王子の恋の共犯者

はるきりょう

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王子は腰に手を回す

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 空を見上げれば、澄んだ青が目に入る。少しだけ開けた窓から差し込む光は輝いており、頬を撫でる風は心地よい。けれど、そんな中、エルサは小さく息を吐いた。

「エルサ様、ため息をつくと幸せが逃げてしまうそうですよ。まあ、今のエルサ様には逃げられても十分なほど幸せがあるのかもしれませんけれどね」

 どこか茶化すようなユリアの声色に、もう一度出そうになるため息を堪えてエルサはぎこちない笑みを浮かべた。

「ねぇ、それより、ちょっときつ過ぎない?」

 数人がかりで力の限り締められたコルセットに不満の意を表した。けれど彼女たちは揃って首を横に振る。

「いつも言っていますが、王子の隣に立たれるのですから、綺麗にしなければいけません。それに、今日はアンドリー王子の叔父上様が主催される夜会です。もしかしたら、結婚の報告をするのかもしれません。それなら、いつも以上に美しくしなくてはいけませんわ」

 代表してユリアがそう答えた。他の侍女たちも大きく頷く。その言葉にエルサは数日前の出来事を思い出し、頬を赤く染めた。

「エルサと結婚したいと思っている」

 エルサの逆プロポーズから数日後、アンドリーは、バスラー家に尋ねてきて、そう告げた。今まで、何度もバスラー家に足を運んでいるアンドリーであったが、事前の連絡がない訪問はそれが初めてだった。そんなアンドリーの口から出たその言葉に、ダンテをはじめとするバスラー家の一同は、驚き、そして涙を流して喜んだ。一人だけ、別の意図があるとわかっていたエルサだったが、改めて言われたその言葉に動揺し、耳まで赤く染まったのは記憶に新しい。エルサに言ったのではなくあくまでダンテへ言った言葉だった。けれど、端正な顔立ちのアンドリーの口から出る「結婚」という言葉の破壊力はすさまじかった。

アンドリーの言葉に、屋敷の中が幸せ色に染まった。特に、エルサの結婚を今か今かと待ちわびていた侍女たちの喜びは大きく、その後、エルサがアンドリーに会うたびに、今まで以上に慎重にドレスを選び、髪を整え、化粧に力を入れるようになったのである。

そして結婚報告後に初めて参加する夜会である今日は特に力が入っていた。エルサの長い黒髪を高い位置でまとめ、白い花の髪飾りを付けた。レモン色のドレスに真珠のネックレス。きつく締められたコルセットのおかげで、鏡で見るエルサのシルエットは自分で見ても綺麗だった。最後の仕上げとばかりに数人がかりでエルサに化粧を施す。そんな姿にエルサは苦笑を浮かべる。

「いつもと同じでいいのに」

「そういうわけにはいきません!」

「そうですよ!アンドリー王子にはエルサ様が一番お似合いだって、証明しないと!」

 どこか興奮気味に話す侍女たち。

『どんなに綺麗にしたって、一番お似合いになんかなれないのに』

エルサ心の中でもう一人の自分がそう言った。苦しくなり、無意識に右手で胸を押さえていた。困った時、哀しい時、どうしたらいいかわからない時、エルサはいつもユリアに相談していた。ユリアを姉のように慕っているからだ。

エルサは視線をユリアに向けた。笑みを浮かべながら自分を綺麗にするために手を動かすユリアに胸が苦しくなる。ユリアに何もかも話してしまいたかった。けれど、それはできないと思う。ユリアに本当の事を話せば、「自分のために犠牲にならなくていい」と言うだろうことがわかるから。

犠牲だと、エルサは思ってはいない。王子との結婚は父であるダンテも望んでいたことだ。エルサにとって喜んだ父の顔を見られただけでも満足であった。きっとこのまま何事もなく進んでいたら、きっとその顔は見られなかっただろうなと思う。それに王子と結婚すれば、将来的には王妃になる。生まれた時から王子の婚約者であるエルサ、王妃となるために必要なレッスンを誰よりも受けていた。自国の歴史を学び、外国語を学び、経済を学んだ。周りの女の子たちが恋だ、愛だ、と騒いでいる間、家庭教師の元、机に向かった。その努力が無駄になることがなくなる。

それにやっぱり、エルサはユリアに幸せになってほしいと思う。そして、アンドリーにも幸せになってほしいと思う。たとえその結果、他の誰かが傷ついたとしても、二人のために共犯者になることを決めたのだ、と自分を鼓舞する。

「エルサ様、本当に綺麗ですよ。きっと王子も喜ばれます」

 エルサの口紅を塗り終えたユリアがそう言った。その言葉にエルサは苦笑を浮かべる。

「そうだといいけど」

「そうに決まっています。だってアンドリー王子は…」

「エルサ様、アンドリー王子がいらっしゃいました」

 ユリアの言葉の途中で侍女からそう声がかかる。姿見越しに見た、ユリアの表情が明るくなるのをエルサは見落とさなかった。

「…教えてくれてありがとう」

「それでは、エルサ様、行きましょうか」

「…ええ、そうね」

 ユリアの笑みの前に、エルサの表情は曇った。アンドリーを想うユリアの前で、彼の隣に並ぶことが苦しい。

「ユリア、ごめんね」

「…エルサ様?」

「なんでもないわ。行きましょう」

 軽く首を横に振る。これはユリアとアンドリーのためなのだと自分に言い聞かせながら、アンドリーの待つ応接室へ向かった。

「こんばんは、エルサ」

「こんばんは、アンドリー王子」

「今日のドレスも…その……えっと…似合って、いる」

 途切れ途切れの言葉に、エルサは顔には出さず苦笑する。無理やり褒めているのだろうなと思う。どんなに着飾ろうとも、アンドリーの視界には入らないのだろう。

「ありがとうございます。ドレスはユリアが選んでくれたのです」

「ユリアさんが?それは、素敵なセンスをお持ちだ」

 アンドリーの視線がユリアに向けられた。そんなアンドリーにユリアは小さく笑って首を横に振る。ユリアを見てアンドリーも笑みを浮かべた。アンドリーがユリアを見て、ユリアがアンドリーを見ている。その光景に、なぜかエルサの心臓は小さな痛みを伴って、一つ音を立てた。

「そ、そうなんです。ユリアは綺麗だし、優しいし、センスもいいんです」

「そのようだね」

「いえ、エルサ様はどんな服でもお似合いになるんです。…それより、もう出発する時間ではありませんか?」

 ユリアの言葉にアンドリーは腕に付けている時計を見た。

「そのようですね。エルサ、行こうか」

 そう言ってアンドリーが手を差し出した。エルサはその手にそっと自分の手を乗せる。軽く握られた手が温かい。

 振り向けばユリアと目が合った。その表情はどこか哀しそうで、胸が苦しくなる。

「エルサ様をお願い致します」

 ユリアが深く頭を下げる。そんなユリアにアンドリーは両頬を持ち上げた。

「はい。無事に、ここまで送り届けます」

ユリアと見つめ合い言葉を交わすアンドリー。その様子を見ていられなくて、エルサはわからないように少しだけ視線を逸らした。

今日の夜会は多くの貴族に招待状が配られた。夜会の目的は王族と貴族との交流や貴族同士の交流を深めることにある。けれど、アンドリーが今日、この夜会に参加することに決めたのは、婚約者から結婚相手となるエルサのお披露目だろうとエルサは思った。そう思えば思うほど肩に変な力が入ってしまう。

「エルサ、着いたよ」

馬車にしばらく揺られ、着いた先でアンドリーがそう言った。窓から外を見れば、王族であるアンドリーの伯父にふさわしい大きさのお屋敷。その大きさに、エルサはまた一つ、アンドリーと自分との違いを実感する。

先に馬車から降りたアンドリーはエルサに手を差し伸べた。その手に自分の手を乗せ、馬車から降りる。お屋敷に入ると、もうすでに多くの人たちの姿があった。手に飲み物や食べ物を持ち、談笑している。エルサもアンドリーと腕を組み、人々の輪の中に入っていった。

すぐに嫌な視線を全身に感じた。視線の先を見れば、値踏みをするような目がいくつもエルサを見ていた。居心地の悪さを感じ、視線を逸らす。組んでいたアンドリーの腕が、ふと離れた。不思議に思っていると、アンドリーの手が腰に回る。

「ア、アンドリー王子?」

「ん?」

 突然の行動に思わず名前を呼ぶが、アンドリーはにこりと笑うだけだった。

「あ、あの、腰に手が…」

「うん、回ってるね。嫌?」

「え?あの…、嫌というわけでは…」

「ないなら、いいよね?」

 エルサの言葉尻を奪うようにアンドリーが言った。反射的にエルサが頷くと、アンドリーは嬉しそうな顔をして笑う。その距離が近くて、エルサの頬は赤く染まった。

エルサは18年近くアンドリーの婚約者をやっている。だから、アンドリーと夜会に出たことは数えきれないほどだ。しかし、今まではただ、アンドリーの近くにいるだけでよかった。アンドリーの2、3歩後ろを歩きながら、おいしいものを食べ、なじみの顔がいれば話をする。それだけだった。それなのに、身体が密着する距離にアンドリーがいる。その事実に、エルサは動揺した。そしてそれは周りも同じだった。今までどの夜会でも見たことのない光景にざわつき始める。

「今日はどうしてあんなにくっついているんだ?」

「…婚約を破棄するのではなかったのか?」

どこからともなく、そんな言葉が耳に入る。「婚約破棄」それは貴族の間で回っている噂話だった。バスラー家は3世代前、確かに、有力貴族であり、王であったタレイトとルーモの仲も良好だった。当時、王家とバスラー家の発言力、財力に大きな差はなかったと言えるだろう。しかし今は違う。王家とバスラー家の距離は遠く、公爵の爵位を持ってはいるがバスラー家は決して有力貴族とは言えない。いや、バスラー家より有力な貴族が他にいくつもある、と言った方が正しいだろうか。バスラー家は、現在、王子の婚約者を出してはいるが、その婚約が「婚約」のみを縛っているのは周知の事実。それならば、王子はバスラー家よりも有力な貴族の娘と結婚し、今以上に国内の力をつけるのではないか。それが貴族の中でまことしやかに囁かれる噂であり、夜会でのアンドリーとエルサの距離感がその噂に信憑性を与えていた。

「どうしてあの子なの?」

「あんな子より、私の方が綺麗なのに」

「たまたま婚約者になれただけのくせに」

 睨むような視線は貴族の令嬢からだった。今までも悪意の籠った視線を向けられたことは何度もあったが、アンドリーが隣にいるのにも関わらず悪口を言われるのは初めてであった。押さえきれないほどアンドリーの隣に立つのがエルサであるというこが許せないのだなと思う。

エルサは隣で微笑むアンドリーを盗み見た。目鼻立ちの整った端正な顔つきに、長い脚。肩まであるホワイトゴールドの髪はえりあしだけ黒のリボンで結ばれている。光沢のある白いタキシードがよく似合っていた。エルサはその姿になるほどな、と思う。白いタキシードがここまで似合うなんて「美男子」という称号をもらったのと同じことだ。令嬢たちが色めき立つのも理解できる。そして、隣に立つのが爵位ばかりの公爵家の令嬢であることを許せないのも理解できた。

「…エルサ、俺の顔、何かついている?」

「え?」

「さっきからずっと見ているから」

「いや、格好いいなって」

「…え?」

 エルサの言葉にアンドリーは目を開いた。そんなアンドリーの反応にエルサはとっさに口を押さえる。しかし、遅すぎたのは明白だった。

「いや、あっと…これは、その…」

 思わず出てしまった言葉に動揺を隠せず、エルサの視線が上下左右に忙しなく動く。そんなエルサにアンドリーが小さく笑った。

「俺、格好良い?」

 どこか茶化すような声色。覗き込むようにエルサを見るその距離が近くて、再びエルサの頬が赤く染まった。

「いや、あの…」

「格好いい?」

 再確認するその声色に逃げられない何かを感じた。エルサは顔を赤くしながら口を開く。

「……か、格好、いい…です」

 絞り出すような声。俯いたままそう言うエルサにアンドリーは嬉しそうに微笑んだ。

「この服にしてきて正解だったかな」

「…よ、よくお似合いです」

「エルサのドレスも似合ってるよ」

「ありがとう…ございます」

「褒められると嬉しいものだね」

「そう…ですね。…あの、王子、…少し離れませんか?」

 話している間もアンドリーの手はエルサの腰に回っていた。その手から逃れるように少しだけ身体を動かす。

「どうして?」

「周りの視線が…痛いです」

「そう?俺は、このまま見せつけたいけどね」

 そう言って楽しそうに笑う。そんなアンドリーに「あなたはそうでしょうね」と言いたい気持ちをかろうじて耐えた。偽装結婚のための準備ならば仲の良さをアピールしたいだろう。仲の良さをアピールしなくてはいけない、そう思いながらも、アンドリーとの距離が恋すら経験のないエルサには厳しいものがあった。心臓の音がうるさい。耐えきれなくて、懇願するようにアンドリーを見る。

「…そんなに離れたい?」

「はい」

「そんなにはっきり言うんだね。……よし、わかった。じゃあ、ダンスを踊ろうか。それならみんなしてることだし、今ほど密着しないと思うよ」

「ダ、ダンスですか?」

「うん。このままでいるか、ダンスをするか。どちらか好きな方で」

 アンドリーが出した二択はエルサにとって究極の選択だった。今までエルサは夜会でアンドリーとダンスをしたことがない。アンドリーと婚約しているため、他の男性からダンスの誘いがあることもなかった。だからどうせ踊らないだろうと練習を怠っていたのだ。

 苦手なダンスか密着か。心の中で天秤にかける。緊張からか、手や脇に汗を感じた。それを気付かれるのが嫌で、叫ぶように言う。

「踊ります!」

 そんなエルサの様子にアンドリーはおかしそうに笑いながら、ゆっくりと腰から手を放す。

「それでは踊っていただけますか?」

 恭しく出された手にエルサは緊張した面持ちのまま自分の手をそっと重ねた。
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