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二章「雨の日の記憶」
九、
しおりを挟む九、
まだこの神社から矢鏡を帰して欲しくない狛犬が悪戯でもしたのだろうか。
予想外の雨がしとしとと降り始めた。小雨なので走って帰ることも出来たが、矢鏡は「少し待つか」と言い、拝殿の中への入っていったので、紅月もその後についていく。
穴が空いている木製の屋根から雨が落ちるが、それをさければ、雨宿りには十分すぎる場所だった。雨が肌に張り付いたからだろう。少し肌寒さを感じ始めたので、紅月は自分の両手を抱くようにして座った。
「しばらくしたら止みそうな雨だな」
「そうですね」
「家には戻るのか?」
「実家には帰らないです。帰ると話しをしてないので」
「そうか」
そう言うと、矢鏡は紅月の肩を抱き寄せ、自分の片腕の中にしまってしまう。紅月は驚き、彼の顔を見上げる。彼は少し恥ずかしそうにしながら「寒いのだろう?」と言った。けれど、その後すぐに苦笑いに変わる。
「俺が抱いたとしても、余計に寒いだけかもしれないが」
「そんな事ないです。温かいです」
体感的には寒いのかもしれない。
けれど、心の中がポカポカするのだ。夫婦となり、一緒に寝る時も手を繋ぐときも、冷たいはずの彼の感触とは違い、心が陽だまりの中にいるように温かくなるのだ。
ずっと避けていた人との関わりが、こんなにも愛しいものだと初めてその時に知った。家族と過ごす時間とは少し違う、愛しい人と共にいる甘くて温かい、尊い時間。
それは、矢鏡だから感じられる感情だというのも、紅月にはわかっていた。
まだ素直に甘えるの恥ずかしさがあったが、今日だけは「寒いから」という理由で、自分から彼に近づけるのではないか。自分のあざとい感情が更に羞恥心を感じさせるが、それでも紅月は矢鏡の肩に自分の頭を近づけようとした。その時に、予想外の音が神社内に響いた。
「おまえ、こんな所で何をしている!?」
「ッ!?」
突然大声で怒鳴られた紅月は体を震わせた後、声の方へと咄嗟に顔を向ける。
すると、そこには杖をついた傘寿を超えたぐらいの老婆の姿があった。白髪が多くなった髪を後ろで乱雑にしばり、落ち着いた柄のシャツにゆったりとしたズボンにスニーカーという、年相応の服装をした腰が少し曲がった老婆。紅月は驚きながら、その老婆に近づき持っていたカーディガンで濡れてしまっている頭にかけようとするが、その老婆は「私に近づかないでおくれ!」杖を地面に強く打ちつけながら紅月を罵倒した。
「おばあさん。一人でここまで登ってきたのですか?こんな急な階段を」
「見たこともない女がこの祟り神の神社に入っていくのを見かけたからね。私だったこんな呪われた場所なんて来たくなかったよ」
「……祟り神って、そんな。ここの神様は村の人を大切に思っている矢鏡様の……」
「その名前を口にしないでおくれッ!」
般若のような表情になりながら怒鳴る老婆は、紅月を睨みつけた後、ゆっくりとした歩調で拝殿前の参道を歩く。途中で狛犬の事を杖で叩いたり、拝殿を穢れたものを見るように顔をしかめたりしており、矢鏡神社を心底嫌っているのが伝わって来た。
「どうして、そこまでここを嫌ってらっしゃるのですか?」
紅月は震える声でそう老婆に尋ねる。
視線は拝殿の方に向けており、老婆の背中に向けているように見えるかもしれない。が、紅月の瞳には無表情のままその老婆を見つめる矢鏡の姿が写っていた。矢鏡は、先程2人で座っていた場所からは一歩も動かずに、突然現れ怒っている老婆を見つめているだけだった。
紅月の問いかけに、老婆は馬鹿にしたように声を吐き出した。
「そんな事も知らないでここに参拝に来たのかい?いいかい、ここにいるのは祟り神でもない。ただの人間なんだよ。祈ると呪われる。さっさと壊してしまえばいいんだ。おまえみたいな何もしらにでお参りにくる奴がいるから、ただの人間であるこの神社が消えないんだ。私たちには、蛇神様がいるのだから」
そう言うと、矢鏡が見えていないはずの老婆は、彼が座っているすぐ隣りの腐りかけた床をダンダンッと今までで1番強く杖で叩き。「村人じゃない奴は帰りな」と、またゆっくりと来たばかりの参道を戻っていく。
「ちょっと待ってくだ………」
「いい。紅月」
「矢鏡様」
老婆に対して、反論しようとした言葉を矢鏡と止められてしまう。諦めと、興味がないような、そんな低く小さな声だった。彼の方を振り向くと、矢鏡は先程から変わらない無表情のままだった。
けれど、紅月は些細だけれど、彼の瞳が揺れているのに気づいた。
それもそのはずだ。
面と向かって自分が守っている村人に「祟り神」「さっさと壊してしまえばいい」と言われたのだ。ショックを受けないわけがないだろう。
紅月がゆっくりと近づき、今度は自分から手を差し伸べた。
「矢鏡様。帰りましょう。もうお参りは終わりましたから」
「あぁ。そうだな」
雨が強くなってきた。
それでも、今はこの場所に居ない方がいいと思った。それが、彼の家だったとしても。
矢鏡神社から離れなければ、そう思ったのだ。
案の定、雨は強くなるばかりで、山を下りる頃には、頭の先から靴までもずぶ濡れになり、靴には泥がついてしまっていた。あの老婆が使っていた階段も使えなかったため、遠回りして下山したため、酷く時間と体力を使ってしまった。すぐにでもタクシーを呼びたかった。けれど、水浸しの泥だらけの紅月の姿では、タクシーにも乗車を拒否されてしまうだろう。歩けば2時間ぐらいかかるが、移動手段がないので徒歩で駅の近くの実家やホテルまで行こうとした。
「それはダメだな。風邪ひくぞ」
「ですが、それしか方法が……」
「先程お前が俺の神社を参ってくれたからな。少しなら力が使える」
「え……」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、紅月の体が変化が見られた。
紅月の周りだけ、陽だまりのような温かな光りが発生し、ふわりと春の風が訪れたのだ。そして、紅月の体の通り過ぎる時に、体や服についていた水滴な泥などを全て運んで去っていった。
そして、残ったのはよく晴天の下に干していた洗濯物の太陽の香りだった。
そして、その光が消える頃には、安心する香りがする洗い立ての洋服に、すっかり乾いた体に戻っていた。
「矢鏡様、これは……」
「神様だから。それぐらい出来る。また濡れる前に車を呼ぶんだろ?」
「は、はい。ありがとうございます」
紅月は、神社の近くの民家の屋根付きの駐車場を借りてタクシーを呼んだ。
タクシーが到着し、駅までの十数分。
矢鏡は一言も発しなかった。
新幹線の中でも、「疲れたから寝る」と言って、珍しがった行きとは打って変わって、目を閉じてしまった。
そんな矢鏡の手を、紅月はずっと握りしめていた。
少しだけ、温かくなった手。けれど、自分が手を離してしまえば冷たくなり、氷りのように溶けてなくなってしまうのではないか。それが心配で仕方がなかった。
「矢鏡様。先ほどのおばあさんが話していた事、教えていただけませんか?」
家に戻って来た頃には、雨足はさらに激しさを増しており、大雨洪水警報が出るのではないかと思われるほど強くなっていた。すっかり体も冷え切っているだろうと、紅月は温かい緑茶を矢鏡に作り、テーブルに置きながらそう彼に問いかけた。
「そうだな。紅月には話しておいた方がいいな。夫婦なのだから」
お茶を一口飲んだ後、息を吐くように矢鏡はそう言った。
それに対して、紅月は「はい」と、まっすぐとした視線のままで返事をすると、夫婦という言葉を出せば照れるだろうと思っていたのか、矢鏡は少しばかり驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐに嬉しそうに口元を緩ませて微笑んだ。
「隠し事はダメだからな。……ちなみに、紅月の嘘とやらはいつ教えてくれるのだ?」
「それは……」
夫婦になるにあたり紅月が矢鏡に提示した条件。嘘をついている事を許して欲しいというものだ。
それを出されてしまうと、紅月は何も出来ない。
今、彼にそれを教えて事など出来ないのだから。
「悪い。冗談だ。俺が知るようになるまで待っている」
「……すみません」
「そういう約束だからな、気にするな。それでは、俺の話をしようか。俺と蛇神の話、を」
紅月の嘘。
それがバレてしまったら。そんな事を考えながら「ごめんなさい」と何度も心の中で彼に謝り続けていた。
この場所がもし矢鏡神社だったら、全てお見通しだったのだろうか。神社で話を聞かなくてよかった。
そんな風に思いながら、紅月は彼の話に耳を傾けた。
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