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11 わかりにくい人だなもう
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あの世暮らしがこの上なく快適というのもよろしくない。
「そろそろ参りますか」
広々とした部屋で睡眠取り放題、極上の食事は食べ放題というブルジョアな生活を続けていると、毎日それだけで満足して何もしなくなってしまう。
無生産に、無為に生きる。オーナーが撫子に希望したのはまさにそんな生活だったかもしれない。
しかし撫子が「いや、それは人間の生活としてどうなのか」と哲学してしまったのは、残念としか言いようがない。
「ごちそうさまでした。それではお掃除に行ってきます」
レストランでの食事の後、撫子は手を合わせてから立ち上がる。
自堕落防止法として、考えた策が一つ。
撫子は一度寝て一食食べたら、一度は働くという習慣をつけることにした。
「失礼します」
撫子の部屋の隣にあるオーナーの部屋に、合鍵を使って入る。
フィンの世話もひと段落し、次に何かする仕事がないかと訊いたところ、オーナーの部屋の掃除を言いつけられた。
「よし、やるぞ」
腕まくりをしてから、撫子は絨毯を隅から順々に掃除機をかけ始める。
ワイヤレスで音の静かな小型掃除機は、少しの力ですいすい動く。
「ふん、ふふんふーん」
最近お気に入りの歌のイントロを口ずさみつつ、快適にお掃除をする。
死出の世界の塵は掃除しなくても害はないらしいが、積もると美観を損ねるらしい。
「むかしむかしのおはなしでーす」
ハイテク掃除機はすぐに廊下を掃除し終わったので、撫子は奥まで行ったついでにお風呂場に手をつけることにした。
「すずめのおやどにやってきた、わかものがひとり」
洗剤の要らないスポンジを使って、ごしごしと湯船を擦る。
「にんげんはめずらしい、ひとばんおとまりいかがです……これよく落ちるな。うちにもほしい」
ついまじまじとスポンジを見る。
「うたとおどりでおもてなし、おんせんつかってごくらくきぶん」
バスタブの湯垢を落とし終わると、今度は壁を磨く。
「ふーん、ふふふーん」
間奏に入る。
「ふーん、ふ? あれ? まあいいや」
あまりに間奏が長いのでわからなくなってきた。
撫子はシャワーで壁の汚れを落とすと、掃除用品をバケツに入れてベッドルームに向かう。
「かえるとき、すずめのおかみにいいました」
撫子はベッドメイキングが好きだ。しわ一つ作らずにできたときの満足感は実に快感だ。
「おだいはなにで、はらいましょう」
撫子はシーツを持って意気揚々とベッドルームの扉を開いた。
「むかしむかしのおはなし……」
ソファーの上にオーナーの白い尻尾が覗いていることに気付いて、撫子は氷になった。
「ひゃあ!」
今の歌を聞かれたかもしれない。チャーリーに教わった、再現率三パーセントくらいのド下手な歌をオーナーが聞いていたら、冷笑が返ってきそうだ。
思わず一歩後ろに引いた撫子にオーナーの冷たい一言はかけられることがなかった。
撫子は恐る恐るソファーに近付いて覗きこむ。
オーナーは体を丸めて横向きに眠っていた。静かな寝息を立てながら尻尾の先までくるんと巻いている。
人型になっても丸まって眠るんだ。そう思ったら、なんだか愛おしく感じた。
しみじみと見てみると、オーナーの横顔は端整で上品だ。目を閉じていると睫毛も長くて綺麗な扇状になっている。
いつも撫子が掃除に来る時には部屋にいないし、時々会うことはあっても長く一緒にいることはない。オーナーが忙しいのは、ホテルの隅で働いている撫子にもわかる。
それでもオーナーから愚痴なんて聞いたことがない。そもそもオーナーが自分のことを語るのを聞いたことがない。
撫子がみつめていてもオーナーは起きる気配がなかった。
撫子はそろそろとベッドから毛布を持ってくる。
「オーナー」
そっと毛布をかけようとしたところで、オーナーが呟いたのが聞こえた。
オーナーが、「オーナー」?
撫子が首をひねりながら毛布をかけると、オーナーのまぶたがぴくりと動く。
彼は気だるげに半身を起して、撫子に緑の目を向ける。
「撫子でしたか」
ぼんやりした目をしたのは一瞬で、オーナーはすぐにいつもの笑顔になっていた。
「毛布は結構。もう起きます」
「お疲れなんじゃないですか? ベッドでお休みになったら」
「あなたもそろそろおわかりでしょうが、この世では肉体的な疲れを感じません」
オーナーはカッターの襟を整えながら立ち上がる。
「精神的な疲れは別ですが、あなたに心配されるほど私も無様ではありません」
きっぱりと言い切って、オーナーは優雅に笑った。
「大体あなた、歌詞をわかって歌っているんですか?」
オーナーは鏡で身支度を整えながら言う。
その言葉に、撫子は喉を詰まらせた。
「や、やっぱり起きていらっしゃったんですか?」
「眠っていましたが、聴覚は起きていますので」
そんな器用な。思わず感心しつつ、撫子は言い訳をする。
「歌詞はアラム語辺りでしょう? 日本人の私じゃわかりませんよ」
マニアックな理由をつけた撫子を見下ろしつつ、オーナーは言う。
「死出の世界では言語は共通です。動物のお客様の言葉もわかるでしょう?」
「ああ、そういえばそうですね。どういう原理なんですか?」
オーナーは少し考えてから答えた。
「じゃあ、あなたの世界ではどうして言葉が分かれているんですか?」
「え? それはバベルの塔が……いえ、実はわかりません」
撫子が適当な知識を披露するのをさっさと諦めて素直に認めると、彼もまた堂々と言い放った。
「この世界ではそういう風に出来ているんです」
「わかりました」
このひとのこういう案外投げやりなところ、私は好きだなぁ。撫子はこっそり思いながら、頭を下げた。
「その歌は歌詞を理解してこそ面白いものですよ。……ああ、そうそう」
オーナーは部屋を横切って机の前に来ると、そこにある黒い機材を示して言う。
「時間があったら倉庫にこれを仕舞ってきて、ついでに片付けをしてきて頂けますか? 場所はチャーリーが知っていますから、彼も使って構いません」
「了解です。気合入れて掃除しますよ」
撫子がうなずくと、オーナーはまた撫子の方に歩いてきた。
「な、何ですか?」
すぐ側からじっと猫目で見下ろしてきて、撫子はちょっとのけぞる。
「あなたは働くことが楽しいですか?」
「ここで働くのはたいてい誰でも楽しいんじゃないですか」
撫子はきょとんとして言う。
備品がいちいちハイテクで使いやすいし、同僚が親切だし、まかないと寝床がすばらしい。
「何もしないで寝暮らししていても全く構いませんよ。ただあなたがそれだと死にそうだと言うので仕事を与えているだけです」
「オーナー。それはあまりに私を馬鹿にしてます」
撫子はその言葉にちょっとむっとした。
「オーナーが疲れてソファーで寝ている横で、私に掃除もしないでふてくされてろって言うんですか」
オーナーは黙って撫子を見た。撫子は気まずい思いになる。
またやってしまった。生きていた頃も、こういう熱いところというか、噛みつく癖が足を引っ張った覚えがあるのに。
「私はあなたを利用するために結婚を申し込んだわけではありませんが」
「はは。すみませんね、たいしたことできなくて」
私に瞬間移動とか超人的なことを要求されても困りますから。
撫子が乾いた笑いをこぼしつつ頭をかくと、オーナーはぽんとその頭を叩いた。
「愛していますよ、撫子」
「なっ、突然何ですか!」
いきなり言われて首の辺りを赤くする撫子に、オーナーは笑う。
「ちょっとわかりにくかったので、まとめました」
尻尾を一振りして、オーナーは撫子の肩を通り過ぎ際に叩いて去って行った。
「そろそろ参りますか」
広々とした部屋で睡眠取り放題、極上の食事は食べ放題というブルジョアな生活を続けていると、毎日それだけで満足して何もしなくなってしまう。
無生産に、無為に生きる。オーナーが撫子に希望したのはまさにそんな生活だったかもしれない。
しかし撫子が「いや、それは人間の生活としてどうなのか」と哲学してしまったのは、残念としか言いようがない。
「ごちそうさまでした。それではお掃除に行ってきます」
レストランでの食事の後、撫子は手を合わせてから立ち上がる。
自堕落防止法として、考えた策が一つ。
撫子は一度寝て一食食べたら、一度は働くという習慣をつけることにした。
「失礼します」
撫子の部屋の隣にあるオーナーの部屋に、合鍵を使って入る。
フィンの世話もひと段落し、次に何かする仕事がないかと訊いたところ、オーナーの部屋の掃除を言いつけられた。
「よし、やるぞ」
腕まくりをしてから、撫子は絨毯を隅から順々に掃除機をかけ始める。
ワイヤレスで音の静かな小型掃除機は、少しの力ですいすい動く。
「ふん、ふふんふーん」
最近お気に入りの歌のイントロを口ずさみつつ、快適にお掃除をする。
死出の世界の塵は掃除しなくても害はないらしいが、積もると美観を損ねるらしい。
「むかしむかしのおはなしでーす」
ハイテク掃除機はすぐに廊下を掃除し終わったので、撫子は奥まで行ったついでにお風呂場に手をつけることにした。
「すずめのおやどにやってきた、わかものがひとり」
洗剤の要らないスポンジを使って、ごしごしと湯船を擦る。
「にんげんはめずらしい、ひとばんおとまりいかがです……これよく落ちるな。うちにもほしい」
ついまじまじとスポンジを見る。
「うたとおどりでおもてなし、おんせんつかってごくらくきぶん」
バスタブの湯垢を落とし終わると、今度は壁を磨く。
「ふーん、ふふふーん」
間奏に入る。
「ふーん、ふ? あれ? まあいいや」
あまりに間奏が長いのでわからなくなってきた。
撫子はシャワーで壁の汚れを落とすと、掃除用品をバケツに入れてベッドルームに向かう。
「かえるとき、すずめのおかみにいいました」
撫子はベッドメイキングが好きだ。しわ一つ作らずにできたときの満足感は実に快感だ。
「おだいはなにで、はらいましょう」
撫子はシーツを持って意気揚々とベッドルームの扉を開いた。
「むかしむかしのおはなし……」
ソファーの上にオーナーの白い尻尾が覗いていることに気付いて、撫子は氷になった。
「ひゃあ!」
今の歌を聞かれたかもしれない。チャーリーに教わった、再現率三パーセントくらいのド下手な歌をオーナーが聞いていたら、冷笑が返ってきそうだ。
思わず一歩後ろに引いた撫子にオーナーの冷たい一言はかけられることがなかった。
撫子は恐る恐るソファーに近付いて覗きこむ。
オーナーは体を丸めて横向きに眠っていた。静かな寝息を立てながら尻尾の先までくるんと巻いている。
人型になっても丸まって眠るんだ。そう思ったら、なんだか愛おしく感じた。
しみじみと見てみると、オーナーの横顔は端整で上品だ。目を閉じていると睫毛も長くて綺麗な扇状になっている。
いつも撫子が掃除に来る時には部屋にいないし、時々会うことはあっても長く一緒にいることはない。オーナーが忙しいのは、ホテルの隅で働いている撫子にもわかる。
それでもオーナーから愚痴なんて聞いたことがない。そもそもオーナーが自分のことを語るのを聞いたことがない。
撫子がみつめていてもオーナーは起きる気配がなかった。
撫子はそろそろとベッドから毛布を持ってくる。
「オーナー」
そっと毛布をかけようとしたところで、オーナーが呟いたのが聞こえた。
オーナーが、「オーナー」?
撫子が首をひねりながら毛布をかけると、オーナーのまぶたがぴくりと動く。
彼は気だるげに半身を起して、撫子に緑の目を向ける。
「撫子でしたか」
ぼんやりした目をしたのは一瞬で、オーナーはすぐにいつもの笑顔になっていた。
「毛布は結構。もう起きます」
「お疲れなんじゃないですか? ベッドでお休みになったら」
「あなたもそろそろおわかりでしょうが、この世では肉体的な疲れを感じません」
オーナーはカッターの襟を整えながら立ち上がる。
「精神的な疲れは別ですが、あなたに心配されるほど私も無様ではありません」
きっぱりと言い切って、オーナーは優雅に笑った。
「大体あなた、歌詞をわかって歌っているんですか?」
オーナーは鏡で身支度を整えながら言う。
その言葉に、撫子は喉を詰まらせた。
「や、やっぱり起きていらっしゃったんですか?」
「眠っていましたが、聴覚は起きていますので」
そんな器用な。思わず感心しつつ、撫子は言い訳をする。
「歌詞はアラム語辺りでしょう? 日本人の私じゃわかりませんよ」
マニアックな理由をつけた撫子を見下ろしつつ、オーナーは言う。
「死出の世界では言語は共通です。動物のお客様の言葉もわかるでしょう?」
「ああ、そういえばそうですね。どういう原理なんですか?」
オーナーは少し考えてから答えた。
「じゃあ、あなたの世界ではどうして言葉が分かれているんですか?」
「え? それはバベルの塔が……いえ、実はわかりません」
撫子が適当な知識を披露するのをさっさと諦めて素直に認めると、彼もまた堂々と言い放った。
「この世界ではそういう風に出来ているんです」
「わかりました」
このひとのこういう案外投げやりなところ、私は好きだなぁ。撫子はこっそり思いながら、頭を下げた。
「その歌は歌詞を理解してこそ面白いものですよ。……ああ、そうそう」
オーナーは部屋を横切って机の前に来ると、そこにある黒い機材を示して言う。
「時間があったら倉庫にこれを仕舞ってきて、ついでに片付けをしてきて頂けますか? 場所はチャーリーが知っていますから、彼も使って構いません」
「了解です。気合入れて掃除しますよ」
撫子がうなずくと、オーナーはまた撫子の方に歩いてきた。
「な、何ですか?」
すぐ側からじっと猫目で見下ろしてきて、撫子はちょっとのけぞる。
「あなたは働くことが楽しいですか?」
「ここで働くのはたいてい誰でも楽しいんじゃないですか」
撫子はきょとんとして言う。
備品がいちいちハイテクで使いやすいし、同僚が親切だし、まかないと寝床がすばらしい。
「何もしないで寝暮らししていても全く構いませんよ。ただあなたがそれだと死にそうだと言うので仕事を与えているだけです」
「オーナー。それはあまりに私を馬鹿にしてます」
撫子はその言葉にちょっとむっとした。
「オーナーが疲れてソファーで寝ている横で、私に掃除もしないでふてくされてろって言うんですか」
オーナーは黙って撫子を見た。撫子は気まずい思いになる。
またやってしまった。生きていた頃も、こういう熱いところというか、噛みつく癖が足を引っ張った覚えがあるのに。
「私はあなたを利用するために結婚を申し込んだわけではありませんが」
「はは。すみませんね、たいしたことできなくて」
私に瞬間移動とか超人的なことを要求されても困りますから。
撫子が乾いた笑いをこぼしつつ頭をかくと、オーナーはぽんとその頭を叩いた。
「愛していますよ、撫子」
「なっ、突然何ですか!」
いきなり言われて首の辺りを赤くする撫子に、オーナーは笑う。
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