12 / 16
第12話 小さな手でできることを
しおりを挟む
拠点の裏手。
朝のうちはまだ薄曇りだった空の下で、マールはハンナ婆さんと並んで洗濯をしていた。
桶の中でぱしゃぱしゃと水をはねさせながら、小さな手で一生懸命に布を揉む。冷たい水に指先が少し赤くなっていたが、マールは眉一つひそめず、黙々と作業を続けていた。
「ほんと、あの男どもはねぇ」
隣で洗濯板を叩きながら、ハンナ婆さんがふん、と鼻を鳴らす。
「ちょっと油断すると、すーぐ洗濯をサボるんだから。剣や鎧の手入れは一丁前なのにさ」
「えへへ、そうですね」
マールは小さく笑った。
「だから今はマールがいてくれるから助かってるよ。ありがとね」
そう言われて、胸の奥がぽっと温かくなる。
「……うん。マール、てつだうの、すき」
ハンナ婆さんは一瞬目を細め、優しげに頷いた。そのとき、ふと空を見上げて言う。
「……あちゃあ。こりゃあ、雨が来るね」
言葉どおりだった。しばらくもしないうちに、ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が落ちてきて、あっという間に地面を濡らしていく。
「あらら……今日は室内干しだね」
軒下に洗濯物を移しながら、ハンナ婆さんがため息をつく。
「雨の日は乾かなくて大変なんだよ。特に冬はねぇ……水も冷たいし、手はかじかむし」
その言葉を聞いた瞬間。マールの胸の奥に、ひやりとした感覚が広がった。
冷たい水。
真冬の井戸。
凍える指で洗わされた、乾かない洗濯物。
(……)
辺境伯家での日々。
誰も労わってくれなかった時間が、ふっと蘇る。
気づけば、マールの手は止まっていた。
「……おや」
異変に気づいたハンナ婆さんが、マールの顔を覗き込む。曇った表情を見て、すぐに察したのだろう。
「……大丈夫だよ」
ごつごつした、でもとても温かい手が、マールの頭にそっと置かれる。
「今はもう、ひとりじゃないんだからね」
「……うん」
小さく頷くと、胸の苦しさが少しだけ和らいだ。洗濯を再開しながら、マールは考える。
(……つめたいの、つらい……)
ハンナ婆さんの手も、少し赤くなっていた。
(どうにか……できないかな……)
ふと、マールは手を止め、そっと手のひらを見つめる。意識を集中すると、淡い光が滲むように浮かび上がった。小さな、小さな結界。
戦うためのものじゃない。
誰かを守るためでもなく――誰かの暮らしを、少しだけ楽にするための結界。
「……うーん……」
首を傾げた、そのとき。
ばしゃっ。
足元で水音がした。
ハンナ婆さんの飼い猫が、桶の水に前脚を突っ込み、そのまま勢いよく水浴びを始めていたのだ。
「ちょっと、あんた――」
叱る声が飛ぶより早く、猫は満足したのか、ぶるっと大きく身震いをした。
ぱぱぱっ、と。
毛皮から水滴が弾かれ、周囲に飛び散る。
その瞬間。
マールの目が、きらりと光った。
(……はじいてる……)
猫は素知らぬ顔で、二人の元からトコトコと去っていく。
(……なにか……つかえるかも……?)
胸の奥で、かすかに何かが噛み合う感覚があった。まだ言葉にはならない、でも確かな予感。
そのときだった。
「――何を考えてる」
低く落ち着いた声が、雨音の向こうから届いた。
顔を上げると、拠点の軒下にレグルスが立っていた。濡れない位置から洗濯場の様子を眺め、マールの手のひらに浮かぶ淡い光へ、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「……結界か。随分と慣れてきたな」
問いではない。確認するような一言だった。
「明日、晴れたら採取の依頼に出る予定だ」
唐突だが、いつもの調子だ。
レグルスは一拍置き、今度ははっきりとマールを見る。
「魔獣討伐はしない。浅い森での採取だけだが……来るか?」
一瞬。
マールは、何を聞いたのか分からないという顔をした。
「……え?」
すぐに意味が追いつき、次の瞬間には――
「……いく!」
ぱっと、花が咲いたように顔が輝いた。
「……マール、いく……!」
その様子を見て、レグルスは小さく頷く。
「条件はひとつだ。採取のみ。危険があれば即撤退」
「……うん! わかった!」
◆
翌日。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、澄んだ朝の空気が森の入り口まで広がっていた。
マールはレグルス隊とともに、初めて“正式な採取同行”として魔の森へ足を踏み入れる。
(……どうしよう、わくわくする……!)
湿った土と、葉の匂い。
どこかぴりっとした魔力の感触。
だが、恐怖はなかった。
結界が、呼吸のように自然に身体を包んでいる。
「よし。まずはこれだ」
レグルスが指さした先にあるのは、紫色の実をつけた低木――コブラ苺だ。
「採取の方法は覚えているな?」
「……うん」
マールは小さく頷き、そっと手を伸ばす。
結界を、薄く、実の周囲だけに。毒の気配を遮断しながら、茎を切る。
ぽとり。
紫の実が、無事に籠の中へ落ちた。
「成功だ」
短い言葉だったが、それで十分だった。
そして――
「次が本命だ」
森を流れる川辺へ向かう。
水面が揺れ、ぶくりと。丸く、愛嬌のある姿が顔を出した。
豚のような鼻。薄ピンク色をした魚の体。通称――《河豚(カワブタ)》だ。
「……かわいい……」
だが、その血には強い毒がある。通常は捌いた瞬間、身に毒が回り、食用にはならない。骨だけが錬金術の素材として価値を持つ――それが常識だった。
「今回は骨の回収が依頼だ」
レグルスがそう言った、そのとき。
マールが、そっと手を挙げた。
「……マール、できるかも」
「どういうことだ?」
全員の視線が集まる。
「……血と……おにく……わけられたら……」
言葉は拙いが、意味ははっきりしていた。
結界で“血と身を分ける”。
その発想に、レグルスは一瞬、言葉を失う。
川辺で跳ねる河豚(カワブタ)。
その前で、マールはそっと手を伸ばした。
(……生活のための結界。食べるための結界)
小さな挑戦が、また一つ始まろうとしていた。
朝のうちはまだ薄曇りだった空の下で、マールはハンナ婆さんと並んで洗濯をしていた。
桶の中でぱしゃぱしゃと水をはねさせながら、小さな手で一生懸命に布を揉む。冷たい水に指先が少し赤くなっていたが、マールは眉一つひそめず、黙々と作業を続けていた。
「ほんと、あの男どもはねぇ」
隣で洗濯板を叩きながら、ハンナ婆さんがふん、と鼻を鳴らす。
「ちょっと油断すると、すーぐ洗濯をサボるんだから。剣や鎧の手入れは一丁前なのにさ」
「えへへ、そうですね」
マールは小さく笑った。
「だから今はマールがいてくれるから助かってるよ。ありがとね」
そう言われて、胸の奥がぽっと温かくなる。
「……うん。マール、てつだうの、すき」
ハンナ婆さんは一瞬目を細め、優しげに頷いた。そのとき、ふと空を見上げて言う。
「……あちゃあ。こりゃあ、雨が来るね」
言葉どおりだった。しばらくもしないうちに、ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が落ちてきて、あっという間に地面を濡らしていく。
「あらら……今日は室内干しだね」
軒下に洗濯物を移しながら、ハンナ婆さんがため息をつく。
「雨の日は乾かなくて大変なんだよ。特に冬はねぇ……水も冷たいし、手はかじかむし」
その言葉を聞いた瞬間。マールの胸の奥に、ひやりとした感覚が広がった。
冷たい水。
真冬の井戸。
凍える指で洗わされた、乾かない洗濯物。
(……)
辺境伯家での日々。
誰も労わってくれなかった時間が、ふっと蘇る。
気づけば、マールの手は止まっていた。
「……おや」
異変に気づいたハンナ婆さんが、マールの顔を覗き込む。曇った表情を見て、すぐに察したのだろう。
「……大丈夫だよ」
ごつごつした、でもとても温かい手が、マールの頭にそっと置かれる。
「今はもう、ひとりじゃないんだからね」
「……うん」
小さく頷くと、胸の苦しさが少しだけ和らいだ。洗濯を再開しながら、マールは考える。
(……つめたいの、つらい……)
ハンナ婆さんの手も、少し赤くなっていた。
(どうにか……できないかな……)
ふと、マールは手を止め、そっと手のひらを見つめる。意識を集中すると、淡い光が滲むように浮かび上がった。小さな、小さな結界。
戦うためのものじゃない。
誰かを守るためでもなく――誰かの暮らしを、少しだけ楽にするための結界。
「……うーん……」
首を傾げた、そのとき。
ばしゃっ。
足元で水音がした。
ハンナ婆さんの飼い猫が、桶の水に前脚を突っ込み、そのまま勢いよく水浴びを始めていたのだ。
「ちょっと、あんた――」
叱る声が飛ぶより早く、猫は満足したのか、ぶるっと大きく身震いをした。
ぱぱぱっ、と。
毛皮から水滴が弾かれ、周囲に飛び散る。
その瞬間。
マールの目が、きらりと光った。
(……はじいてる……)
猫は素知らぬ顔で、二人の元からトコトコと去っていく。
(……なにか……つかえるかも……?)
胸の奥で、かすかに何かが噛み合う感覚があった。まだ言葉にはならない、でも確かな予感。
そのときだった。
「――何を考えてる」
低く落ち着いた声が、雨音の向こうから届いた。
顔を上げると、拠点の軒下にレグルスが立っていた。濡れない位置から洗濯場の様子を眺め、マールの手のひらに浮かぶ淡い光へ、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「……結界か。随分と慣れてきたな」
問いではない。確認するような一言だった。
「明日、晴れたら採取の依頼に出る予定だ」
唐突だが、いつもの調子だ。
レグルスは一拍置き、今度ははっきりとマールを見る。
「魔獣討伐はしない。浅い森での採取だけだが……来るか?」
一瞬。
マールは、何を聞いたのか分からないという顔をした。
「……え?」
すぐに意味が追いつき、次の瞬間には――
「……いく!」
ぱっと、花が咲いたように顔が輝いた。
「……マール、いく……!」
その様子を見て、レグルスは小さく頷く。
「条件はひとつだ。採取のみ。危険があれば即撤退」
「……うん! わかった!」
◆
翌日。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、澄んだ朝の空気が森の入り口まで広がっていた。
マールはレグルス隊とともに、初めて“正式な採取同行”として魔の森へ足を踏み入れる。
(……どうしよう、わくわくする……!)
湿った土と、葉の匂い。
どこかぴりっとした魔力の感触。
だが、恐怖はなかった。
結界が、呼吸のように自然に身体を包んでいる。
「よし。まずはこれだ」
レグルスが指さした先にあるのは、紫色の実をつけた低木――コブラ苺だ。
「採取の方法は覚えているな?」
「……うん」
マールは小さく頷き、そっと手を伸ばす。
結界を、薄く、実の周囲だけに。毒の気配を遮断しながら、茎を切る。
ぽとり。
紫の実が、無事に籠の中へ落ちた。
「成功だ」
短い言葉だったが、それで十分だった。
そして――
「次が本命だ」
森を流れる川辺へ向かう。
水面が揺れ、ぶくりと。丸く、愛嬌のある姿が顔を出した。
豚のような鼻。薄ピンク色をした魚の体。通称――《河豚(カワブタ)》だ。
「……かわいい……」
だが、その血には強い毒がある。通常は捌いた瞬間、身に毒が回り、食用にはならない。骨だけが錬金術の素材として価値を持つ――それが常識だった。
「今回は骨の回収が依頼だ」
レグルスがそう言った、そのとき。
マールが、そっと手を挙げた。
「……マール、できるかも」
「どういうことだ?」
全員の視線が集まる。
「……血と……おにく……わけられたら……」
言葉は拙いが、意味ははっきりしていた。
結界で“血と身を分ける”。
その発想に、レグルスは一瞬、言葉を失う。
川辺で跳ねる河豚(カワブタ)。
その前で、マールはそっと手を伸ばした。
(……生活のための結界。食べるための結界)
小さな挑戦が、また一つ始まろうとしていた。
33
あなたにおすすめの小説
美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ
さら
恋愛
会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。
ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。
けれど、測定された“能力値”は最低。
「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。
そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。
優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。
彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。
人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。
やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。
不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
【完結】妹は庶子、文句があるか? 常識なんてぶっ飛ばせ!
青空一夏
ファンタジー
(ざまぁ×癒し×溺愛)
庶子として公爵家に引き取られたアメリアは、
王立学園で冷たい視線に晒されながらも、ほんの少しの希望を胸に通っていた。
――だが、彼女はまだ知らなかった。
「庶子」の立場が、どれほど理不尽な扱いを受けるものかを。
心が折れかけたそのとき。
彼女を迎えに現れたのは、兄――オルディアーク公爵、レオニルだった。
「大丈夫。……次は、俺が一緒に通うから」
妹を守るためなら、学園にだって入る!
冷酷なはずの公爵閣下は、妹にだけとことん甘くて最強です。
※兄が妹を溺愛するお話しです。
※ざまぁはありますが、それがメインではありません。
※某サイトコンテスト用なので、いつもと少し雰囲気が違いますが、楽しんでいただけたら嬉しいです。
【完結】何故こうなったのでしょう? きれいな姉を押しのけブスな私が王子様の婚約者!!!
りまり
恋愛
きれいなお姉さまが最優先される実家で、ひっそりと別宅で生活していた。
食事も自分で用意しなければならないぐらい私は差別されていたのだ。
だから毎日アルバイトしてお金を稼いだ。
食べるものや着る物を買うために……パン屋さんで働かせてもらった。
パン屋さんは家の事情を知っていて、毎日余ったパンをくれたのでそれは感謝している。
そんな時お姉さまはこの国の第一王子さまに恋をしてしまった。
王子さまに自分を売り込むために、私は王子付きの侍女にされてしまったのだ。
そんなの自分でしろ!!!!!
愛を騙るな
篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」
「………」
「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」
王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。
「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」
「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」
「い、いや、それはできぬ」
「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」
「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」
途端、王妃の嘲る笑い声が響く。
「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる