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13 夫(仮)に女性のかげ
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掃除は禁止令が出てしまったので、撫子はレストランで給仕をすることになった。
「もうお体は大丈夫なのですか?」
「ああ、はい。だって怪我や病気をしたわけではありませんし」
いつも撫子の給仕をしてくれるペルシャ猫の老ウェイターは、撫子が裏方で待っている間に優しく話しかけてくれる。
「無理はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
撫子は頭を下げてから、ふと顔を上げる。
「そういえば、お名前はヴィンセントさんですよね?」
彼は柔和な顔に微笑みを浮かべてうなずく。
「ええ、ヴィンセントと申します」
「昔からいらっしゃるんですか?」
撫子が言うと、ヴィンセントは赤銅色の瞳を細めた。
「もしかして、撫子様が吸い込んだ記憶に私のことがございましたか」
勘のいいお方だと思いながら、撫子は答える。
「ええ。優秀なホテルマンだと誰かに言われていて。女性で、えっと……」
撫子が言葉に迷うと、彼は撫子の内心を察したように続けた。
「オーナーと私がお呼びしていたのでしょう? その方は先代のキャット・ステーション・ホテルのオーナーですね」
「先代?」
「ええ、現在のオーナーは二代目です。その女性はこのホテルを創立なさった方ですよ」
ヴィンセントは首を傾けて何かを思い出すような素振りをした。
「お名前は……ああ、駄目ですね。従業員名簿から消されているので、従業員の記憶からは消えてしまっています」
「便利なのかそうでないのかわからないですね、従業員名簿」
ヴィンセントは声をひそめて言う。
「ちなみに、従業員名簿の紙は元々かみから交付されたものでして」
「か、神!?」
「あまり大きな声では言えないんですが」
確かに撫子も知る限り、あまり日常会話で使う名前ではない。
「いるんですか、神様」
「お上と呼びましょう」
ヴィンセントは人差し指を口の前に当てて大人の対応を見せる。
「その辺りのことはあいまいにしておいた方が無難です。紙を交付したりお迎えを派遣したり、たぶんいらっしゃるのは確かですが」
撫子はあの世のシステムがちょっとわかったような、余計わからなくなったような気分だった。
「なぜ紙を?」
「昔からのなりゆきです。ただ、そこに書き込むと従業員全員で共有できるので便利です」
撫子の頭にインターネットとパソコンがよぎった。何度でも思うが、あの世は思っていたより最先端だ。
「神のお上が紙を交付……」
かみだけに。駄洒落を言いそうになりながら、撫子はぐっとこらえる。
厨房から呼ぶ声が聞こえたので、ヴィンセントは一礼して告げる。
「失礼。給仕に参ります」
「いえいえ。お引き留めして申し訳ありませんでした」
撫子も仕事をしようと、レストランの中を見回す。
生前に飲食店のバイトもしていたが、こんな高級感あるレストランの給仕は初めてだ。撫子は粗相のないようにと少し緊張しながら、厨房と席を往復した。
支給されたカッターシャツにネクタイ姿で動くことも最初は戸惑った。ただ数刻もすればうきうきしてきた。
元々働くのは好きだ。お客様とお話したりしながら、撫子はけっこう楽しく給仕をする。
「ねえ、あなた人間ね?」
お水を足しに行った先で、撫子は呼びとめられる。
はい、と返事をしようとして、撫子は息を呑む。
そこに座っていた女性はこの世ならざる、異彩を放つほどの美貌を持っていた。長い黒髪を結って白いうなじを出していて、白い生地に桜の文様が描かれた着物を着ている。
「こちらのオーナーが最近人間と婚姻を成したとお聞きして、参りましたのよ。あなたですの?」
お年は二十代の後半といったところだろうか。小柄な体躯から来るかわいらしさと妙齢の表情のあでやかさで、軽く小首を傾げる様が実に絵になる。
「恐縮ながら私めは結婚しておりません」
変な敬語を使いながら撫子はかしこまって首を横に振る。
毎度の断り文句を告げて、目の保養にするつもりで撫子はまじまじと彼女をみつめる。
「オーナーのことは幼少から存じておりますのよ。なかなか気難しい方でございましょう?」
「まあ難しいところがあるのは否定しませんが」
初対面の相手に笑顔で「死にたくなければ妻になれ」と脅迫してくるような方だ。最初は撫子も怒ったし、今もそのときのことは許していない。
「優しいひとだと思ってますよ」
躍起になって夫婦でないと主張するより前に言っていたのは、最近認め始めていることだった。
オーナーは言葉こそ冷ややかだが、撫子を助けてくれたりアドバイスをくれたりする。
言葉よりふっと撫子を見るまなざしの方が、案外優しさを伝えてくる気がした。
「あなたは外出もままならないのでしょう?」
撫子は一瞬痛いところを突かれた気がした。
どうしてそんなことを知っているのかわからないが、それは本当だ。
死出の世界に来てから、最寄りの駅以外に行ったことがない。もちろんホテル生活は快適で何不自由ないけれど、このまま一生外に出られないままなのではと不安もある。
「わたくし、ここより近いところで宿を営んでおりますの。一度遊びにいらっしゃいませんか?」
甘い微笑みを刻んで、その女性は撫子の耳に口を寄せる。
「なに、簡単なことでございますよ。わたくしの手を取るだけ。すぐに宿までご案内いたしますわ」
悪い人は甘い声を使う。生前、散々学んだ教訓だ。
けれどその声は撫子の頭のそういう正常な感覚をもみつぶした。するりと内側に入っていって居座るような、魔的な誘いだった。
女性は立ちあがって撫子の手を引いていた。
霧がかかっているように辺りがぼんやりとしか見えない。歩いているつもりはないのに、体は勝手に進んでいく。
廊下をすり抜けて階を上り、観音開きの窓まで辿り着く。
窓がひとりでに開いて女性が先に外へ出る。宙に浮いたまま、彼女は手を差し出した。
「さあ、参りましょう」
撫子は無言で手を伸ばす。
あ、これは危ない感じだ。でも体が動かなくて、逆らえない。
怖いという感覚も麻痺しそうになっていたときだった。
「この世に不慣れな妻を私の許可なく連れ出されては困ります」
後ろから抱きすくめられて止められた。
急速に意識が覚醒する。無重力状態の体がすとんと床に落ち着くような心地がした。
「危ないところでしたね、撫子。外にはだます輩もいますから」
撫子が首だけ巡らせると、叱るように指を立てたオーナーの姿があった。
何か危ないところに連れて行かれそうになった。
撫子はそれに気づいて嫌な汗を流す。悪い夢から覚めたような気分だった。
「だますとは心外なこと。わたくしは我が宿においでになるようお勧めしただけ」
「暗示をかけて連れて行くのはだますと言うのですよ、おかみ」
撫子は額の汗を拭って、思わず驚きの声を上げる。
「え、この方神様なんですか?」
「お上はもっと良心的です。彼女はただの宿の女主人ですよ」
女将。そちらの方がよほど普通の名前なのに、どうもかみというフレーズを聞き過ぎた。
「老舗、『雀のお宿』のね」
桜の着物をはためかせて、女将は背中に翼を広げて舞い上がる。その翼は確かに雀のものだった。
「てっきりオーナーの昔の恋人かと」
「誰がこの妖怪と恋人ですか」
「ちょっ、オーナー。言い過ぎ……!」
「ほほほ、生意気な口を利くようになったこと」
女将は袖の先で口元を押さえながらころころと笑う。
「幼き頃はまだかわいげもあったというのに。坊や、年長者は敬うものですよ」
「そうですよ、オーナー。こんなお若いのに」
「千年以上死出の世界にいるというのに? この女将の宿がどんなものか、あなたはあれだけ歌っておきながらわかっていないのですか」
撫子が首をひねると、オーナーは待っているのも面倒とばかりに口を開く。
「昔々のお話です。雀のお宿にやって来た若者が一人」
「ふんふん」
「人間は珍しい。一晩お泊りいかがです? 歌と踊りでおもてなし、温泉浸かって極楽気分」
「あ、なんとなくわかってきました」
それはチャーリーが教えてくれた、最近お気に入りのポップな歌だった。
「帰る時、雀の女将に言いました。お代は何で払いましょう?」
撫子は口を開いて、次の歌詞を口にしようとした。
「お代はあなたの魂で結構。人間の魂は極上の珍味」
……お?
「若者は美味しく食べられましたとさ。めでたしめでたし」
「めでたくない!」
子どもが聞いたら泣く昔話だった。
撫子も真相を聞いた今となっては泣きそうだった。
「古来、日本は動物を対象にした宿がほとんどなんです。人間が停留所にいるのは終着駅に辿り着くまでに逃げてきた者とみなされ、食べられます」
「じゃあ人間は休暇を過ごせないじゃないですか!」
「それを不満に感じた人間がいたのですよ」
女将が目を細めながら言った言葉に、オーナーはぴしゃりと返す。
「先代は純粋な興味で人間を対象とするホテルを創立なさったのです」
「ほほ。その結果、一体何人の人間が訪れたのですの?」
女将は口の端を上げて告げる。
「生に執着なく休暇の申請を許される人間などほんの一握り。すぐに人間を対象にするのをやめ、人型で休暇を過ごす動物のためのホテルとなったのでしょう?」
「それでも人間のお客様を受け入れる宿として、当ホテルは好評をいただいております」
「創立目的が間違っているのですよ。なぜそれを受け入れないのです?」
雀の女将は駄々っ子をあやすように話すのをやめない。
「ここは日本の動物たちの通る駅だというのに、西洋かぶれしたホテルを建てている。信念などないに等しいではありませんか」
「信念ならあります!」
撫子は思わず反論の声を上げていた。
「西洋風なんて関係ないじゃありませんか!」
「答えになっておりませんよ。何の信念があるというのです?」
「ここは暮らしやすくてハイテクなホテルです。信念くらい当然……」
「おやめなさい、撫子」
言いかけた撫子をオーナーは静かに制止した。
「商売敵に当ホテルのポリシーを説明する義理はありません。ポリシーより、お客様に休暇を楽しんでいただけることが大事です」
「ですが、オーナー」
あんな言われ方、悔しい。そう言おうとして、オーナーの言葉に息を呑む。
「先代の意思も知らない輩の言葉に、ホテルの支配人たる私が動揺するわけにはいきません」
一瞬撫子は呼吸を止めてしまった。
撫子が知らない先代の「オーナー」が創ったホテルについて、撫子だって口出しできることではないと言われたような気がした。
「それで? 私をおびきだして、何を企んでいるのです?」
少しうつむいた撫子には気づかなかったのか、オーナーは女将に向き直る。
女将は笑い声をこぼして袖から何かを取り出した。
「人聞きの悪い。わたくしはこれをあなたに届けに参ったのですよ」
それは木の軸に巻いたフィルムだった。ホテルの倉庫で見た、旧式のプロジェクターに使うものだ。
「倉庫からフィルムを盗んだのはあなたでしたか」
「おや、わたくしはただ拾っただけ。盗んだなど濡れ衣も甚だしい」
撫子は先日倉庫に吹き込んだ突風を思い出した。
あの時鳥の羽音が聞こえた。撫子だけではなくチャーリーもいたのだから、そちらからオーナーに話が伝わっていたのかもしれない。
オーナーはフィルムに目を細めた。
「何と交換しようと?」
「話が早い。対価なしの取引などありえませんからね」
女将は愉快そうに首を傾けて、桜の花びらのような唇から言葉を紡ぐ。
「代わりに、坊やの従業員名簿を見せてくれるかしら?」
オーナーは一瞬沈黙して、すっと懐に手を入れる。
撫子は慌ててオーナーを振り向いた。
「従業員名簿ってお上からもらった大事なものでしょう? 商売敵に渡したらまずいんじゃ」
撫子がオーナーの袖を引いて訴えても、彼は首を横に振る。
「あのフィルムは当ホテルの記憶。流出は恥です」
一瞬子どものように頼りない目をして、オーナーは撫子を振り払った。
オーナーは一歩進み出ると、懐からリボンで縛った羊皮紙のような巻紙を取り出して、女将に向かって差し出す。
それと引き換えにフィルムを受け取ると、オーナーは撫子に渡した。撫子は思わず受け取ってしまう。
オーナーは女将に向かって挑戦的に笑う。
「一つ言っておきますが、それはあなたには使いこなせないでしょう」
オーナーは撫子を振り返って言う。
「撫子。あなたは私の部屋にいなさい。すぐに戻ります」
言葉が終わる前に、いきなりオーナーの姿が消えた。
「オーナー!?」
「ほほ。我がこと成れり」
まばたきをするような一瞬の後、女将は翼をはばたかせて舞い上がっていた。
「な、何をしたんですか!?」
女将の手には筆があって、従業員名簿に線を引いている。
「オーナーの名を消して、わたくしの名を書き込んだのですよ。今よりこの宿の主はわたくしです」
「見るだけと言ったじゃないですか!」
「簡単に名簿を渡すような主が悪いのですよ」
「それ、だます方が言えることですか!? だます方が100パーセント悪いに決まってるでしょう!」
きっとにらみつけたが、オーナーの姿はもうどこにも見えない。
「オーナーはどこですか……うわっ!」
女将は笑い声を響かせながら撫子の横をすり抜けてホテルの中に飛びこんでいく。
後に残ったのは粉々に砕けた窓ガラスだけだった。
「こらぁ!」
撫子は呆けている場合ではないと思い、大急ぎで階段を下って行った。
「もうお体は大丈夫なのですか?」
「ああ、はい。だって怪我や病気をしたわけではありませんし」
いつも撫子の給仕をしてくれるペルシャ猫の老ウェイターは、撫子が裏方で待っている間に優しく話しかけてくれる。
「無理はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
撫子は頭を下げてから、ふと顔を上げる。
「そういえば、お名前はヴィンセントさんですよね?」
彼は柔和な顔に微笑みを浮かべてうなずく。
「ええ、ヴィンセントと申します」
「昔からいらっしゃるんですか?」
撫子が言うと、ヴィンセントは赤銅色の瞳を細めた。
「もしかして、撫子様が吸い込んだ記憶に私のことがございましたか」
勘のいいお方だと思いながら、撫子は答える。
「ええ。優秀なホテルマンだと誰かに言われていて。女性で、えっと……」
撫子が言葉に迷うと、彼は撫子の内心を察したように続けた。
「オーナーと私がお呼びしていたのでしょう? その方は先代のキャット・ステーション・ホテルのオーナーですね」
「先代?」
「ええ、現在のオーナーは二代目です。その女性はこのホテルを創立なさった方ですよ」
ヴィンセントは首を傾けて何かを思い出すような素振りをした。
「お名前は……ああ、駄目ですね。従業員名簿から消されているので、従業員の記憶からは消えてしまっています」
「便利なのかそうでないのかわからないですね、従業員名簿」
ヴィンセントは声をひそめて言う。
「ちなみに、従業員名簿の紙は元々かみから交付されたものでして」
「か、神!?」
「あまり大きな声では言えないんですが」
確かに撫子も知る限り、あまり日常会話で使う名前ではない。
「いるんですか、神様」
「お上と呼びましょう」
ヴィンセントは人差し指を口の前に当てて大人の対応を見せる。
「その辺りのことはあいまいにしておいた方が無難です。紙を交付したりお迎えを派遣したり、たぶんいらっしゃるのは確かですが」
撫子はあの世のシステムがちょっとわかったような、余計わからなくなったような気分だった。
「なぜ紙を?」
「昔からのなりゆきです。ただ、そこに書き込むと従業員全員で共有できるので便利です」
撫子の頭にインターネットとパソコンがよぎった。何度でも思うが、あの世は思っていたより最先端だ。
「神のお上が紙を交付……」
かみだけに。駄洒落を言いそうになりながら、撫子はぐっとこらえる。
厨房から呼ぶ声が聞こえたので、ヴィンセントは一礼して告げる。
「失礼。給仕に参ります」
「いえいえ。お引き留めして申し訳ありませんでした」
撫子も仕事をしようと、レストランの中を見回す。
生前に飲食店のバイトもしていたが、こんな高級感あるレストランの給仕は初めてだ。撫子は粗相のないようにと少し緊張しながら、厨房と席を往復した。
支給されたカッターシャツにネクタイ姿で動くことも最初は戸惑った。ただ数刻もすればうきうきしてきた。
元々働くのは好きだ。お客様とお話したりしながら、撫子はけっこう楽しく給仕をする。
「ねえ、あなた人間ね?」
お水を足しに行った先で、撫子は呼びとめられる。
はい、と返事をしようとして、撫子は息を呑む。
そこに座っていた女性はこの世ならざる、異彩を放つほどの美貌を持っていた。長い黒髪を結って白いうなじを出していて、白い生地に桜の文様が描かれた着物を着ている。
「こちらのオーナーが最近人間と婚姻を成したとお聞きして、参りましたのよ。あなたですの?」
お年は二十代の後半といったところだろうか。小柄な体躯から来るかわいらしさと妙齢の表情のあでやかさで、軽く小首を傾げる様が実に絵になる。
「恐縮ながら私めは結婚しておりません」
変な敬語を使いながら撫子はかしこまって首を横に振る。
毎度の断り文句を告げて、目の保養にするつもりで撫子はまじまじと彼女をみつめる。
「オーナーのことは幼少から存じておりますのよ。なかなか気難しい方でございましょう?」
「まあ難しいところがあるのは否定しませんが」
初対面の相手に笑顔で「死にたくなければ妻になれ」と脅迫してくるような方だ。最初は撫子も怒ったし、今もそのときのことは許していない。
「優しいひとだと思ってますよ」
躍起になって夫婦でないと主張するより前に言っていたのは、最近認め始めていることだった。
オーナーは言葉こそ冷ややかだが、撫子を助けてくれたりアドバイスをくれたりする。
言葉よりふっと撫子を見るまなざしの方が、案外優しさを伝えてくる気がした。
「あなたは外出もままならないのでしょう?」
撫子は一瞬痛いところを突かれた気がした。
どうしてそんなことを知っているのかわからないが、それは本当だ。
死出の世界に来てから、最寄りの駅以外に行ったことがない。もちろんホテル生活は快適で何不自由ないけれど、このまま一生外に出られないままなのではと不安もある。
「わたくし、ここより近いところで宿を営んでおりますの。一度遊びにいらっしゃいませんか?」
甘い微笑みを刻んで、その女性は撫子の耳に口を寄せる。
「なに、簡単なことでございますよ。わたくしの手を取るだけ。すぐに宿までご案内いたしますわ」
悪い人は甘い声を使う。生前、散々学んだ教訓だ。
けれどその声は撫子の頭のそういう正常な感覚をもみつぶした。するりと内側に入っていって居座るような、魔的な誘いだった。
女性は立ちあがって撫子の手を引いていた。
霧がかかっているように辺りがぼんやりとしか見えない。歩いているつもりはないのに、体は勝手に進んでいく。
廊下をすり抜けて階を上り、観音開きの窓まで辿り着く。
窓がひとりでに開いて女性が先に外へ出る。宙に浮いたまま、彼女は手を差し出した。
「さあ、参りましょう」
撫子は無言で手を伸ばす。
あ、これは危ない感じだ。でも体が動かなくて、逆らえない。
怖いという感覚も麻痺しそうになっていたときだった。
「この世に不慣れな妻を私の許可なく連れ出されては困ります」
後ろから抱きすくめられて止められた。
急速に意識が覚醒する。無重力状態の体がすとんと床に落ち着くような心地がした。
「危ないところでしたね、撫子。外にはだます輩もいますから」
撫子が首だけ巡らせると、叱るように指を立てたオーナーの姿があった。
何か危ないところに連れて行かれそうになった。
撫子はそれに気づいて嫌な汗を流す。悪い夢から覚めたような気分だった。
「だますとは心外なこと。わたくしは我が宿においでになるようお勧めしただけ」
「暗示をかけて連れて行くのはだますと言うのですよ、おかみ」
撫子は額の汗を拭って、思わず驚きの声を上げる。
「え、この方神様なんですか?」
「お上はもっと良心的です。彼女はただの宿の女主人ですよ」
女将。そちらの方がよほど普通の名前なのに、どうもかみというフレーズを聞き過ぎた。
「老舗、『雀のお宿』のね」
桜の着物をはためかせて、女将は背中に翼を広げて舞い上がる。その翼は確かに雀のものだった。
「てっきりオーナーの昔の恋人かと」
「誰がこの妖怪と恋人ですか」
「ちょっ、オーナー。言い過ぎ……!」
「ほほほ、生意気な口を利くようになったこと」
女将は袖の先で口元を押さえながらころころと笑う。
「幼き頃はまだかわいげもあったというのに。坊や、年長者は敬うものですよ」
「そうですよ、オーナー。こんなお若いのに」
「千年以上死出の世界にいるというのに? この女将の宿がどんなものか、あなたはあれだけ歌っておきながらわかっていないのですか」
撫子が首をひねると、オーナーは待っているのも面倒とばかりに口を開く。
「昔々のお話です。雀のお宿にやって来た若者が一人」
「ふんふん」
「人間は珍しい。一晩お泊りいかがです? 歌と踊りでおもてなし、温泉浸かって極楽気分」
「あ、なんとなくわかってきました」
それはチャーリーが教えてくれた、最近お気に入りのポップな歌だった。
「帰る時、雀の女将に言いました。お代は何で払いましょう?」
撫子は口を開いて、次の歌詞を口にしようとした。
「お代はあなたの魂で結構。人間の魂は極上の珍味」
……お?
「若者は美味しく食べられましたとさ。めでたしめでたし」
「めでたくない!」
子どもが聞いたら泣く昔話だった。
撫子も真相を聞いた今となっては泣きそうだった。
「古来、日本は動物を対象にした宿がほとんどなんです。人間が停留所にいるのは終着駅に辿り着くまでに逃げてきた者とみなされ、食べられます」
「じゃあ人間は休暇を過ごせないじゃないですか!」
「それを不満に感じた人間がいたのですよ」
女将が目を細めながら言った言葉に、オーナーはぴしゃりと返す。
「先代は純粋な興味で人間を対象とするホテルを創立なさったのです」
「ほほ。その結果、一体何人の人間が訪れたのですの?」
女将は口の端を上げて告げる。
「生に執着なく休暇の申請を許される人間などほんの一握り。すぐに人間を対象にするのをやめ、人型で休暇を過ごす動物のためのホテルとなったのでしょう?」
「それでも人間のお客様を受け入れる宿として、当ホテルは好評をいただいております」
「創立目的が間違っているのですよ。なぜそれを受け入れないのです?」
雀の女将は駄々っ子をあやすように話すのをやめない。
「ここは日本の動物たちの通る駅だというのに、西洋かぶれしたホテルを建てている。信念などないに等しいではありませんか」
「信念ならあります!」
撫子は思わず反論の声を上げていた。
「西洋風なんて関係ないじゃありませんか!」
「答えになっておりませんよ。何の信念があるというのです?」
「ここは暮らしやすくてハイテクなホテルです。信念くらい当然……」
「おやめなさい、撫子」
言いかけた撫子をオーナーは静かに制止した。
「商売敵に当ホテルのポリシーを説明する義理はありません。ポリシーより、お客様に休暇を楽しんでいただけることが大事です」
「ですが、オーナー」
あんな言われ方、悔しい。そう言おうとして、オーナーの言葉に息を呑む。
「先代の意思も知らない輩の言葉に、ホテルの支配人たる私が動揺するわけにはいきません」
一瞬撫子は呼吸を止めてしまった。
撫子が知らない先代の「オーナー」が創ったホテルについて、撫子だって口出しできることではないと言われたような気がした。
「それで? 私をおびきだして、何を企んでいるのです?」
少しうつむいた撫子には気づかなかったのか、オーナーは女将に向き直る。
女将は笑い声をこぼして袖から何かを取り出した。
「人聞きの悪い。わたくしはこれをあなたに届けに参ったのですよ」
それは木の軸に巻いたフィルムだった。ホテルの倉庫で見た、旧式のプロジェクターに使うものだ。
「倉庫からフィルムを盗んだのはあなたでしたか」
「おや、わたくしはただ拾っただけ。盗んだなど濡れ衣も甚だしい」
撫子は先日倉庫に吹き込んだ突風を思い出した。
あの時鳥の羽音が聞こえた。撫子だけではなくチャーリーもいたのだから、そちらからオーナーに話が伝わっていたのかもしれない。
オーナーはフィルムに目を細めた。
「何と交換しようと?」
「話が早い。対価なしの取引などありえませんからね」
女将は愉快そうに首を傾けて、桜の花びらのような唇から言葉を紡ぐ。
「代わりに、坊やの従業員名簿を見せてくれるかしら?」
オーナーは一瞬沈黙して、すっと懐に手を入れる。
撫子は慌ててオーナーを振り向いた。
「従業員名簿ってお上からもらった大事なものでしょう? 商売敵に渡したらまずいんじゃ」
撫子がオーナーの袖を引いて訴えても、彼は首を横に振る。
「あのフィルムは当ホテルの記憶。流出は恥です」
一瞬子どものように頼りない目をして、オーナーは撫子を振り払った。
オーナーは一歩進み出ると、懐からリボンで縛った羊皮紙のような巻紙を取り出して、女将に向かって差し出す。
それと引き換えにフィルムを受け取ると、オーナーは撫子に渡した。撫子は思わず受け取ってしまう。
オーナーは女将に向かって挑戦的に笑う。
「一つ言っておきますが、それはあなたには使いこなせないでしょう」
オーナーは撫子を振り返って言う。
「撫子。あなたは私の部屋にいなさい。すぐに戻ります」
言葉が終わる前に、いきなりオーナーの姿が消えた。
「オーナー!?」
「ほほ。我がこと成れり」
まばたきをするような一瞬の後、女将は翼をはばたかせて舞い上がっていた。
「な、何をしたんですか!?」
女将の手には筆があって、従業員名簿に線を引いている。
「オーナーの名を消して、わたくしの名を書き込んだのですよ。今よりこの宿の主はわたくしです」
「見るだけと言ったじゃないですか!」
「簡単に名簿を渡すような主が悪いのですよ」
「それ、だます方が言えることですか!? だます方が100パーセント悪いに決まってるでしょう!」
きっとにらみつけたが、オーナーの姿はもうどこにも見えない。
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女将は笑い声を響かせながら撫子の横をすり抜けてホテルの中に飛びこんでいく。
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撫子は呆けている場合ではないと思い、大急ぎで階段を下って行った。
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