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第一部『第006世界』
2-2:置いていった人たち
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椎野みつえと椎野豊は、渚の生みの親だ。
しかし渚に二人の記憶はほとんどなかった。二人が渚を児童養護施設へ置き去る前まで共に暮らした日々を、どこか遠くに落としてきてしまったからだ。
「私の部屋、じゃない」
一度、状況を整理しなければならない。
渚はベッドから降りた。身体が自分のものではないように軽い。調子が良すぎて不気味だ。
部屋を出ると、目の前に階段があった。
ゆっくりと一段一段を踏みしめるたび、古びた軋みではなく、築数年の新しさと、使い慣らした柔らかな音が返ってくる。
暖かな匂いが強くなった。
トントントン、と包丁の軽やかな音もする。他人の生活音が聞こえる。渚の心臓は下へ行くほど早鐘を打った。
階段を下りきると、明るいキッチンとダイニングが広がっていた。隣にはリビングルーム。壁際のテレビから、アナウンサーの声が淡々と流れる。
「おはよう、渚」
美しい内装をぼんやり眺めていると、背後から声をかけられた。
低く落ち着いた口調。スーツ姿の男が渚の横を通り過ぎ、手にしていたパンの皿をダイニングテーブルに置いた。
「渚、これも運んでちょうだい」
キッチンの奥から、母親の姿をした女性が顔を出す。
お盆に味噌汁を載せながら、父親の姿をした男性が小首をかしげていた。
「どうしたんだい?」
渚が立ち尽くしていることを、不信に思ったのだろう。
渚の全身は痺れたように動かなかった。何とか身体を動かして、ロボットのように、言われるがまま渡された皿をテーブルの上に運ぶ。
母親はエプロンの裾で手を拭きながらやってきて、そのまま席に座った。父親も向かいに座り、二人は何事もないように、朝食を食べ始めた。
油が切れた機械のような渚は、箸が置かれた席にぎこちなく座った。
目の前にパンと味噌汁。野菜サラダ。
並べられた朝ごはんを眺めて、二人の姿を交互にうかがう。ゆっくりとお椀に触ってみると、握れる程度の温かさが指先に染みた。
それは、これが夢ではないと突きつける温度だった。
「今日はどうしたの」
いつまでも動かない渚に、母親が穏やかな声で問いかけた。
「具合が悪いの?」
「顔色も良くないな。何かあったのか?」
「え、えっと……」
歯切れの悪い返事に、二人は顔を見合わせた。
渚はひどく混乱していた。あの揺さぶられるような感覚に、まだ頭の中をかき混ぜられている。
俯いていた顔を上げると、箸を止めて、眉を下げて、渚を見つめる二つの顔がある。
居心地の悪さがさらに膨れ上がった。この場にいることにも耐えられない。だがそれ以上に、心配そうな顔で渚を見ている二人に、心が締め付けられる。
(何か言わなきゃ)
(でも、何を?)
言葉にならない感情が膨らみ、頭の中が燃えるように熱い。止められない衝動が目から零れ落ちそうになる。渚は下唇の裏を強く噛んだ。
「渚、やっぱり病院に行った方がいいんじゃない?」
「びょ、病院?」
渚は素っ頓狂な声をあげた。
もしかして、自分がどこかしらおかしいことに、気付いているのだろうか。
「だってほら、この前、大怪我してから、やっぱりおかしいわ。あのこどう……あのこどうに行ってから」
「こ、え? こどう……?」
母親が頷く。
「あそこで何かあったんでしょう? お休みだってもらってきて。何も話してくれないんじゃ、私たちもわからないわ」
「そうだぞ。父さんたちは力になりたいんだ」
「いつも怪我してばっかりで……。何かあるなら、もう無理しないで、機関も辞めた方が良いんじゃないの」
(何を……言っているの?)
頭の中に何かがひっかかった。
(――こどう?)
その言葉を、渚は知っている。
聞き覚えがあるのではない。見覚えがある言葉だった。心臓の動きを表す鼓動でも、古い道の古道でもない。
渚はその言葉を、つい最近見た覚えがあった。
あれはそう――「弧洞」と書かれていた。思考が自然と、その言葉へ漢字を当てはめた。
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