触れない距離、触れられる距離 -秒とミリ秒のあいだで-

遊鷹太

文字の大きさ
3 / 7

第3章 閾値の向こう側

監査の日の朝は、空がよく見えた。低い雲が流れ、風は昨日より落ち、鉄の匂いが湿りを失う。運行センターのガラスに貼られた「立入制限」の赤い札が、新品の靴みたいに硬く光っていた。

会議室のドアが開くと、白いジャケットの女が入ってきた。日名子真琴。肩までの黒髪は癖が少しだけ残り、前髪の端がその癖を主張する。目は細い線で、焦点の合い方に無駄がない。手には薄いノートPCと、透明なファイル。歩く速度が一定だった。

「AI倫理・安全監査の担当、日名子です。今日は“正しさ”を測りに来ました」

声は穏やかなのに、形だけが鋭い。橘が笑顔を貼り付ける。

「ようこそ。正しさは、我々の最優先事項です」

日名子は笑わない。視線がテーブルを横断し、いつきで止まる。瞬間、過去の空気が鼻の奥に触れた。社内SNSで、告発の噂が駆け抜けた時のざわめき。あのときの名前だ。

「三条さん。以前、あなたの書いた安全ケースのドラフト、拝見しました」

「……改訂しました」

「改訂は、理由とともに」

一拍。日名子は椅子に座り、ファイルを開いた。ページには付箋が色とりどり。橘の笑顔が固形になっていく。

午前は紙の上の戦いだった。責任の所在、手動介入の優先順位、フェイルセーフ(安全側に倒す設計)とフェイルオペレーショナル(動き続ける設計)の境目。日名子は言葉を選び、まっすぐに刺す。

「“手動介入ゼロ”という表現が広報資料にありますが、ゼロは誇りではなく、リスクです。人の権限剥奪は、設計上最後の手段です」

橘が応じる。

「もちろんです。広報の表現は、あくまで目標値で……」

「目標値は現場の行動を変えます。人は“ゼロにすべきもの”には手を出しにくくなる」

いつきの喉が乾いた。言葉が水を探している。彼女は机の下で指を結び、解いた。

「介入は“できるべき”で、“しても責められないべき”。仕様にそう書き直します」

橘が振り向いた。笑顔の形を保ったまま、目がわずかに鋭くなる。御子柴は黙って、いつきの横顔を見ていた。視線だけで「それでいい」と言っているように見えた。

午後は走行監査。日名子は車内に乗り、運転台の後席に座った。白いジャケットが鉄の車内で浮く。膝の上のノートPCには、赤と青の数字が規則正しく踊る。いつきは隣に立ち、タブレットを支えた。御子柴はいつも通り、ハンドルに右手を軽く置く。

「今日は障害注入をします。センサーの一部を意図的に遅延させ、判断の衝突を見ます」

日名子の指が、ノートPCのショートカットを迷いなく叩く。画面の隅に小さな赤い点が灯る。いつきは息を浅くした。自分が書いたコードの奥の奥まで、誰かが歩いていく感覚。

出発。モーター音がいつもの高さで登り、ホームの縁の白線が流れる。カメラ映像に薄いノイズ。LIDAR点群に微細な荒れ。いつきの目がそれを追う。御子柴の時計の秒針が、安定したリズムで進む。

一駅目——綺麗。二駅目——穏やか。三駅目、地上のビーコンが一瞬黙った。遅延注入。自動運転は躊躇う。御子柴の指が力を増す。綺麗に止まる。日名子はメモを取る。

「次、四駅目。トンネル手前で、カメラとLIDARに三百ミリ秒のスリップを入れます。判断の優先順位が見たい」

いつきの背中に汗が滲む。三百ミリ秒。人の瞬きより短い。ミリ秒は物語にならないが、現実は簡単に傾く。

トンネルの口が、黒い瞼のように迫る。照度が落ち、白い蛍光灯が車内の金属を冷たく塗る。日名子がキーを叩き、赤い点が一つ増えた。

—センサー融合:時相不一致。自動運転:迷い。優先判断:前回設定—

前回設定。いつきの胃の奥が、冷えた石を飲み込んだみたいに重くなる。前回、誰が変えた? 橘の要求で入れた「介入抑制のデバウンス」、誤操作防止の名目で、手動を受け入れるまで三百ミリ秒の確認を要求するパッチ——

前方の壁の縁が、ぐっと近づいた。速度は落ちている。落ちているが、落ち方が遅い。御子柴の手が最大に寄せられる。ところが、ブレーキは一瞬、応えない。乾いた時間。三百ミリ秒の空白。

「……効かない」

御子柴の声が低く割れた。いつきの指が勝手に動く。タブレットの「自動運転切断」ボタンに飛ぶ。指紋認証が一瞬遅れ、画面が小さく振動する。呼吸が消える。

—切断。手動優先—

ブレーキが牙を剥く。前のめりの力が車内の体重を一斉に前方へ集め、吊り革が悲鳴を上げる。車輪が短く鳴き、タイヤは鳴かない。トンネルの入口の白線が歪んで近づき、止まる。ほんの数十センチを残して。

沈黙。全員の鼓動の音だけが、それぞれの耳の中で鳴る。明かりが機械的に変わり、LEDが粛々と点き直る。日名子は最初に息を吐いた。ノートPCの画面に、赤い線が一本、太く残る。三百ミリ秒の沈黙が、赤で記録された。

「今の“空白”は、誰の決定ですか」

声は静かなのに、刃がある。いつきは喉の奥に針を飲み込んだみたいな痛みを覚えた。彼女は挙手するように、まっすぐ言った。

「私の設計です。誤操作防止のために、手動入力にディレイを入れるパッチを——入れました」

御子柴は彼女を見た。非難ではない。確認するように。いつきは目を逸らさない。

「撤回します。今すぐ外す」

「会議体に諮ってから——」

後ろから橘の声。御子柴の視線が、静かに橘を刺す。

「諮っている時間は、走っている列車にはない」

日名子が小さく頷いた。

「監査としても、そのディレイは不適切と判断します。“人の制御系にディレイを挟む”ことは、原則として避けるべきです」

車両を基地に戻す間、いつきの手のひらが汗で滑った。タブレットを握りしめていないと、手の震えが目に見えそうで、滑稽で、みじめで、でも握った。御子柴が横から、わずかに身体を寄せる。肩が触れない距離で、支えだけ差し出すみたいに。

基地。ブレーキの冷える匂い。パネルのネジに光が滞在する。いつきはすぐに端末を開いた。コードの奥。パッチはそこにいた。自分の手で書いた行。誤操作防止。善意の顔をした短い毒。

「外します」

声が震えないように、ゆっくり言葉を置いていく。橘が近づき、声が低くなる。

「公開前に仕様を動かすのはリスクだ。テストの工数が——」

「公開がリスクです」

日名子が遮った。彼女は書面を出す。

「監査所見:手動介入抑制ディレイは撤去を推奨。撤去しない場合、メディア公開の“安全表明”に条件付き評価を付す」

条件付き、という単語が橘のこめかみを強張らせる。数字で動く男だ。数字に条件が付くのが、何より嫌いだ。

「わかった。三条、戻せ。今日中に再試験——」

御子柴が横から、いつきの端末に視線を落とした。スクリーンに映る小さな文字列。「debounce\_ms = 300」。

「俺にも、わかる言葉で説明してくれ」

いつきは深呼吸した。手の震えが少しだけ収まる。

「手動入力に“バウンド”——接点がチャタリングして、意図しない多重入力になることがあります。だからノイズを無視する時間を設ける……はずでした。でも、ここに入れたのは“全部を遅らせる”時間だった」

「手を伸ばしたとき、机が三百ミリ秒だけ遠ざかるみたいなもんか」

「たぶん、それより性格が悪い」

二人の間に、かすかな笑いが生まれる。日名子はそれを見て、目だけで笑った。

夕方、再試験。風は弱く、空は薄い青に戻っていた。トンネル手前。同じシナリオ。今度はディレイがない。センサーのノイズが躊躇を生む瞬間、ブレーキは人の手を即座に受け取る。減速度は滑らかに立ち上がり、ジャークの角は丸くなり、停止は、綺麗だった。

「これが、正しい“美しさ”だ」

日名子が言った。御子柴も頷く。いつきの胸が、内側から温かくなった。美しさは、責任の別名。言葉がようやく定義と感情を同じ場所に置いた。

試験後、センターの外に出ると、薄暮。高架の隙間から、夕焼けが線で漏れる。いつきは自販機で水を買い、キャップを回した。手の甲に冷たい雫が落ちる。横で御子柴が、砂糖を入れないコーヒーを持って立っている。日名子がやってきた。白いジャケットが、夕方の色に少しだけ染まる。

「三条さん。あなたは敵じゃない」

日名子は唐突に言った。いつきは目を瞬いた。

「内部告発のとき、私は多くの人の“善意の毒”を見た。悪意の毒は見分けやすい。善意は、よく擬態します。今日は、あなたが毒の根を抜いた」

褒められたのに、胸の奥が痛い。自分が植えた根だったから。いつきは頭を下げた。

「ありがとうございました」

「まだ終わらない。広報も、管理も、世間も、善意の仮面を持っている。あなたは、あなたの“美しさ”で切っていけ」

日名子は短く微笑み、踵を返した。その背中を見送りながら、いつきはコーヒーの匂いに気づく。黒くて、少し焦げた匂い。御子柴が紙コップを差し出した。

「持ってみるか。熱い」

いつきは受け取る。指が、紙越しに熱で驚く。そのとき、彼の手が横からそっとカップの底を支えた。二人の指が少し触れ、離れる。ミリ秒の接触。ディレイなし。世界は、ちゃんと反応する。

「今日、助けてくれてありがとう」

「お前だろ」

「二人で止めた」

二人は同時に言って、同時に笑った。笑いの波形が重なって、干渉して、少しだけ大きくなった気がする。

センターに戻る廊下で、橘が電話をしながら歩いていた。視線が鋭く、声が荒い。「公開は予定通り」「ストーリーは変えるな」。彼の背中に、薄い影が二つ、重なる。一つは七年前の事故の影。もう一つは、今日の三百ミリ秒の影。どちらも、まだ消えない。

いつきはタブレットを抱え直す。自分の書いたコードは、いつでも自分の手で切り替えられるように。御子柴の時計の秒針が、またひとつ進む。その音は小さい。けれど、確かだ。

明日は、公開まで「あと四日」。ミリ秒で磨いた美しさを、秒で伝え、分で守り、時間で証明する。世界はループしながら、少しずつ進む。二人の歩幅も、また少しだけ揃った。
感想 0

あなたにおすすめの小説

触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました

由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。 そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。 手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。 それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。 やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。 「お前に触れていいのは俺だけだ」 逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。 これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。

刺繍妻

拓海のり
恋愛
男爵令嬢メアリーは魔力も無くて、十五歳で寄り親の侯爵家に侍女見習いとして奉公に上がった。二十歳まで務めた後、同じ寄り子の子爵家に嫁に行ったが。九千字ぐらいのお話です。

都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

凪ノ
恋愛
自他ともに認める禁欲主義の御曹司と付き合って四年目、彼は今もなお、彼女を拒んでいた。 そこで小林時絵(こばやし ときえ)は母親に電話をかけた。 「お母さん、前に言ってたパイロットの面接、もう手配してもらえる?」 電話の向こうで、時絵の母は驚きを隠せなかった。 「本当なの?でも、海浜市に残って結婚するって言ってたじゃない……あんなに好きだったパイロットの仕事も全部諦めたんじゃなかったの?」 薄暗い光の中、彼が夢中でその女に手を伸ばし、理性を失っていく彼の姿を眺めながら── 時絵は自嘲的に笑った。 ──H市に戻れば、また自分のキャリアを取り戻せる。 これからはまた、大空を自由に飛ぶパイロット、小林時絵として生きていく。 不倫に溺れた……惨めな女なんかじゃなくて……

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。 【感謝】 第19回恋愛小説大賞にて奨励賞を受賞しました。 ありがとうございます。

冷酷公爵と呼ばれる彼は、幼なじみの前でだけ笑う

由香
恋愛
“冷酷”“無慈悲”“氷の貴公子”――そう恐れられる公爵アレクシスには、誰も知らない秘密がある。 それは、幼なじみのリリアーナの前でだけ、優しく笑うこと。 貴族社会の頂点に立つ彼と、身分の低い彼女。 決して交わらないはずの二人なのに、彼は彼女を守り、触れ、独占しようとする。 「俺が笑うのは、お前の前だけだ」 無自覚な彼女と、執着を隠しきれない彼。 やがてその歪な関係は周囲を巻き込み、彼の“冷酷”と呼ばれる理由、そして彼女への想いの深さが暴かれていく―― これは、氷のような男が、たった一人にだけ溺れる物語。

凍てついた心を持つ王子は、捨てられた令嬢の涙を許さない。

ナギ
恋愛
​「私なんて、何の価値もない身代わりの出来損ないですから……」 ​実家で虐げられ、美しい姉の身代わりとして生きてきた伯爵令嬢のエルナ。 ある夜、婚約者から大勢の前で婚約破棄を突きつけられ、雨の中に放り出されてしまう。 ​絶望して泥にまみれる彼女を拾い上げたのは、「氷の処刑王子」と恐れられる隣国の第一王子・フェリクスだった。 ​「ようやく見つけた。お前を二度と離さない」 ​冷酷なはずの彼は、なぜかエルナを甘やかし、24時間、執着心剥き出しで愛を注ぎ始める。 自分を「無能」だと信じ込むエルナと、彼女を「宝物」として閉じ込めたい王子。 余裕のない王子の溺愛に、臆病な令嬢の心は甘く溶かされていき――。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!