ループの果てに逢いましょう――死に戻りの男主人公に殺されないための6つの方略――

第一部『第006世界』

２－４：浮かんだ水滴

　状況を整理し直す必要がある。


　渚は深く息を吐き、机に向かって腰を下ろした。

　自室の机の上に、薄くて軽いノートパソコンが几帳面に置かれている。

　大学生だった渚には金銭的な余裕もなく、いつも大学にある共用のパソコンを使っていたというのに。どうやらこの世界の渚は、パソコンを持っているらしい。
　
　パソコンを起動して、ブラウザを開き、検索欄に指を走らせる。
　
　画面に映し出されたのは、知るはずもないニュースや、見慣れない用語だった。

　
『DDA本部からのお知らせ――発生危険度推定値を更新しました』

『天災から身を守るための鉄則』

『弧洞は何が為に出現するのか――南東京大学教授へのインタビュー全文』

『《天賀グループ》の女傑マスターに迫る！　その私生活は！？』

『今期のイケメン《界律者》ランキング――最強の顔面は誰？』
　

　
「……うん。ここは私がいた世界じゃない」
　

　渚は静かにパソコンの蓋を閉じると、椅子を蹴って部屋を飛び出した。
　

「渚？　どうしたの、そんなに慌てて！」


　階段を駆け降りると、母親――みつえが驚いた声をあげる。渚は声を振り切り、家を飛び出て、無我夢中で走り続けた。


「はっ、はあっ！　はっ、は、はぅっ――！」
　

　息が上がっても足は止まらない。周囲の景色が変わっていく。

　自分が本当に別の世界にいるのだと、じわじわと感じた不安が、大波のように押し寄せてくる。


　見知らぬ住宅街を抜け、人通りの多い通りへ出た渚は、ふと足を止めた。
　

　目の前には高層ビルが並んでいる。その一角にある巨大スクリーンに、炭酸飲料のCMが流れていた。

　
『新発売は爽快！　スカッとレモンジンジャー味！』


　炎をまとった男性が空を駆け、赤い熱波を放ちながら豪快に缶を開ける。
　

『この炭酸、俺の炎より強烈だぜ！』


　彼は炎をまとったまま空中で飲み干し、着地すると炎を散らして笑った。
　

　画面には「爽快感MAX！　スカッとレモンジンジャー味！」の文字が浮かび上がった。
　

　周囲の人々は当たり前のようにCMを眺めている。


「加賀知さん、相変らず派手だよね。炎より炭酸のほうが強烈ってナニ？」
　
「ねー、ウケる！　でも加賀知さんのあの炎、見るの好き！」

「そういえば《紅鳶》、今度新しい弧洞の作戦に出るって。ほんとかなあ」


　女性たちの会話が渚の横を通り過ぎた。


（ファンタジーだ……）


　母の声が蘇る。


　――C級の界律能力なんだから。
　

　そういえば、と渚はある一説を思い出した。


　――――――

　この世界には、突如発生した天災に抗うため、選ばれし者がいる。

　世界の法則や秩序に干渉する力、《界律能力》。

　「界」は次元や世界を象徴し、「律」はその法則や力を制御することを表す。

　全ての人間がその欠片を持つが、その中でも特別な能力に覚醒するものがいる。

　そうした者を、《界律者《かいりつしゃ》》と呼んだ。
　
　――――――


　「……界律能力」
　
　人目を避けて細い路地に入り、渚は自分の両手を見つめた。

（もしかして、私も？）

　意識を集中させる。使いたい。ただ、そう考えるだけだった。
　無意識にすり込まれた感覚が指先に集まる。渚もその力を使うことができると、本能が訴えている。

　そして、空気がひやりと冷えた。


「……っ！」


　指先に水のしずくが生まれていく。透明な粒がゆっくりと手の上で集まり、重力に逆らってふわりと浮かんだ。
　

「わ……」と、渚の口から思わず声が漏れた。


　水だ。紛れもなく自分の力で生み出されたもの。奇跡みたいな感覚に、渚の胸は高鳴った。


「っ――？」

　
　しかし、次の瞬間だった。

　突然、渚の体が一気に悲鳴をあげた。

　ひりつき、焼け付くような渇きに苛まれる。喉の奥が砂漠みたいに割れた。舌が上顎に貼り付き、唾を飲み込もうとしても、口内に一滴も残っていない。


　胃の奥から水分が逆流し、体の芯が内側から干上がっていく。全身の毛細血管から、一気に水を抜かれていくような。


「うぐっ！」

　
　渚は思わず水滴を握りつぶした。水は潰れて飛び散り、霧散して解けたが、渇きの感覚は一向に収まらなかった。

　肺が焼ける。息が吸えない。
　視界が波打ち、色が褪せていく。
　脳が、水、水と叫び、足が勝手に地面を蹴った。


「ひぃっ、ひ、――はっ、う」


　渚はよろめきながら路地を出た。視界の端が滲んで、鼓膜に張られたように音がくぐもる。

　身体が叫んでいた。


（足りない。足りない！このままじゃ死んじゃう！）


　渚は急いで家に戻った。「今度はどうしたの？」と、声を掛けてきた母親を無視し、部屋に飛び込む。
　

　（水！　水がほしい！）


　なりふり構わず、ベッド脇に置いてあったペットボトルを掴んで中身を勢いよく飲み干す。中身が無くなるのは一瞬だった。


「ぷはっ！　はっ……は、はひ、――はぁっ！　なっ、なんで……！」