歩、こちらに近づく。
私の肩を掴んで、至近距離から睨みつけてくる。
「私の婚約者だろう」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
ほんの少し、思っていたよりもずっと小さな動揺だった。
そのことに、私は大きく驚いた。
「存じていますわ」
「なら、なぜ──」
そこで王太子の言葉が途切れる。
続きが見つからない、そんな顔だった。
──ああ、そうか。この人は今さら気づいたのね。
剣士と話していたことが気に入らないのか。
私が笑っていたことが、許せないのか。
そのどれもが、今の私にはもう関係なかった。
「殿下」
私は静かに言った。
「お話がございます」
彼は一瞬、身構えるように息を呑んだ。
それを見て、少しだけ申し訳なくなる。
とうに諦めていたとはいえ、物心ついた頃からともに育った人が困っている姿を見るのは、耐えがたいものがある。
──でも、私は引き返すつもりはなかった。
その日のうちに、私は王太子に二人きりで話せる場を求めた。
静かな部屋。
窓から差し込む夕暮れの光が、床に長い影を落としている。
「改めて、何の用だ」
王太子はそう言ったが、声はどこか落ち着きがなかった。
私は深く息を吸う。
これまで何度も、頭の中で繰り返してきた言葉だ。
だから、声は不思議と震えなかった。
「婚約を解消してください」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……なぜ、今なんだ」
王太子の声は低く掠れ、戸惑いを含んでいる。
「今でなくては、いけません」
「理由は?」
縋るような視線。
私は少しだけ考えてから、正直に答えた。
「このままでは、私が私でなくなるからですわ」
王太子は目を見開いた。
「君は、何も不自由していないだろう」
「ええ。立場も、待遇も、素晴らしいものを与えていただいております」
だからこそ、と私は続ける。
「心だけが、ずっと置き去りでした」
重苦しいほどの沈黙。
王太子は何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。
「……お、俺は……」
ようやく絞り出した声。
その声音は、どこか焦っていた。
「君を軽んじていたつもりは、ないんだ……」
「分かっておりますわ」
私は微笑んだ。
それは、公の場で使うための笑顔ではない。
取り繕う必要のない、自然に出た笑み。
「だからこそ、なおさらです」
私の言葉に、王太子は拳を握りしめた。
「君は、俺の隣に立つ人間だ!」
「いいえ、違います」
私は、はっきりと首を振った。
「私は、あなたが選ばなかった人間です」
その一言が、決定打だった。
「殿下が私以外の誰かを見ていた時点で、答えは出ていたのですわ」
王太子は何も言えなくなった。
彼は反論も、否定の言葉も、口には出さなかった。
「あなたが選んだ方を大切になさってください」
これ以上の言葉は不敬だろうか。いや、未練がましいと思われるだろうか。
そんな考えが頭をよぎったが、それでも私の口は止まらなかった。
「私は私の人生を、自分で選びます」
きっぱりと言い切った。
そんな私の言葉を傷ついたような顔をして聞いていた王太子は、長い長い沈黙のあと「分かった」とだけ、絞り出すような声で言った。
それで、十分だった。
王太子と別れたあと、自室に戻る途中でこれまでずっと胸の奥にあった重たいものが、すっかり消えていることに気づいた。
私は、ようやく自由になったのだ。
「随分と楽しそうだったな」
低く怒りを抑えたような声が聞こえた。
足を止めて振り向くと、そこに王太子が立っていた。
いつから剣士とのやり取りを見ていたのかは分からない。
けれど、その表情が今まで一度も見たことのないものだということだけは、はっきりと分かった。
「剣士と何を話していた」
ただの問いかけというより、詰問に近い声音だ。
驚きはしたものの、私はいつも通りに笑みを浮かべながら答える。
「世間話ですわ」
当たり障りのない、無難な返事を口にする。
だが、その言葉を耳にした途端、王太子の眉が不快感を表すようにピクリと動いた。
「……笑っていたな」
「ええ」
事実なので、私は素直に肯定する。
すると、王太子はわずかに唇を噛んだ。
「君はっ──」
王太子は一歩、こちらに近づく。
私の肩を掴んで、至近距離から睨みつけてくる。
「私の婚約者だろう」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
ほんの少し、思っていたよりもずっと小さな動揺だった。
そのことに、私は大きく驚いた。
「存じていますわ」
「なら、なぜ──」
そこで王太子の言葉が途切れる。
続きが見つからない、そんな顔だった。
──ああ、そうか。この人は今さら気づいたのね。
剣士と話していたことが気に入らないのか。
私が笑っていたことが、許せないのか。
そのどれもが、今の私にはもう関係なかった。
「殿下」
私は静かに言った。
「お話がございます」
彼は一瞬、身構えるように息を呑んだ。
それを見て、少しだけ申し訳なくなる。
とうに諦めていたとはいえ、物心ついた頃からともに育った人が困っている姿を見るのは、耐えがたいものがある。
──でも、私は引き返すつもりはなかった。
その日のうちに、私は王太子に二人きりで話せる場を求めた。
静かな部屋。
窓から差し込む夕暮れの光が、床に長い影を落としている。
「改めて、何の用だ」
王太子はそう言ったが、声はどこか落ち着きがなかった。
私は深く息を吸う。
これまで何度も、頭の中で繰り返してきた言葉だ。
だから、声は不思議と震えなかった。
「婚約を解消してください」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……なぜ、今なんだ」
王太子の声は低く掠れ、戸惑いを含んでいる。
「今でなくては、いけません」
「理由は?」
縋るような視線。
私は少しだけ考えてから、正直に答えた。
「このままでは、私が私でなくなるからですわ」
王太子は目を見開いた。
「君は、何も不自由していないだろう」
「ええ。立場も、待遇も、素晴らしいものを与えていただいております」
だからこそ、と私は続ける。
「心だけが、ずっと置き去りでした」
重苦しいほどの沈黙。
王太子は何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。
「……お、俺は……」
ようやく絞り出した声。
その声音は、どこか焦っていた。
「君を軽んじていたつもりは、ないんだ……」
「分かっておりますわ」
私は微笑んだ。
それは、公の場で使うための笑顔ではない。
取り繕う必要のない、自然に出た笑み。
「だからこそ、なおさらです」
私の言葉に、王太子は拳を握りしめた。
「君は、俺の隣に立つ人間だ!」
「いいえ、違います」
私は、はっきりと首を振った。
「私は、あなたが選ばなかった人間です」
その一言が、決定打だった。
「殿下が私以外の誰かを見ていた時点で、答えは出ていたのですわ」
王太子は何も言えなくなった。
彼は反論も、否定の言葉も、口には出さなかった。
「あなたが選んだ方を大切になさってください」
これ以上の言葉は不敬だろうか。いや、未練がましいと思われるだろうか。
そんな考えが頭をよぎったが、それでも私の口は止まらなかった。
「私は私の人生を、自分で選びます」
きっぱりと言い切った。
そんな私の言葉を傷ついたような顔をして聞いていた王太子は、長い長い沈黙のあと「分かった」とだけ、絞り出すような声で言った。
それで、十分だった。
王太子と別れたあと、自室に戻る途中でこれまでずっと胸の奥にあった重たいものが、すっかり消えていることに気づいた。
私は、ようやく自由になったのだ。
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