回帰の果てに逢いましょう ――滅亡する世界で、回帰の英雄に殺されないための六つの方略――

藤橋峰妙

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第一部『第006世界』

3-5:不安

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 弧洞に足を踏み入れた瞬間、世界の色が変わった。

 
 闇がねっとりと漂い、赤黒い光が洞窟の壁をぼんやり照らしている。岩肌は血管のように脈打ち、鈍い鼓動が耳の奥を叩いた。


 渚は思わず喉をこくりと鳴らした。


 世界を切り裂くように現れる忌まわしき天災の穴。

 壁の赤黒い脈動は活字の中ではただの言葉だった。だが、今は全身の神経を震わせてくる。文字で表現された描写よりも生々しかった。


(ここに来て、正解だったのかな……)


 背負った装備の重みが骨に響く。腰のホルダーに収まった短剣の柄を指先でなぞった瞬間、冷たい金属の感触が指先に食い込んだ。


 渚の中で、現実が急に色を持ち始めた。
 手に触れたナイフは飾りではない。本気で生き延びるための道具だった。


(怖い、でも)


 身体は妙に落ち着いていた。
 歩幅も呼吸も乱れず、足は危険な道を勝手に進んでいく。


 《界律者》は、例え等級が低くとも、恐怖に対する耐性がつく。だからこそ、界律者は危険な天災に立ち向かうことができるのだ。


 渚は周囲に視線を巡らせた。


 前方を進む古藤彰は、無言で足場を確かめながら慎重に歩を進めている。その少し後ろでは、矢羽祥子が端末に目を落とし、淡々と数値を確認していた。表情は硬いが、任務に集中することで恐怖を押し込めているように見えた。


 最後尾の掛原宗太は、怯えを隠せないまま、それでも鋭く洞窟の奥を睨んでいた。


(――みんな、これが普通なのかな)


「なぎちゃん、緊張してる?」

「えっ」


 隣に寄ってきた御幡に声をかけられ、渚はぱっと顔を上げた。


「大丈夫ならいいの! 無理しないでね。ちゃんと水は持ってきた?」
 
「大丈夫、持ってきてる」


 御幡は、渚の能力の副作用――脱水症状のことを知っているようだ。
 渚は装備用リュックをちらりと見た。準備をしている時、和久田に言われなければ入れていなかった。


「それなら良かった。しんどかったら言ってね」


 御幡が小さく笑った。

 腫れ物扱いされているような雰囲気の中で、彼女と和久田だけが渚を気にかけている。その優しさをどう受け止めていいか分からず、渚は曖昧に頷いた。
 
 前方の和久田が立ち止まった。片膝をつき、岩肌に触れている。


「……脈動がありますが、外から測定したものよりも小さいです。今は本当に、眠ってるのかもしれません」


 御幡は背から端末を引き抜き、淡い青光で周囲を走査した。


 「湿度、88%。硫黄の濃度がやや高め……あとは、未知の微粒子が多い。吸い込むと……マスクを強化しといた方が良いかもしれません」

 
 他の隊員たちも、端末を操作しながら黙々と作業を続けていた。腰の《拡張ポケット》に、採取物を放り込む。手のひらほどのケースだが、中は弧洞由来の小空間につながっているものだ。


 弧洞内部で観測される「局所的な空間歪み現象」を人工的に模倣した技術で、研究部が実用化した携行装備。現実の物理法則をねじ曲げ、内容物を別の小空間に格納する――弧洞から得られた数少ない恩恵のひとつだった。
 

 その様子を横目に、渚は腕時計型のデバイスをタップした。


 淡い青光が走り、透明なウィンドウが目の前に浮かぶ。


 『フィールド・スキャンモード』は、弧洞の環境や生体反応を即座に解析する機能だった。


 ――――――
 《椎野 渚》
 等級:C
 階位:オペレーター
 所属:第二部隊弧洞調査課第四班
 界律能力:特殊液体生成
 身体能力値:C-(適合値54.6%)

 界律能力:92%
 能力負荷:15%
 界律安定値:+0.2(安定)
 バイタル:心拍72/血圧118-74 
 疲労指数:10%
 精神汚染:なし 
 恐怖解析:

 弧洞活性度:低(変動値10~30)
 弧洞等級推定:C1
 毒素反応:硫黄濃度 高
 環境汚染度:中
 異形反応:0 / 最短距離:――
 接近警戒アラート:なし
 ――――――
 
 渚は数値を一通り確認して、わずかに眉をひそめた。「低」と表示されている割に、洞内の空気はやけに重い。


 視線を落とすと、足元近くの壁に、黒く乾いたひび割れが走っているのが見えた。その隙間から、どろりとした湿り気がにじみ出ている。


 近寄り、指先ですくい上げた瞬間――ぬるり。、まるで舌で撫でられたかのように、泥が指にまとわりついた。


(うわ、きもちわる……!)
 
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