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第9話 小さな失敗と大きな後悔
しおりを挟む飛び出してきたのは、小さな魔獣――“トゲネズミ”。普段ならレグルス隊にとって敵とも呼べないほど弱い相手だ。
しかしマールは違う。突然のことで判断が遅れ、逃げようとしたものの――
「きゃっ……!」
小隊が即座に動いたが、その誰よりも早くレグルスが飛び込み、魔獣を一撃で排除した。
「大丈夫か!? 怪我は!!」
「だ、だいじょぶ……いたく、ない……」
レグルスはマールを抱き起こし、彼女の身体をくまなく確認する。その声音は低く震えていた。
「……油断したな? もしお前の身になにかあったらどうするんだ」
鋭い金の瞳がマールを射抜いた。怒鳴り声ではない。だが、胸の奥をぎゅっと掴まれるような重さがあった。
マールは涙をにじませ、うつむく。
「ごめんなさい……」
アッポロも、フリッツも、ドクペインも。下手に庇うこともできず、気まずそうに視線をそらした。
沈黙ののち、レグルスが小さく息を吐く。
「この調子では、当分魔の森には連れて行けない」
拠点へ戻る道すがら、マールの足取りは重かった。つい先ほどまで弾んでいた靴音はどこにもなく、夕陽に照らされた小さな背中は、しょんぼりと丸まって見えた。
(……マール、悪い子だ)
かごを抱える腕にぎゅっと力が入る。揺れるたび胸がずき、と痛んだ。
レグルスの言葉は正しい。危ないことをしたのは自分だ。迷惑をかけた。怒られた。――そう思うと、視界がにじみそうになる。
誰も何も言わなかった。
夕暮れの風だけがひゅう、と冷たく頬をなでた。
やがて拠点へたどり着き、いつものように夕食の支度が始まる。だがマールは、どこか手持ち無沙汰で立ち尽くしたままだった。鍋をかき回す音も、食欲をそそるスープの香りも、今日は遠く感じる。
アッポロがちらりとこちらを見る。普段は大岩のように堂々とした大男なのに、その目はやけに泳いでいた。
「……ちび、大丈夫か……?」
声は優しいが、マールは顔を上げられない。
「……うん」
小さく答えたつもりだったが、自分でも驚くほど弱々しい声が出た。
フリッツが皿を持って近づき、そっと差し出す。
「食べられそうか?」
「……ありがとう」
受け取ったものの、マールはほとんど食べられず、また視線を落とした。小さな肩がしゅんと落ちているのを見て、三人は顔を見合わせる。
このままではいけない。
しかし隊のリーダーであるレグルスは不器用に黙り込み、声をかけることすらできずにいる。言い過ぎたと分かっていても、謝り方が分からない――そんな背中だ。
フリッツが小さく息を吐き、アッポロとドクペインへ目配せする。
「……マール、ちょっといいか」
「え……?」
「こっちの部屋のほうが静かだ。話したいことがある」
アッポロが「お、おいで……」とぎこちなく手招きし、ドクペインは無表情のまま「相談室……みたいなものです」とつぶやく。
アッポロたちに案内され、普段は物置になっている小部屋へ入る。家の中の気配がふっと静まり、薄暗い灯りがゆらりと揺れた。マールは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、小さく縮こまった。
アッポロは巨大な体を気遣うように壁際へ腰を下ろし、フリッツは腕を組んで無言で立つ。ドクペインはきちんと椅子に座り、眼鏡を指で押し上げた。
「……マール」
フリッツが静かに呼びかける。責める色は一切ない。
「さっきのこと、気にしているだろう」
マールはびくりと肩を震わせ、視線を落とす。
「……マール、わるい子。レグルスおじさんに、めいわくかけて怒らせちゃった……」
「それは違うと思うぞ」
短いが、驚くほど優しい声で否定したのはアッポロだった。
マールは顔を上げる。大岩のような大男が、困ったように眉尻を下げていた。
「ちび……いや、マール。隊長はな……怒ったんじゃない」
アッポロは、ごつい手をぎゅっと握りしめる。
「……隊長は昔、軍にいたんだ。そんで……無茶な命令で、仲間を失った」
言葉は不器用で少ない。けれど、その一つひとつに重みがあった。マールは瞬きをし、そっと耳を傾ける。
続けたのはフリッツだ。
「その任務は“不可能に近い作戦”だった。本来なら誰も行かせるべきじゃなかった。だが上層部は撤退命令を出さなかった」
淡金髪の弓兵は静かに続ける。
「結果……隊長の部下が数名、生きて帰れなかった。隊長は自分を責めたよ。あれほど理不尽な命令だったのに、全部自分のせいだと思い込んでな」
マールの胸がじくりと痛む。
「それで……隊長は軍を辞めた。俺たちは隊長についていくと決めた。一人にさせちゃいけないと思ったんだ」
フリッツの言葉に、アッポロが力強くうなずく。最後に、ドクペインが口を開いた。
「……隊長は自分よりも、大切な誰かが傷つくのを、誰よりも恐れているんです」
眼鏡の奥の瞳が、ほんの少し柔らかくなる。
「だからあなたが怪我しそうになった時……隊長は、また“守れなかった”って自分を責める未来を想像したんですよ」
「……じゃあ、おこったんじゃ、ない……?」
「はい。怒ったわけではありません。怖かったんです」
その言葉は静かで、嘘がひとつもなかった。
部屋を出て、マールはそっと廊下を歩いた。足音は小さく、誰にも気づかれないほど静かだ。胸の奥には、まだちくりとする痛みが残っていたが――それ以上に、さっき聞いた言葉が何度も反芻されていた。
(……レグルスおじさん、こわかった……マールが、けがしそうで……?)
自室の扉を開けると、薄暗い部屋に夜の気配が染み込んでいた。ベッドも机も、何もかもいつも通りなのに、今は心が落ち着かない。
マールはぎゅっと拳を握る。
今日の失敗が頭をよぎる。
飛び出してきたトゲネズミ。
焦って、驚いて、怖くて――結界が不完全になってしまった。
(……マール、もっと、つよくならなきゃ。レグルスおじさんが、あんな顔しないように……)
その思いが胸に宿った瞬間、マールはそっと両手を前に掲げた。
「……でる、かな……?」
集中して、ゆっくり息を吸う。魔力が指先に集まる、あの感覚。しかし――
ぱちん。
小さな火花のように魔力が弾け、光は消えてしまった。
「……む、ずかしい……」
けれど、マールは諦めなかった。
もう一度、両手を見つめる。
(……マール、つよくなる。レグルスおじさんも……まもれるくらいに)
守られてばかりじゃいけない。
いつか、レグルスを――みんなを、守れるくらいに。
深く息を吸って、今度はゆっくり魔力を流した。ぽう、と淡い光が生まれ、揺れながらも手のひらに留まる。
「……でた……!」
まだ弱い光。しかし確かな一歩だった。
その光は、薄暗い部屋をそっと照らす。
マールの表情も、決意で少しだけ強く見えた。
その様子を、廊下の影からひとりの男が静かに見守っていた。
レグルスだ。
(フリッツ達に言われて様子を見に来たが……)
彼は気づかれぬよう息を殺しながら、幼い背中を見つめる。
(……この子は、強い子だ)
魔力の光に照らされる横顔は、幼いのに、どこか逞しく見えた。
(……いつか……きっと立派な大人になる。だけどそれまでは俺が守らなければ)
ふっと、レグルスの表情がわずかに締まる。
静けさに満ちた夜は、そのままゆっくりと更けていった。
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