精霊の御子

神泉朱之介

文字の大きさ
上 下
45 / 97

45話

しおりを挟む
 李玲峰イレイネ は、男の視線の前で居心地悪げに、僅かに身をよじらせた。
 じっとしているのに、かなりの意志力が必要だった。
 殴りたくなるのを我慢し、それが表情に出るのさえを意志力で堪えようとする。
 目の前の男。
 不愉快なほどにけばけばしく身を飾った、でっぷりと太ったその男は、フロアの上空を、時折横切っていく、ふわふわと不透明な風船のような球からつい先刻、降りてきた男だ。
 陀伊褞ダイオン に聞いた、あの、根威座ネイザ の貴族が乗る、という乗り物だ。
 つまり、こいつは、根威座ネイザ の貴族だ、ということだろうか?
 左右に美しい女を何人も侍らせ、阿留摩アルマ に酒の酌をさせている。
(大体、この匂いは何なんだ!?)
 甘ったるい、重い芳香。
 香り自体は決していやな匂いではないのだが、あまりにも匂いがきつく、さらにその香りを嗅いでいると気が遠くなっていくような、足が床から離れていくような奇妙な感覚に襲われる。
 くらくらするが、悪い気分ではない。
 とはいえ、なんだか頭にぼんやりと霞がかかって、気力が萎えるような気がして、そっと 李玲峰イレイネ は頭を振った。
 ここは公共の酒場のような場所なのだろうか、それとももっとプライベートな宴会場なのだろうか?
 よくわからない。
 薄暗い穴蔵の中を思わせるような息苦しい場所。
 フロア自体は広くて、そこに着飾った人々がひしめいている。
 薄暗くて、何が行われているのかよく見えないのが幸いだ、と 李玲峰イレイネ は思った。
 楽の音に混じって聞こえてくる嬌声や時々聞こえてくるわめき声は、あまり愉快なものではなかった。
 陀伊褞ダイオン は、竪琴を弾いている。
 楽器を扱うことも騎士のたしなみの一つだから、それは不思議には当たらない。
 李玲峰イレイネ だって、竪琴くらいは弾ける。
「なるほど。で、幾らだ?」
 根威座ネイザ 貴族の男は、酒の杯をぐいぐい重ねながら、ようやく、口を開いた。
 舐めるような視線は 李玲峰イレイネ からはずさない。
「さすが旦那はお目が高いね」
 阿留摩アルマ は笑って、太った男の耳元に口を寄せ、なにごとかささやきかけた。
 男は、顔をしかめた。
「高いぞ」
「相場よりゃ安いぐらいだよ、旦那! このくらいの歳の子は、浮遊大陸から連れてこられる奴隷の中にだって少ないだろ? 母親がみんな隠すからねっ!
 絶対、買い得だよ!」
「ううむ……」
 男はうなる。
 商談で扱われている奴隷。
 その商品が自分なのだ、と思うと、なにやら 李玲峰イレイネ は落ち着かない。
 亜苦施渡瑠アクセドル の黄金宮殿に忍び入るためとはいえ、もうちょっとマシな手段は無いものか、と思う。
 阿留摩アルマ が話してくれた、亜苦施渡瑠アクセドル の宮殿に忍び込む手段というのは、こんなふうなものだった……


「一応、噂を掻き集めてみたけどね、於呂禹オロウ ってぇ、例の黄金戦士。あいつが 亜苦施渡瑠アクセドル さまの一の将軍だってこと以外、あんましわかんないのさ」
 白い髪をしたお姫さまのことは、誰も知らなかった。
 けど、そんな珍しい髪の女の子、それも 禹州真賀ウスマガ のお姫さまってぇなら、もし、この 婁久世之亜ルクセノア のどっかにいるんだったら、噂ぐらい流れてると思うけどね。
 なんせ、この魔都の住民はみんなヒマをもてあましているからね、噂話が大好きなのさ。
 みんなしていろんな情報を飛ばしあって、足の引っ張り合いをして喜んでる。そーゆうとこだ。
 だから、もし、閉じ込められてたりするんなら、魔皇帝の黄金宮殿だね。あそこにいるんだったら、誰にもわかんない。根威座ネイザ の貴族ですら、あそこに入れる者はごく一部だ。あそこには、魔皇帝が自ら許した者だけしか入れない」
「魔皇帝の、黄金宮殿」
於呂禹オロウ ってあの坊やも、いつも 亜苦施渡瑠アクセドル の黄金宮殿に住んでいるそうだよ。
 で、黄金宮殿だが。もし、宮殿に近寄りたいなら、まず、根威座ネイザ の貴族たちが住む、この上の階層に潜り込まないとね。ここなんぞとは比べものにならない場所だよ。魔都 婁久世之亜ルクセノア ってぇのは、あそこのことを言うのさ。ここは 婁久世之亜ルクセノア を支えるための、ホンの城下町にすぎないさ。
 貴族たちの都、この上の階層に潜り込むんなら、あたいの奴隷って身分じゃ無理だ。あたい自身は貴族の階層へ登ることが許されているけど、あんたまでは連れてかれない。無許可の生き物は、貴族の階層に連れ込んだ途端にバレる仕組みになってるしね。
 もし、入り込みたいなら、あんたは貴族に買われないとね。
 貴族の奴隷になるんだよ。
 あそこにいるのは 根威座ネイザ の世襲の貴族、それと奴隷、だけさ」
 李玲峰イレイネ がギョッとした顔をすると、阿留摩アルマ はくすくすと笑った。
「大丈夫。あたいがうまく話をつけてやるよ。
 あんたは別嬪だ。ちゃんと売れるだろうよ。
 でも、あんたはその時は身ひとつで行かなきゃいけない。奴隷だからね。だから、あんたが身を守るための剣やらは後であたいが届けてやるよ。
 あんたが今、持っている、その大きな 宝剣 をあんたに届けりゃいいんだろう? それくらいなら出来るさ。あたいは昔、そこでもかなり高位の貴族さまの囲われ者だった。あそこのことはよく知ってる。地獄の沙汰も金次第、ってね。
 あとは退路だけど、あたいと 陀伊褞ダイオン は外から運んできた品を貴族どもの飛行港へ運ぶ約束になってるんだ。そこまでは、なんとか自力で逃げておいで。そしたら、あたいの運搬車はこの 婁久世之亜ルクセノア の城壁を抜けることが出来るようになってるから、あんたを逃がすことが出来る。
 出来るだけ、穏やかに逃げてきてくれると嬉しいけどね。
 あんまし、追っ手にかけられる状況ってのは歓迎したくない」
 李玲峰イレイネ は自信なさそうにあやふやにうなずいた。
 その様子を見て、阿留摩アルマ はおどけた動作で肩を軽くすくめた。
「さて、黄金の宮殿だが、中には入れるかどうかは、あとは、あんたの運試しさ、王子さま。あたいだって、亜苦施渡瑠アクセドル さまの宮殿の中に入ったことはない。
 昔、聞いたことがあるけど。
 黄金宮殿の周囲には、炎の結界があるって。
 亜苦施渡瑠アクセドル さまの許しなく中に入ろうとすれば、その結界のせいで一瞬にして骨まで溶けて消滅しちまうってね。抜けられるかい?」
 炎の結界。
 それなら、自信がある。
 たとえどんなものであろうと、炎は常に彼の味方のはずだから。
 今度は、きっぱりと 李玲峰イレイネ はうなずいた。
 阿留摩アルマ は、ニッ、と笑う。
「それじゃ、ま。
 よほど運が悪けりゃ、すぐさまキメラ手術に回されちまうかもしれないけれど。
 頑張んな。
 言動には気をつけなよ、王子さま。ヘタな騒動は起こさないことだ。ここは、根威座ネイザ の、あんたの敵の本拠地なんだから。
 そんな顔するなって、王子さま。
 なるたけ、危なくなさそうな貴族を選んでやるよ。といっても、相手は 根威座ネイザ の貴族だ。どんなにマシなのを選んだって、清廉潔白な紳士ってわけにゃいかないけど」


 で、これが少しはマシで危なくなさそうな貴族ってわけか……
 目の前の脂肪の塊を前に、 李玲峰イレイネ はうんざりと思う。
 阿留摩アルマ に無理やり身につけさせられた装身具が重くて邪魔だ。
 実はもっといっぱいつけさせられそうになったのだが、なんだか女の子の装いをしているような嫌な感じがして、結局、ネックレスとブレスレットを幾本か身につけるだけで勘弁してもらった。
 阿留摩アルマ は不満そうだったが。
「ま、あんたぐらいの年頃の男の子だったら、それくらいの方がシンプルで洒落てるかもしれないね。
 あんまり目立つのもマズいし」
 ここに来て、阿留摩アルマ の言った言葉に 李玲峰イレイネ もなるほど、と思った。
 ここでは男も、女に負けず劣らず着飾っている。
 派手な耳飾りや髪飾り、ネックレスやブレスレットなどは、つけていない男の方が珍しい。
 ここに集まっている人たちの半分以上が、体のどこかに獣相を持っていた。
 顔が獣面である者が多い。
 異形の者らが浮かれ騒ぐ享楽の饗宴。
 奇妙な眺めだ。
 値段の交渉なのか、阿留摩アルマ はまだ 根威座ネイザ 貴族とひそひそと話し合っている。
 なんだか、胸が騒いだ。
(もし、ここで 阿留摩アルマ が裏切ったら?
 おれを売り払った金だけ懐に入れて、そして、炎の宝剣 は届けずに見捨てたら?)
 そんなことすら考え、李玲峰イレイネ は心の中の不安を振り払った。
 ここまで骨を折ってくれている 阿留摩アルマ をそんなふうに考えるのは失礼だ。
 陀伊褞ダイオン もいる。
 ここは、信じるしかない。
 父王 競絽帆セロホ 三世には這ってでも 藍絽野眞アイロノマ に帰る、と約束した。
 その約束も果たさなければならない。
 李玲峰イレイネ は 阿留摩アルマ の商談を気にすまい、と目をそらして、無意識に薄暗い周囲を見回した。
 どうしてこんなに空気が悪い、居心地も決してよくない場所に人がこんなにひしめいているのか。
 外のあの荒野のことを思うとわかるような気もした。
(あの、無の大地の空虚さを、ここの人たちはこうして集まることで埋め合わせているのだろうか?)
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

才能だって、恋だって、自分が一番わからない

BL / 連載中 24h.ポイント:504pt お気に入り:13

Mr.Brain

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

幸介による短編恋愛小説集

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:418pt お気に入り:2

異世界でお兄様に殺されないよう、精一杯がんばった結果

恋愛 / 完結 24h.ポイント:198pt お気に入り:6,401

龍の寵愛

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,803pt お気に入り:2

転生令嬢はのんびりしたい!〜その愛はお断りします〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:134pt お気に入り:3,562

Imperium~それは目覚めさせてはいけない悪の華~

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:179

処理中です...