残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心

遊鷹太

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第6章「夜更けの雨」

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月曜日から金曜日まで、亜季は毎晩カフェに通った。
悠斗もいつものように窓際の席にいて、亜季が入ると笑顔で迎えてくれた。
映画の約束は、今週の土曜日に決まった。
「何を見ますか?」
「恋愛映画がいいって言ってましたよね。今、ちょうどフランス映画が公開されてて」
「フランス映画?」
「はい。パリを舞台にした恋愛映画です。評判もいいみたいで」
「いいですね。それにしましょう」
悠斗はスマートフォンで上映時間を調べた。
「土曜日の午後二時からと、夜七時からがあります。どっちがいいですか?」
「夜がいいです」
なぜか、そう答えていた。昼間よりも、夜の方がロマンチックな気がした。
「わかりました。じゃあ、七時の回で。六時半に映画館の前で待ち合わせましょう」
「はい」
約束が決まって、亜季は嬉しかった。
でも、同時に緊張もしていた。
映画を見た後、告白する。
そう決めていた。
金曜日の夜、カフェで悠斗と話しているとき、悠斗が急に言った。
「高梨さん、明日楽しみですね」
「はい、楽しみです」
「僕も。久しぶりに、映画館で映画を見ます」
「いつも、家で見るんですか?」
「最近はそうですね。一人で映画館に行くのも、なんだか寂しくて」
「わかります。私も、最近映画館に行ってなくて」
「じゃあ、明日は二人で楽しみましょう」
悠斗は優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、亜季の心臓が早く打った。
明日。
明日、この人に告白する。
そう思うと、怖くて、でも楽しみで、複雑な気持ちになった。

土曜日は、朝から雨が降っていた。
窓を開けると、冷たい雨が顔に当たる。
天気予報では、夜には止むと言っていた。でも、空はどんよりと曇っている。
亜季はクローゼットの前で悩んだ。
何を着ていこう。
前回の美術館のときは、白いブラウスとベージュのパンツだった。
今回は、もう少しおしゃれをしたい。
結局、紺色のワンピースを選んだ。シンプルだけれど、女性らしいライン。膝丈で、上品な印象。
髪も、いつもより丁寧にセットした。少し巻いて、柔らかい印象に。
メイクも、いつもより時間をかけた。口紅は、少し明るめの色。
鏡を見る。
いつもと違う自分がいた。
仕事モードの自分じゃない。女性としての自分。
少し照れくさかったけれど、悪くない。
時計を見ると、まだ午後三時。待ち合わせまで三時間以上ある。
亜季は部屋で時間を潰した。本を読んだり、テレビを見たり。でも、集中できない。
五時になって、家を出た。
映画館まで一時間もかからないけれど、早めに出たかった。
電車に乗って、窓の外を見る。雨は、まだ降っている。
映画館の最寄り駅に着いたのは、六時過ぎだった。
まだ時間があるので、近くのカフェでお茶を飲んだ。
六時二十五分になって、映画館に向かった。
映画館の前には、もう悠斗が待っていた。
黒いジャケットに白いシャツ。ジーンズ姿。いつもよりおしゃれをしている。
「あ、高梨さん」
悠斗が気づいて、手を振った。
「お待たせしました」
「いえ、僕も今来たところです」
悠斗は亜季を見て、少し驚いたような表情をした。
「…綺麗ですね、今日」
「え?」
「いつもと雰囲気が違って。ワンピース、似合ってます」
その言葉に、亜季は顔が熱くなった。
「ありがとうございます」
「じゃあ、チケット買いましょう」
悠斗が二人分のチケットを買った。
「割り勘にしましょう」
「いいですよ。今日は、僕が誘ったんだから」
「でも…」
「次は高梨さんが払ってください」
悠斗は笑った。
次、という言葉が嬉しかった。
次も、一緒に出かける約束。
それは、今日の告白が成功することを前提にしている気がした。
映画館に入って、席に座る。二人並んで座る席。
照明が暗くなって、映画が始まった。
パリの街並みが映し出される。セーヌ川、エッフェル塔、石畳の道。
主人公は、三十代の女性。恋愛から遠ざかっていたけれど、偶然出会った男性と恋に落ちる。
その展開が、まるで自分たちのようで、亜季は少しドキドキした。
映画の中で、二人は様々な障害を乗り越えて、最後には結ばれる。
エンディングで、二人がキスをするシーンがあった。
亜季は、横にいる悠斗を意識した。
悠斗も、映画を見ている。真剣な表情で。
その横顔が、美しかった。
映画が終わって、照明がついた。
二人は映画館を出た。
「よかったですね」
「本当に。泣きそうになりました」
「僕も。最後のシーン、よかったです」
二人は並んで歩いた。
外は、まだ雨が降っていた。
「あれ、まだ雨…」
「天気予報では、夜には止むって言ってたのに」
悠斗は空を見上げた。
「どこかで雨宿りしましょうか」
「そうですね」
二人は近くのカフェに入った。
窓際の席に座って、コーヒーを注文する。
「映画、どうでした?」
悠斗が聞いた。
「すごくよかったです。主人公の気持ち、わかる気がしました」
「どんなところが?」
「恋愛から遠ざかっていたのに、誰かを好きになって。でも、その気持ちを伝えるのが怖くて」
亜季は正直に言った。
「主人公、勇気を出して告白しましたよね」
「はい」
悠斗は真剣な顔で亜季を見た。
「高梨さんも、そういう状況ですか?」
「え?」
「好きな人がいて、でも告白できないでいる」
その言葉に、亜季の心臓が跳ねた。
「…どうして、そう思うんですか?」
「なんとなく。最近、高梨さん、何か悩んでるように見えたので」
悠斗は優しく微笑んだ。
「もしそうなら、勇気を出した方がいいと思います。後悔するより、伝えた方がいい」
その言葉が、背中を押してくれた。
そうだ。今、言わなきゃ。
「佐久間さん」
「はい」
「私…」
言葉が出かかった。でも、喉が詰まって、言えない。
コーヒーが運ばれてきた。
タイミングを逃した。
二人は黙ってコーヒーを飲んだ。
窓の外では、雨が激しくなっていた。
「すごい雨ですね」
「本当に。これじゃ、帰れないかも」
「もう少し待ちましょうか」
「そうですね」
それから、二人は他の話をした。映画の感想、好きなシーン、印象に残ったセリフ。
でも、亜季の頭の中では、さっきの言葉が繰り返されていた。
「勇気を出した方がいいと思います」
そうだ。勇気を出さなきゃ。
九時を過ぎても、雨は止まなかった。
「困りましたね」
「傘、持ってないんですか?」
「持ってないです。朝は降ってなかったので」
「僕は持ってます。相合傘しますか?」
悠斗が提案した。
相合傘。
その言葉に、亜季の心臓が早く打った。
「でも、佐久間さんの家と私の家、方向違いますよね」
「じゃあ、高梨さんの家まで送ります」
「え、でも…」
「いいですよ。こんな雨の中、一人で帰すわけにいきません」
悠斗は優しく笑った。
「じゃあ、お願いします」
二人はカフェを出た。
悠斗が傘を開いて、亜季の肩に手を回した。
「近づいてください。濡れちゃいますから」
亜季は悠斗に寄り添った。
悠斗の体温が伝わってくる。シャンプーの香りがする。
心臓が、早く打っている。
二人は駅に向かって歩いた。
雨音だけが響いている。
「高梨さん」
悠斗が口を開いた。
「はい」
「僕、言いたいことがあります」
「何ですか?」
「でも、今じゃないかもしれない。もう少し、タイミングを見て」
「タイミング?」
「はい」
悠斗は何も言わなかった。
でも、その声には、何か特別な響きがあった。
電車に乗って、亜季の最寄り駅に着いた。
駅を出ると、また雨の中を歩く。
「もうすぐですか?」
「はい、あと五分くらいです」
二人は並んで歩いた。
亜季のマンションに着いた。
「ここです」
「そうですか。じゃあ、ここで」
悠斗は傘を閉じようとした。
「あの、佐久間さん」
「はい」
「少し、上がっていきませんか?コーヒーでも」
亜季は勇気を出して言った。
悠斗は少し驚いた表情をした。
「いいんですか?」
「はい。お礼もしたいですし」
「わかりました。じゃあ、少しだけ」
二人はマンションに入った。
エレベーターで五階まで上がる。
部屋の鍵を開けて、中に入る。
「散らかってますけど」
「いえ、大丈夫です」
悠斗は靴を脱いで、部屋に上がった。
亜季は慌てて、ソファの上の洗濯物を片付けた。
「座ってください。コーヒー、入れますね」
「ありがとうございます」
キッチンでコーヒーを入れながら、亜季は深呼吸をした。
今、二人きり。
この機会に、告白しなきゃ。
コーヒーを持って、リビングに戻った。
悠斗はソファに座って、部屋を見回していた。
「シンプルな部屋ですね」
「一人暮らしなので、物も少なくて」
「僕もです。必要最低限のものしか置いてないです」
二人はコーヒーを飲んだ。
窓の外では、雨がまだ降っている。
「佐久間さん」
「はい」
「さっき、言いたいことがあるって」
「あ、はい」
悠斗は少し緊張した表情になった。
「でも、まだタイミングじゃないかもしれない」
「どうして?」
「高梨さんが、混乱するかもしれないから」
「混乱?」
「はい」
悠斗は亜季を真っ直ぐに見た。
「僕、高梨さんのこと、好きです」
時間が止まった。
「え?」
「好きです。ずっと前から」
亜季は、何も言えなかった。
「最初に目が合ったとき、何か特別な感じがしました。それから、話すようになって、もっと好きになりました」
悠斗は続けた。
「一緒にいると、落ち着くんです。自然体でいられる。高梨さんといると、一人じゃないって感じられる」
「佐久間さん…」
「でも、高梨さんには後輩の方がいて。だから、言えなかった。でも、今日、映画を見て思ったんです。後悔したくないって」
悠斗は立ち上がって、亜季の前に座った。
「高梨さん、僕と付き合ってください」
亜季の目から、涙が溢れた。
「どうして、泣くんですか?」
「嬉しくて」
「嬉しい?」
「私も、佐久間さんのこと、好きです」
今度は、悠斗が驚く番だった。
「本当ですか?」
「本当です。ずっと、言えなくて。でも、今日、映画の後に告白しようって決めてました」
「そうだったんですか」
悠斗は笑った。
「じゃあ、お互い同じ気持ちだったんですね」
「はい」
二人は顔を見合わせて、笑った。
悠斗が亜季の手を取った。
「改めて。高梨さん、僕と付き合ってください」
「はい」
亜季は涙を拭いて、微笑んだ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
悠斗は亜季を優しく抱きしめた。
温かい。
悠斗の体温が、亜季を包み込む。
心臓の音が聞こえる。
二人とも、早く打っている。
「高梨さん」
「はい」
「名前で呼んでもいいですか?」
「…はい」
「亜季さん」
その呼び方が、新鮮で、嬉しかった。
「僕のことも、悠斗って呼んでください」
「悠斗…さん」
「さん、いらないですよ」
「じゃあ、悠斗」
二人は顔を見合わせた。
近い距離。
息が触れ合いそうなほど、近い。
悠斗の顔が、ゆっくりと近づいてきた。
亜季は目を閉じた。
唇が、触れ合った。
柔らかくて、温かい。
優しいキス。
時間が止まったように感じた。
唇が離れて、二人は見つめ合った。
「…初めてですか?こんなに緊張するの」
悠斗が笑った。
「私も」
亜季も笑った。
それから、二人はまたキスをした。
今度は、少し長く。
窓の外では、雨がまだ降っている。
でも、部屋の中は温かかった。
二人の間に、もう壁はなかった。

十一時を過ぎて、悠斗は帰ることにした。
「もう終電ないですよ」
「タクシーで帰ります」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。亜季を送ってきたんだから」
悠斗は笑った。
玄関で、二人は向かい合った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。最高の一日でした」
「私も」
悠斗は亜季にもう一度キスをした。
「また明日」
「また明日」
悠斗は部屋を出て行った。
亜季は、ドアを閉めて、その場にしゃがみ込んだ。
胸が、高鳴っている。
悠斗が、自分を好きだと言ってくれた。
付き合うことになった。
キスをした。
まるで、夢のようだった。
亜季はベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめながら、今日のことを思い返す。
幸せ。
こんなに幸せな気持ちは、久しぶりだった。
いや、もしかしたら、初めてかもしれない。
スマートフォンを手に取って、美咲にメッセージを送った。
『告白した。成功した』
すぐに返信が来た。
『おめでとう!!!詳しく聞かせて!!!』
亜季は笑って、スマートフォンを置いた。
詳しい話は、また今度。
今は、この幸せな気持ちに浸っていたい。
窓の外を見ると、雨は止んでいた。
空には、星が輝き始めていた。
亜季は、星に感謝した。
ありがとう。
願いが、叶った。
そして、目を閉じた。
明日から、新しい人生が始まる。
悠斗と一緒の人生が。
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