魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

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逸文 比翼連理 四十

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(で、わたしは如何する……?)
 と、ふと思い、りくはさびしいような変な気持ちに襲われたが、気がつくと横で新三郎が書物の束を抱えている。その手に、見慣れぬ、黒い皮布をぶら下げていた。
(思うまでもない、若旦那のおそばにいる限り、わたしは伊勢の者でなければならぬ。……左様にありたい。)
 その思いは強かった。新三郎の女になったのだ、と思えたときに、むしろそれを強く意識するようになったのが、不思議だった。
(もしも伊勢の者でなくなってしまえば、生きていけぬ。なぜなら、りくは、いずれ……。)
 りくが忘れていたいことだった。幸せの中にある今、ほんとうにきれいに忘れてしまうこともあった。けれども、
(このお離れでは、思い出さぬわけにはいかんな。)
 新三郎に顔を隠して、こっそり、苦笑いが浮かべた。
(四年か五年で、姫さまのお宿りになる松前の幼い姫さまも大人になる。新三郎さまと、ご夫婦のことも、なされる。そのとき、姫さまがお命じになった、りくの役も終わりじゃろうか。)
 正室と閨をともにするようになったからといって、新三郎が弊履のように自分を捨てるとは、恋する者としてとても思いたくはない。だが、あの松前大舘に自分の場所があるわけではなかろう。どうしても疎遠になる。
 そして、りくはもう二十歳をひとつ超えている。最近、新三郎との恋が実ったおかげで見違えるほどに美しくなったのが誇らしいが、加齢とともに、これから容色は衰えよう。この時代の感覚からすれば、そんな風に思わなくてはならない。
(そんな姥が、室でもない分際で、おそばに侍るなど、ありうるものか!)
 りくはその育ちからも、いまの稼業のくせからも、ひどく悲観的なところがある。
(お子でもあげれば、それは別よ。蠣崎のお血筋に、生みの母として繋がれる。大舘の、あのもとは家の女たちのように。じゃが、それは……?)
 新三郎が一向に自分に子種をくれないのも、悲しい予感を実は後押ししている。あれほど熱っぽく可愛がってくれながら、最後に体液をりくの腹の中に注ぐのは、かたくなに避けるのだ。りくの考えでは、それも、あの姉弟相克の体を偽装した凄惨なお家騒動からようやく立ち直りつつある蠣崎家の平穏がゆらぐのを、新三郎が怖れるかららしかった。正妻より前に側女が男子を産んでしまった場合、庶子の長子ができてしまう。跡継ぎの争いの種だとでもいうのだろうか。
(……だが、離れとうない。新三郎さまのおそばにいたい。たとえもう閨をともにできずとも、おそばにだけはいたい。お話したい、一緒に笑い……はできずとも、せめて、お笑顔を遠くで見たい。お声が聴きたい。……そのためには、お役にたたねばならぬ。伊勢の者として、使い続けて貰わねばならぬ。)
「りく、これを見たことがあるか?」
 新三郎は、屈託がない。りくは悲しい思いを折りたたむようにしまい込むと、
「なんです、その布は?」
「鮭の皮を繋ぎ、編んだものじゃ。油紙のうえからさらにこれでご本を包めば、よし潮をかぶっても汚れまい。」
「お念入りなことで、結構じゃ。しかし、鮭の皮とは。蝦夷の作ったものでしょうか。」
 ああ、と頷きながら、新三郎は書物を積み上げたものを、まず紐で縛ろうとする。
(不器用じゃな。)
 りくはおかしく思いながら、手伝ってやるために屈んだ。
 伏せた頭の上に、新三郎の顔がある。
(……りくの、髪の香か。)
 新三郎の中に、鬱勃としたものが起こりかけた。細い肩と、丸みを帯びた背が見下ろせた。
(ああ、いま、抱き寄せたい。抱きつぶすほどに、堅く抱いてやりたい。きっと、温かく、そして、またよい匂いをあげるのだろう。りくよ!)
 男の気配は、紐を結んでいるりくにも伝わった。
(あ、若旦那。ここで、まさか?)
 りくが自分を責めたことに、躰に甘味を帯びた震えが走っていた。いま、新三郎のあのやさしい手がかかったら、たちまち自分は別の生き物になってしまうと思った。そして、無性に、それが欲しかった。
(さ栄姫さまのお離れではないか。いかぬ。)
 二人同時に同じことを思い、自制した。
 荷を作り終えると、新三郎は、りくに言った。すでに少し、落ち着いている。
「すまぬな。思うていたより数も増えたが、伊勢やの荷のなかに入れておいてくれ。」
「はい、たしかに大舘にお届けさせましょう。」
「受け取るは、松前の伊勢やか。よしなに頼んでくれ。……りく、大儀の礼がしたい。」
「お礼など。」
「しかしこれは、お前の仕事とは言えまい?……よろしうはないわ。……あとで、来てくれ。」
 その口調に、誘われているのだとわかった。りくの顔が紅潮する。無言で、頷いた。新三郎も、わざと不機嫌に作ったような表情になって、無言で頷き返した。離れの窓や戸を閉めていく。りくもそれを手伝った。
 やがて、荷作りが終わった。軽々と運べる、ちいさな荷だ。
「お尋ねを忘れておったわ。どこに、参りましょう?」
「あそこさ。」すぐ目の前にある、蠣崎家の古屋敷を顎でしゃくる。両手が重い木戸にかかっている。ようやく閉めた。暗闇が来る。
 窓格子から差し込む光以外にはなく、うす暗いなかで、埃の匂いが急に鼻をついた。
(ご本をお送りしてしまえば、おれはもう、あまりここには来ることはない。いや、二度と足を踏み入れぬかもしれぬ。)
 新三郎は急に気づいた。
(左様よ。おれはいま、浪岡御所を離れようとしている。お城で最も愛着深い、このお離れに別れを告げる準備が、徐々にはじまった。)
「あそこ、とは……? お屋敷ではありませぬか。」
 りくの声で我に返った。
「うん。膳を用意させる。お前と違うて、大したものは出せぬが、食っていってくれ。」
「滅相もございませぬよ。出奔したりくが、蠣崎のご隠居さまや若様にお目通りかなうわけがありませぬ。このお離れなぞに罷りこすも、ひやひやとしておりました。たとえ台所の隅でも、いつ顔を見られるやしれませぬ。」
「りく、いまのお前は、あの婢のりくだとはわからぬかもしれんぞ。」
「あら?……それは?」
「うむ。……伊勢やの御寮人というたら、それでじいじ様にも通りはすまいか?」
「お褒めいただいたのやら、老けたといわれたのやら、何やら……。」
 わかっている。新三郎は、りくがいっそう美しくなったと言いたいのだ。りくはうれしくなったが、それにしても蠣崎家には足を踏み入れられようはずもない。
「……言い忘れたがな。心配は無用じゃ。明日まで、ご隠居は寺参り。若当主は、不寝番で中館に詰めておる。お前の顔を知る者は、蠣崎屋敷には、こぶえしかおらぬ。」
 りくは思わず、胸を抑えた。

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