純白の抒情詩〈リューリカ〉

黒井ここあ

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〈組曲〉Prelude

プレリュード(2)

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 アラムと僕は雨上がりの早朝に小さな村を出た。
 誰も見送りになんか来なかったけれど、知り合いと呼べる人物はあの男しかいなかったのでどうでもよかった。
 そんなことよりも、アラムが即席でこしらえて持たせてくれた布の小さな鞄に関心があった。
 物として扱われてきた僕には当然与えられるものなど無かったから、旅立つにあたって彼が僕のために何かを用意してくれるのが何だかむずがゆい気持ちがして堪らなかった。
 この気持ちが「嬉しい」という言葉で表せることも知らなかったから、僕はアラムの手を握ることしか出来なかった。
 彼は不敵な笑みを見せてくれて、その武骨な手で驚くほどそっと握り返してくれた。
 アラムは道中、沢山のことを教えてくれた。まずは彼が二〇歳で、僕が三歳くらいであること。次に言葉だった。
 僕にはまともな会話を求められた経験など無かったから、発想と概念と言葉が繋がっておらず、何かを伝えるのには体を使うことしか出来なかった。
 例えばお腹が空いたとき、僕は「お腹が空いた」事実について体感しているけれども、それに該当する表現ーー言葉を持たぬため、泣くか叩くかして不快感を表すことしか出来なかったのだ。
 彼は、そんな赤子同然の僕に根気強く付き合ってくれた。
 例えば、それこそ腹を空かせて泣く僕に、すぐに食べ物を与えはしなかった。
 食べ物を目の前にちらつかせ、僕がそれを取ろうとすると、すかさず高いところに持ち上げて、こう言った。

「シュウ、このパンが食べたいか?」

 僕が泣くのも忘れて頷くと、彼はにやりと不敵に笑った。

「それが、『お腹が空いた』ってことだ。言ってみな。『お腹が空いた』」

「おなか、すいた!」

「これが欲しいか?」

「ほし!」

「そういう時はなんて言うんだ?」

「ちよだい!」

「よし!」

 僕が彼の言葉を幾度となく復唱すると、彼は満足げに僕の頭を撫でて、手にしていたパンをくれた。

「物を貰った時は、『ありがとう』だ。はい、これやる」

「ありがと!」

***

 アラムと旅を続けていくうちに、僕は生きることや概念をおおむね言葉で表せるようになった。
 そのころには生まれ故郷からは遠く離れていて、遊牧民の間に交じって暮らしていた。
 アラムが地図で教えてくれるには、小さな村のあった大陸の東側から北上し、草原ばかりが続くステップ地帯に足を踏み入れ、そこからは西に進もうとしていた矢先だった。
 ここには三年以上腰を落ち着けた。
 なぜかというと、僕が遊牧されているふわふわな羊の群れに大いなる興味を表したからだった。ーーとアラムは言っていたが、理由は他にもあったのを僕は後から気づいた。
 最初の一年はとある一家に交じってその仕事を手伝った。
 そのうち独立して、アラムの持つ異国の物と羊を交換してゆくことで、僕たちは原住民よりはだいぶ小規模だが、二人でなら暮らせるだけのテントと羊を手に入れることが出来た。
 僕は、陽が昇る前から羊を構い、陽が昇っている間は羊と戯れ、陽が落ちてからはアラムの膝の上で昔話を聴くという充実した生活を送っていた。
 いつからか、その昔話をする役割は、その家の娘さんになった。
 アラムより二つ年下の彼女は銀鼠色の髪と瞳を持っていた。
 彼女は僕がそれまで見た中で、最も美しい女性だった。
 そして、素晴らしい物語の紡ぎ手だった。
 僕は彼女の歌うような語り口にうっとりとしながら、夢へ旅立ったものだった。
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