回帰の果てに逢いましょう ――滅亡する世界で、回帰の英雄に殺されないための六つの方略――

藤橋峰妙

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第一部『第006世界』

3-9:濡れる唇

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 渚はよろめきながら立ち上がった。
 頭の奥を金槌で叩かれたような痛みに、視界が二重に揺れる。

 牙を剥いた獣たちが、再び行く手を塞いだ。
 

「こっち、来るなっ!」


 短剣を振り払う。倒れ込みながら無様に振り回し、勢いのまま渚は扉へと進んだ。


「ま、まだっ……!」


 まだ、少しだけ、仲間が作った隙間が残っている。もう通れるほどの余地はないと分かっているのに、足は止まらない。


「椎野さっ――!」

「ま、まってまって、だめ!」


 声が喉に引っかかり、砕けた破片のように漏れる。伸ばした指先は空を掻くだけで、扉の縁に届かなかった。


 叫びが交錯した瞬間、ガシャアンッ――鋼鉄が噛み合い、その場は静まり返った。
 

 渚はその勢いのまま閉ざされた石の扉に激突した。
 肩と額を強打し、骨の芯まで響く衝撃が走った。


「ぐっ、はぅっ!」


 渚はずるずると座り込み、震える指先で扉を引っかいた。
 吐き出した息が喉にひっかかる。額から血が伝い、顎先からぽたりと落ちていた。

 爪がこすれて甲高い音を立てても、冷たい石扉は応えてくれない。涙と唾が混じり、溢れていく。
 
(おわった……)


 渚の思考が冷たく結論を下した。

 勝ち目はない。ここで喰い殺される。

 背後では泥と血の塊が蠢き、獣たちが低く唸り声を上げていた。赤く濡れた牙が、今にも飛びかかろうとその隙を狙っている。


 渚は扉に額を擦り付けた。逃げ場のない、完全な行き止まりだった。


 天災も異能もない平和な世界で一般人として生き、こんな場面とは無縁だった渚にとって、死があまりにも近すぎた。


 だが、渚は震える手をぎゅっと握る。

 
 脳裏に浮かんだのは、自分を気遣ってくれた御幡や和久田の顔。守ろうとしてくれた人たちを裏切るように死ぬのは、どうしても嫌だった。

 
 それから、母と父。思い出せないほど、遠くにあったはずの温もり。

 それには違和感と居心地の悪さばかりだったが、あの人たちにとっての『椎野渚』は、確かに最愛の娘だ。

 
 渚がここで諦めたら、渚を信じて見送っていたあの人たちを、また深く傷つけることになる。

 それが、どうしても受け入れられなかった。

 
 そして、七瀬。
 まだ、渚は七瀬を見つけていない。この本の中の世界に来た意味すら分かっていない。


「……あきらめ、ない」


 理性は無駄だと突き放すのに、心臓は立て続けに、激しく叩きつけるように脈打つ。

 渚は奥歯を噛みしめ、手のひらをほどいて石扉に置いた。まだ、終わらせるわけにはいかない。


 「ふぅー」と、長く、落ち着かせるように息を吐く。
 ざわめきを沈めるように。その瞳に決意の色が宿り、青が燦然と輝いた。


(――終わらせられない。まだ!)


 泥と血の獣が一斉に飛びかかった。
 影が渚の視界を覆った。よろめく身体を無理やり反転させ、握った短剣を振り抜く。

 
 獣の影が幾重にも膨れ上がった。数は減らず、また形を取り戻してくる。


「ぐっ……!」


 渚は短剣を握りしめ、もう片方の手で水を呼んだ。


 掌から滴った透明な液体が宙に散り、鞭のようにしなりながら獣の首を打ち据えた。水の衝撃に一体が壁へ叩きつけられたが、霧散することなく、泥の塊から再び同じ姿を成す。


「効いてない!」


 身体は戦闘に馴染んでいる。
 それは、恐らくこの世界の椎野渚の力だ。幾度も弧洞の訓練を受けてきた肉体による動きだ。
 
 だが、心は平凡な日常しか知らない。理屈と恐怖がせめぎ合い、次の一手を迷わせた。


 背後から牙の気配。反射で身を転がす。


 岩に肩をぶつけ、痛みに息が詰まった。衝撃で身体に絡まった花の蔓が、壁でぐちゃぐちゃに折れる。絡みついていた花の蔓が裂け、裂けた蔓の断面から、粘性のある樹液が頬を伝い、唇へと落ちた。


 その液体が唇に付着していたことに、渚は気づかなかった。無意識に唇を噛んだ拍子に、舌先へ、鉄と草のえぐみが広がる。


「ぐっ!」


 突如、渚の腹部が灼けるように熱くなり、喉から胸へと痺れが走った。


「な、なに……! これ……、うぅっ、うぇっ」


 口元に手をあててうずくまると、素早くまた獣が襲いかかってくる。
 
 瓦礫と植物の間に落ちた短剣をとっさに拾い上げ、渚は絡まった蔓ごと短剣を振った。

 刃に絡んだ樹液がどろりと広がり、ぬめる感触が手に伝わる。刃にまとわりついた樹液のぬめりが、獣の胴に食い込んだ。

 ずぶり、と嫌な感触が腕に返る。獣はすぐには消えなかった。
 裂けた胴の内側で、黒い肉塊が遅れて崩れ、声にならない音を漏らした。一拍、その獣の口だけが苦悶を吐き出すように開閉し、歯の間から泥と血が泡立って溢れた。

 ようやく刃が抜けた瞬間、獣の身体は形を保てなくなり、足元で崩れ落ちた。

 霧散したあとにも、床には黒い染みだけが残った。渚の手首から肘にかけて、生温かい液体が垂れている。

「……え」

(消えた?)


 別の獣が襲いかかってくる。渚は刃に樹液を纏わせ、膝を起こしながら獣を斬りつけた。またも、獣の影が悲鳴とともに消えた。

 
「き、効いてる?」




 
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