処刑された王女の帰還Ⅱ ―戦火に揺れる王国―

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第3章『密約の影』

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 北部への道程は険しかった。王都を出発してから二日が経ち、セリーヌ率いる近衛騎士団は、山岳地帯の街道を進んでいた。周囲には針葉樹の森が広がり、冷たい風が吹き抜けていく。
 夜営地に到着すると、騎士たちは手慣れた様子でテントを設営し始めた。レオンが指揮を執り、見張りの配置を決めている。セリーヌは自分用のテントに入り、地図を広げて明日の行程を確認していた。
 その時、テントの入口が開いた。
「失礼します、陛下」
 黒いフードを被った男が姿を現した。痩身で背が高く、鋭い目つきをしている。年齢は三十代半ばだろうか。顔には幾つもの傷跡があり、危険な雰囲気を纏っていた。
「サイラス」
 セリーヌが名を呼ぶと、男はフードを下ろして頭を下げた。
 サイラス・ブラックソーン。王国情報局の局長であり、セリーヌの復讐時代からの協力者だ。諜報と暗殺を専門とする彼は、表舞台に出ることは滅多にない。だが今、彼がここにいるということは、重大な情報を持ってきたということだ。
「陛下、緊急の報告があります」
 サイラスの声は低く、抑揚がない。
「王宮で、不穏な動きを察知しました」
「詳しく聞かせてくれ」
 セリーヌが椅子に座り直す。
「三日前、王宮の古い書庫で、私の部下が一通の文書を発見しました」
 サイラスが懐から羊皮紙を取り出し、テーブルに置く。古びた紙には、読みにくい筆跡で何かが記されていた。
「これは……」
 セリーヌが紙を手に取り、目を凝らす。蝋燭の明かりの下、文字が浮かび上がってくる。
『ヴァルディア帝国皇帝陛下へ。我々は陛下の大義に賛同し、リオネール王国の併合に協力する用意がある。女王セリーヌは若く、経験が浅い。内部から揺さぶれば、容易く崩せるだろう。ついては――』
 文書はそこで途切れていた。だが、その内容だけで十分すぎるほどの意味があった。
「これは密約書だ」
 セリーヌの声が震える。
「王国内に、帝国と通じている者がいる」
「その通りです」
 サイラスが頷く。
「署名は消されていますが、文体と使われている紙から判断すると、宮廷内の高位貴族によるものと推測されます」
「誰だ」
「まだ特定できていません。ただ、この文書が保管されていた場所から考えると、書庫へのアクセス権を持つ者に限られます」
 セリーヌは頭を抱えた。書庫にアクセスできる者は、王族、宰相、そして一部の重臣たちだけだ。つまり、彼女が信頼すべき側近の中に、裏切り者がいる。
「この件は、他に誰が知っている」
「私の直属の部下三名のみです。陛下以外には、まだ誰にも報告していません」
「よくやった」
 セリーヌが深く息を吐く。
「この情報は極秘にしろ。もし裏切り者が察知すれば、証拠を隠滅される」
「御意」
 サイラスが一礼する。
「私は王都に戻り、引き続き調査を続けます。犯人を特定次第、陛下に報告いたします」
「頼む。だが無理はするな。相手が誰であれ、危険な賭けだ」
「ご心配なく。私はこのような仕事に慣れております」
 サイラスが薄く笑った。その笑みには、冷酷な覚悟が滲んでいる。
 彼が去った後、セリーヌは一人でテントに残された。密約書を手に取り、何度も読み返す。文字は静かに、だが確実に、彼女の心を蝕んでいく。
 誰が裏切ったのか。グレゴールなのか。それともエドガーか。あるいは、他の誰かなのか。
 セリーヌは立ち上がり、テントの外に出た。夜空には無数の星が輝き、焚き火の周りでは騎士たちが談笑している。彼らの笑顔を見ていると、少しだけ心が落ち着く。
「陛下」
 レオンが近づいてきた。
「お休みにならないのですか」
「少し、頭を冷やしたくて」
 セリーヌが焚き火の傍に座る。レオンも隣に腰を下ろした。
「何かあったのですか」
「……レオン、お前は私を信じているか」
 突然の問いに、レオンは驚いた表情を見せた。だがすぐに、真剣な顔つきになる。
「当然です。俺は陛下のために命を捧げると誓いました。その誓いは、今も変わりません」
「ありがとう」
 セリーヌが小さく微笑む。
「だが、全ての者が同じとは限らない。人の心は移ろいやすく、利益によって容易く変わる」
「陛下は、誰かを疑っているのですか」
 レオンの声が低くなる。
「もしそうなら、俺にできることがあれば何でも」
「いや、まだ何も」
 セリーヌが首を横に振る。
「ただの杞憂だ。気にしないでくれ」
 だが彼女の表情は、決して杞憂だけを語ってはいなかった。
 翌朝、騎士団は再び出発した。山を越え、平原へと出る。遠くには北部国境の砦が見え始めた。
 その日の午後、一行は北部軍の駐屯地に到着した。そこは急造された軍事拠点で、無数のテントと柵が設置されている。兵士たちが慌ただしく動き回り、緊張した空気が漂っていた。
 エドガー将軍が出迎えに来た。
「女王陛下、よくぞご無事で」
「状況は」
「芳しくありません」
 エドガーが険しい顔をする。
「帝国軍は依然として国境内に留まっており、撤退の気配がありません。ノルトハイムの村は、事実上、彼らの支配下にあります」
「村人たちは無事か」
「今のところは。帝国軍は村人に手を出していませんが、移動の自由を奪っています。完全な人質状態です」
 セリーヌは歯噛みした。
「帝国との交渉は」
「使者を送りましたが、会談を拒否されました。帝国側の指揮官は、『女王陛下自らが来るまで、話はしない』と」
「私を呼び出すつもりか」
「おそらく。これは罠の可能性が高い」
 エドガーが警告する。
「陛下が前線に出れば、帝国は何をしてくるかわかりません。ここは私が代わりに」
「いや、私が行く」
 セリーヌがきっぱりと言う。
「民が苦しんでいる時、女王が隠れているわけにはいかない」
「陛下……」
「レオン、近衛騎士を十名選抜しろ。明朝、私と共に村へ向かう」
「了解しました」
 レオンが敬礼する。
 その夜、セリーヌは司令部のテントで戦術地図を検討していた。村の位置、帝国軍の配置、周囲の地形。全てを頭に叩き込む。
 だが彼女の心の片隅には、常にあの密約書の存在があった。裏切り者は誰なのか。そしてその者は、今この瞬間も、帝国に情報を流しているのではないか。
 もしそうなら、明日の交渉も筒抜けだ。帝国は全てを知った上で、罠を張っている。
 セリーヌは剣を手に取り、その刃を見つめた。磨き上げられた鋼が、蝋燭の光を反射している。この剣で、彼女はかつて数多の敵を斬ってきた。だが今、斬るべき敵は目に見えない。
 深夜、テントの外で物音がした。セリーヌは即座に剣を抜き、入口を警戒する。
「誰だ」
「私です、陛下」
 グレゴールの声だった。老宰相がテントに入ってくる。
「こんな夜更けに、どうした」
「陛下にお伝えしたいことがあり、王都から馬を飛ばして参りました」
 グレゴールは疲労の色を浮かべていたが、その目は真剣だった。
「実は、宮廷で不穏な噂を耳にしました」
 セリーヌの心臓が高鳴る。
「どのような噂だ」
「帝国との密約があるという噂です。詳細は不明ですが、複数の情報源から同じ話が聞こえてきます」
「……そうか」
 セリーヌは剣を鞘に収めた。
「グレゴール、率直に聞く。お前は、私を裏切るか」
 老宰相の顔が驚愕に染まる。
「陛下、何を」
「答えろ」
 セリーヌの声は冷たく、感情を排していた。
 グレゴールはゆっくりと膝をつき、頭を垂れた。
「私はこの命が尽きるまで、陛下に忠誠を誓います。父王の時代から、そしてこれからも。決して裏切りなど」
「……わかった、立て」
 セリーヌが手を差し伸べる。
「疑って済まなかった」
「いえ、陛下が疑心暗鬼になるのも無理はありません。今は誰も信じられぬ状況ですから」
 グレゴールが立ち上がり、埃を払う。
「ですが陛下、どうか私を試すのであれば、いつでも」
「もう十分だ」
 セリーヌが苦笑する。
「お前の忠誠は、疑う余地がない」
 だが彼女の心の奥底では、まだ疑念がくすぶっていた。人は嘘をつく。そして、最も信頼している者こそが、最も危険な裏切り者になり得る。
 グレゴールが去った後、セリーヌは再び密約書のことを考えた。犯人は必ず見つけ出す。そして、相応の報いを受けさせる。
 夜明け前、セリーヌは目を覚ました。外ではレオンが近衛騎士たちを集めている。出発の時間が近づいていた。
 彼女は鎧を身につけ、剣を腰に帯びる。鏡に映る自分の顔は、決意に満ちていた。
 テントを出ると、選抜された十名の騎士が整列していた。全員が重装備で、戦闘準備は万全だ。
「行くぞ」
 セリーヌが馬に跨る。騎士たちも後に続いた。
 駐屯地の門が開かれ、一行は国境の村へと向かって駆け出した。朝靄の中、馬の息が白く煙る。遠くには帝国軍の陣営が見え、その旗が風にはためいていた。
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