いつの間にか結婚したことになってる

真木

文字の大きさ
20 / 35

19 続・たたかう猫たち

しおりを挟む
 フィンとルイに拇印をもらってから、撫子は部屋を出て従業員を探しに行った。
 ヴィンセントの言う通り、ホテルの中は変化が始まっていた。
「女将はルームサービスなど日本の宿でされてはならんと仰っていたぞ」
「納得できん。お客様が希望されているならいいじゃないか」
 あちこちでサービスや設備について口論がされて、提供するか否かでもめている。
 これなら拇印がもらえるかもしれない。撫子は期待に胸を熱くして声をかける。
「すみません。今ホテルの改装を止めるために女将の権限を凍結する運動をしているのですが」
「え?」
 ただ、問題は撫子がホテルの従業員ではないことらしかった。
「申し訳ありません、お客様。女将は当宿の主でございますから」
 どんなにもめていてもお客様には汚いところは見せず、かつマイルドに接するのがキャット・ステーション・ホテルの従業員だ。撫子が拇印の提供を求めても、すべて丁重に断られた。
「参ったな」
 手当たり次第に頼んでみたが、どうにも残り二人の従業員の拇印が貰えない。
「ヴィンセントさんと一緒に頼んでもらった方がよかったかな……でも改装も止めてもらわないと」
 ぼやきながらフロントを通り過ぎて玄関までやって来る。
「あ、撫子様!」
 ぴょこんと耳を動かして撫子のところまで駆けてきたのはチャーリーだった。
「何か御用はありませんか?」
 嬉しそうに尻尾を振って首を傾けながら問いかけてくる。
 撫子は疲れていたので、投げやりに言った。
「何も言わずにこの書類に拇印をくれると嬉しいな」
 思わずぽつりと呟いてから、撫子は苦笑する。
「はは。ごめん、冗談。いくら君でも」
「これでいいですか?」
「……って」
 チャーリーはぺたりと自分の拇印を付けた委任状を撫子に返してくる。
「押してるー! 君、書類はちゃんと読んでからハンコ捺さなきゃ! だまされたらどうするんだ!」
 思いがけず二人目の拇印が集まったが、彼の将来が心配になって叫んだ。
 チャーリーはきょとんとして言った。
「僕はホテルの従業員になる時に、どんな時でもお客様の味方になりなさいって教わっていますから」
 撫子が息を呑むと、チャーリーは屈託なく笑いながらふと首を傾げる。
「あれ、でもあの時のホテルの主は女将じゃなかったような?」
「チャーリー。その方の言う通りだ」
 扉の向こう側に立っているヒューイが声をかけてくる。
「いくらお客様の頼み事といっても、冷静に判断して自分で対応を考えるのが一人前の従業員だろう。お前は考えなしすぎる」
「君、お兄さんよりしっかりしてるね」
 時々どちらが兄なのか忘れる兄弟だった。
「撫子様、その書面は何ですか?」
 沈着冷静に尋ねてくるヒューイに、ああ彼にはごまかしは通用しないなと思う。
 ちゃんと説明しよう。もしかしたらチャーリーの拇印もなしになってしまうかもしれないが、嘘をつくのはいけない。
「これは……」
「何をしているのです」
 言いかけた撫子の元に、鳥の羽音が聞こえた。
 恐る恐る振り向く。そこには桜の模様の着物をまとった女将が立っていた。
「あなたは人間の……。当宿は現在人間の宿泊を認めません。退去なさい」
 厳しい口調に身がすくむ。
 撫子はぎゅっと委任状を握り締めたまま後ずさった。
「何ですか、それは。お見せなさい」
 女将が手を伸ばして委任状に手を触れると、それは電気を放つように女将の手を弾き返した。
「……まさか委任状? なんてこと!」
 女将は血相を変えて翼を出す。
 突風が吹き抜けて、撫子は玄関の扉に叩きつけられた。
「ぐっ!」
「放棄なさい。人間」
 背中に走った痛みに体を縮めながら、撫子はきっと女将をにらみつける。
「いやだ!」
 これは今自分にできる唯一のこと。手放してたまるものかと跳ねのける。
「小癪な……」
 空気の流れが変わって、撫子が身構えた時だった。
 撫子の前に誰かが立ちふさがる。風は撫子に触れることなく壁と扉を揺らしただけだった。
「……ヒューイ君?」
 撫子の前に立ってヒューイが両手を広げていた。
 守るように上げていた手を下げると、ヒューイは目を光らせて女将を見返す。
「お客様に危害を加えることは、女将といえど許されることではありません」
 断固とした非難の口調に、女将は冷えた声で言う。
「一門番が主に逆らうのですか」
「当宿の真の主はお客様です」
 ヒューイはグレーの瞳で女将を見据えて告げる。
「僕の真の主もお客様です。そのお客様に危害を加える上司には従いません。どうぞ僕の名前をお消しください」
 にらみあいがしばらく続いて、先に目を逸らしたのは女将だった。
 翼を出して飛び去って行く女将を見送ってから、ヒューイは撫子に振り向く。
「君が真面目なのは知ってるけど、あんまり危ないことしちゃだめだよ」
 撫子が思わずヒューイに言ったら、彼は一拍黙った。
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
 ヒューイは憮然として言った。
「僕は契約した宿主の言葉を繰り返しただけです。お客様に危害を加えるならば宿主にさえ従う必要はないと」
「君と契約した?」
 撫子は目を見開いて言う。
「君、オーナーのこと覚えてるの?」
「育てていただいた方のことは忘れません。チャーリーもそうです」
 撫子が振り向くと、チャーリーはこくんとうなずき返す。
 ヒューイは撫子の持っている委任状に目を向けて言う。
「ただ僕らはお客様に最高の休暇を提供できる方であれば、宿主が誰であっても構わないと思うだけです。あなたにはそれができますか?」
 撫子はヒューイの意図を察して、彼をじっと見返した。
「ホテルにふさわしい主を取り戻したいんだ。君の力を貸してほしい」
 ヒューイは猫目を細めて思案顔をすると、やがて一つうなずいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~

イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。 王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。 そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。 これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。 ⚠️本作はAIとの共同製作です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

『身長185cmの私が異世界転移したら、「ちっちゃくて可愛い」って言われました!? 〜女神ルミエール様の気まぐれ〜』

透子(とおるこ)
恋愛
身長185cmの女子大生・三浦ヨウコ。 「ちっちゃくて可愛い女の子に、私もなってみたい……」 そんな密かな願望を抱えながら、今日もバイト帰りにクタクタになっていた――はずが! 突然現れたテンションMAXの女神ルミエールに「今度はこの子に決〜めた☆」と宣言され、理由もなく異世界に強制転移!? 気づけば、森の中で虫に囲まれ、何もわからずパニック状態! けれど、そこは“3メートル超えの巨人たち”が暮らす世界で―― 「なんて可憐な子なんだ……!」 ……え、私が“ちっちゃくて可愛い”枠!? これは、背が高すぎて自信が持てなかった女子大生が、異世界でまさかのモテ無双(?)!? ちょっと変わった視点で描く、逆転系・異世界ラブコメ、ここに開幕☆

断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます

山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。 でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。 それを証明すれば断罪回避できるはず。 幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。 チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。 処刑5秒前だから、今すぐに!

処理中です...