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1巻
1-2
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「あぁ、そうだ。社長」
「何だ」
「一つ申告というか、お願いがあるんですけど……」
「何だね? 出産に関して、君の希望にはできるだけ応えたいと思っている!」
意気込む遠田に、驚いたように咲子が半歩後ろに足を引いた。そうして、困ったように俯く。さらりと流れた髪が、彼女の表情を隠す。
束の間、二人の間に沈黙が落ちた。
咲子は覚悟を決めるように、肩で大きく息を吐き出して、顔を上げた。その顔がうっすらと赤らんでいることに気付いて驚く。
――何だ? そんなに言いにくいことなのか?
滅多に顔色を変えることのない咲子の初々しい表情に、遠田まで緊張してくる。
「……私には男性経験がありません」
思い切ったように告げられた言葉の意味を掴みかねる。
――男性経験がない?
頭の中で咲子の言葉を繰り返して、驚愕に目を瞠った。思わず咲子の頭の上から足の先まで、視線を巡らせてしまう。遠田の視線の強さに、咲子が怯えたようにびくりと体を竦ませた。
――嘘だろう⁉
遠田より頭一つ分以上小さい彼女は、大人の女性らしい体つきをしていた。適度な胸の大きさにくびれた腰をパンツスーツに包んだ姿は、禁欲的で人によっては欲情をそそるだろう。実際、そんなことを遠田に言ってくる輩もいた。
だから、咲子の言葉が予想外すぎて、遠田は絶句した。
――彼女に触れた男がいない?
そう思った瞬間、遠田は自分の肌が粟立つような感覚を覚えた。快感にも通じるその感覚に、遠田は動揺する。
今の今まで、そういった目で咲子を見たことはなかったはずなのに、一気に彼女が一人の女性であることを意識してしまう。
――ちょ、ちょっと待て! 落ち着け自分‼
「どこかの神の子みたいに、処女懐胎というのは、さすがにどうかと思うのですが……」
「処女懐胎……」
咄嗟に連想を避けた言葉を、そのまま告げられたものだから、遠田は自分の視界が赤く染まったような気がした。鼻の奥がむずむずと疼いて、鼻血でも出そうな予感に、遠田は慌てて手で口元を覆った。
「なので……社長さえお嫌でなければ、最初だけ普通の方法で妊娠を目指してみたいのですが……」
――表情と言動が一致してないだろう!
頬は赤いのに、いつもの淡々とした仕事のときの表情を浮かべて話す咲子に、遠田の動揺がひどくなる。
「私相手では無理だと仰るなら諦めますが……」
「そんなことはない! 君は魅力的だ!」
尻すぼみに小さくなっていく咲子の声に、思わず叫んでいた。声の大きさに咲子が驚いたようにきょとんと目を瞠る。
一度、二度、咲子が瞬きを繰り返す。その姿に、自分の狼狽えぶりを自覚した。
――わ、私は一体何に動揺しているんだ? 童貞でもあるまいし、落ち着け!
「それはありがとうございます? では問題ないですね」
何故か疑問形で礼を言った彼女が小首を傾げた。その仕草がやけに可愛らしく見えて鼓動が速くなる。
「ああ。そうだな」
思考が空転していて、何か大きな問題があるような気がするのだが、それが何かわからない。
「では、お話がそれだけであれば、今日はもう失礼してもいいでしょうか?」
そう尋ねる咲子は、ミス・パーフェクトと陰で言われる、いつもの冷静沈着な姿に戻っていた。
「ああ。もちろんだ」
「ありがとうございます」
何とか平静を装って頷くと、咲子は上半身を屈めて、テーブルに置いていた手帳を手に取った。遠田の視界に、彼女の白いうなじが晒され、目線が吸い寄せられる。
――彼女の肌はこんなに白かっただろうか?
そんな疑問が頭の中を駆け巡る。見慣れているはずの彼女が、まったく見知らぬ女性に見えた。
遠田の眼差しに気付くことなく、咲子が顔を上げた。
「それではスケジュールを調整して、近日中にメディカルチェックを受けてこようと思います。その結果報告と合わせて、直近の排卵日を算定してご報告するということでよろしいですか? 取引の開始はそこからで大丈夫でしょうか?」
畳みかけるように告げられる事柄に、遠田の方がついていけなくなりそうだった。
遠田は必死に頭を回転させて、今必要であろうことを告げる。
「問題ない。こちらも先ほど言った内容を契約書類に起こしておく。あとは出産場所に考えている病院の資料も用意しておくよ」
「お願いします。では、今日はこれで失礼します」
「ああ。気を付けて帰ってくれ」
「はい」
何事もなかったように社長室を去る咲子を見送って、遠田は応接ソファにどかりと腰かけた。
――あんな非常識な願いを叶えてもらえることになったのに、何故、俺の方がこんなに動揺しているんだ? まるで俺の方がおかしな取引を持ちかけられた気分だ。
眼鏡を外して、テーブルに投げ出すように置くと、遠田は両手で顔を覆う。
今さら咲子が女性であることを、ひどく意識している。
これは願ってもない申し出のはずだ。迷う必要も動揺する必要もない。
子どもの母親には、彼女しかいないと望んだのは自分なのだから――
☆
自宅に帰って来た咲子は、荷物をソファの上に放り出して、床の上にへたり込んだ。
こんなに早く帰宅できたのはいつぶりだろう、と思う時間に帰ることができたのに、いつも以上の疲労感を覚えている。
――私、社長に何を言った?
自分の行動が信じられなくて、自己嫌悪のあまり穴を掘って埋まってしまいたい。
だが、埋まる穴を掘る気力もなく、とりあえずソファの座面に顔を押し付けた。
――本当に何の取引を引き受けたの私?
今頃そんなことを考えたところですべてが遅い。
頬に触れるひやりと冷たい合皮の感触に、やっと夢から覚めたような気持ちになる。
遠田に子どもを産んでほしいと言われてからの出来事は、どこか現実感が薄く、あれが夢だったと言われたら納得してしまいそうだった。
だが、現実はそう甘くない。
咲子がそう思ってるのを見透かすように、仕事用のスマートフォンがメールの着信を告げた。
指先一つ動かすのすら億劫に感じているのに、何か緊急事態かもしれないと、体は勝手に動き出す。顔を上げた咲子は鞄からスマートフォンを取り出して、メールを確認した。
発信者は遠田だった。メールの内容は彼の友人の実家だという産婦人科の病院名と住所。ご丁寧に病院のサイトのURLまで添付されている。だめ押しのように現実を突きつけられた気がした。
「さすがに仕事がお早いことで……」
遠田はそれだけ本気だと言うことだろう。変な感心をしてから、脱力感が咲子を襲った。
返信するべきなのだろうが、今は何もかもが面倒で、スマートフォンをソファの上に投げ出した。再びソファに顔を埋めた咲子の唇から、盛大なため息が吐き出される。
――あの取引はともかく何でわざわざ社長に処女なんて自己申告したのよ、私?
三十一年の人生の中でも、あれは五指に入る失敗だった。
忘れられるものなら今すぐ忘れてしまいたい。
遠田の記憶からも消し去ってしまいたいと強く願うが、そんなことは叶うわけがなかった。
別に後生大事に、守ってきたわけではない。これまでの人生で、縁がなかっただけだ。
十七歳で両親を事故で亡くし、父方の祖父母の援助で何とか高校を卒業した。だが、高齢の祖父母に負担をかけたくなくて、大学は奨学金とバイト代で賄った。
就職はいつか両親のオーベルジュを取り戻すことを夢見て、日本で最大のホテルグループを目指した。少しでも就職に有利になるようにと、バイトの合間に取れる資格はすべて取った。
就職難と言われていた当時、第一志望の内定をもらったときは、飛び上がるほど喜んだのを覚えてる。
最初の二年は客室係としてがむしゃらに働いた。吸収できるものは何でも吸収した。その仕事ぶりが認められて、次の三年はホテルのウェディング企画室に引っ張られた。
そして、遠田の友人の結婚式を担当したのをきっかけに、社長秘書に抜擢されたのが二十六歳のとき――それから今日まで五年間。ワーカホリック気味の遠田に秘書として仕える日々は、ジェットコースターのように、あっという間に過ぎ去っていった。
恋愛にうつつをぬかす暇なんてなかった。もともとその手のことにあまり興味がなかったのも相まって、この年まで貞操を守り抜いてしまっただけのことだった。
ただあのとき、遠田に当たり前のように人工受精を提案されて、処女のまま妊娠するなど、いくらなんでもあり得ないだろうと思った。
――でもそれは、建前でしかない。
一度くらい女として、誰かに愛されてみたい――渇望と言えるほどに強く、そう思ったのだ。
自分の中にそんな望みがあったことに驚いた。
両親を亡くした十七歳の日から、夢に向かって無我夢中で走り続けてきた十四年間。
――後悔なんて何もなかったはずなのに、自分の心の奥底にはあんな願いが眠っていた。
気付かずにいた想いを、思わぬ形で自覚させた遠田が、恨めしくなる。
ただの八つ当たりだ。それはわかっている。だけど、今晩くらいはあの底抜けにバカな上司を恨んでも、バチは当たらない気がした。
これから先の人生、仕事一筋で生きていくと決めてるわけではない。
亡くなった両親は、娘から見ても相思相愛でラブラブだった。常連客に万年新婚夫婦といつも揶揄われていた両親を間近で見て育ってきたのだから、咲子にも結婚願望くらいあった。
運命の王子様が迎えに来ると信じるほど夢見がちではなかったが、いつか人生をともにしたいと思える人が現れると信じるくらいには、平凡な女だったはずだ。
――私って、案外ずるいというか、汚い人間だったのね。
どうしても叶えたい夢のために、上司の子どもを産む。
そんな決断ができてしまった自分の人間性が、自分でも信じられなくなりそうだ。
亡くなった両親もあの世で、娘の決断を嘆いているかもしれない。
それでも、誰にどんな非難をされても、この取引が自分の人生に大きな影を落としたとしても、咲子は両親のオーベルジュを取り返したいのだ。
視界が何故か歪んだ。泣きたくもないのに、涙が滲んできて、咲子は瞼を強く閉じる。
――今さら泣くな‼ 泣くくらいなら、あんな取引に応じるな、馬鹿!
後悔するのは好きじゃない。
遠田は尊敬できる人間だ。彼は、咲子が人生の目標にしてきた男だった。
男性としての魅力もある。その上司が、数多いる女性の中で、子どもの母親として咲子を選んだ。
そのことは誇っていいはずだ。それだけの信頼を寄せられたのだから。
きっと遠田は言葉通りに、咲子の人生を守ってくれるはずだ。
――きっと大丈夫。社長は一度約束したことは守る男だ。
「でも、あの人、女を見る目が本当にないからなー」
ぽつりと呟いて、咲子はくすりと小さく笑った。
――本当、とことん見る目がない。だから、私なんかにこんなでたらめなことを頼んだりするのだ。
人生とはままならないものだと、咲子は心の底から思った。
☆
「あー、ついに来たか」
排卵チェッカーに出た陽性反応に、咲子はトイレの壁にゴンッと額を打ち付けた。
――痛い。夢ではないらしい。
例の取引を持ちかけられてから二週間――咲子の排卵日が来た。
体を起こして、痛む額を手で押さえる。
念のためにもう一度、排卵チェッカーの反応を確認するが、そこにははっきりと陽性反応が出ていた。これは明日、排卵が起こるというサインだ。
もともと咲子の生理周期はあまり狂ったことがない。スマートフォンのアプリで管理している基礎体温と照らし合わせても、この結果は間違いないだろう。
――明日からの社長のスケジュールってどうなってたっけ?
排卵チェッカーを手に、トイレに座ったまま咲子は頭の中で遠田と自分の予定を思い浮かべる。幸いというか何というか、変更可能な予定ばかりだった。
余程、緊急のトラブルでもなければ、遠田が動く必要のないものだ。
折しも明日は金曜日。週末の予定は特に聞いてない。
――取引の開始は明日か……
覚悟はとっくに決めたはずなのに、いざとなればやっぱり怖いと思う。
メディカルチェックの結果を報告したとき、喜ぶかと思った遠田は、何故か無言で黙り込んでいた。その様子から、一時は中止を言い渡されるかもしれないと思ったが、彼は宣言通り契約書を用意し、取引継続のまま今日まできた。
もし、遠田が取引に躊躇いを覚えているのだとしたら、それは、咲子がつけた無茶な条件のせいかもしれない。ふとそんなことを考える。
――男性にとって処女はめんどくさいって聞いたことあるしなー。
若くて可愛らしい女性であれば、処女でも自分好みに育てる楽しみがあるだろうが、相手が咲子であればそんなわけにもいかないだろう。
咲子は、妊娠するには十分すぎるくらい健康ではあるが、たいして若くもなければ可愛くもない。お局様と言われても仕方ない年だ。
だが『無理なら諦める』と言ったとき、遠田は咲子の言葉を遮るように、それを否定してくれた。
たとえ咲子を傷付けないための嘘だったとしても、あれは嬉しかったと思う。
遠田の躊躇いの理由が、咲子を抱くことならば、今からでも撤回しようと決める。ベッドの上で、やっぱりダメだと言われたら、いくら咲子でも立ち直れない。
余計な条件などつけずに、あくまでビジネスライクに話を進めていればよかったと今さらながらに後悔する。だが、放ってしまった言葉は取り消せない。
この二週間の間に、後悔は嫌になるほどしたし、自己嫌悪にも陥った。
もうこれ以上ないほどに、落ち込んだのだから、あとは浮上するだけだと咲子は開き直ってる。
それに、こんなことでせっかく遠田との間に築き上げてきたものが崩れるのは、咲子にとっても本意ではなかった。
ただ、やはり未知の経験は怖いと思うし、不安になるのは仕方ない。
「あ、やばい。こんなところで、考え込んでる場合じゃない。遅刻する!」
腕時計に目線を落として、咲子は慌てて排卵チェッカーを汚物入れに片付けると、トイレを出た。
――人生なるようにしかならない。深く考えたらドツボに嵌るだけ。
もう自分はまな板の上の鯉だと覚悟を決めて、咲子は家を出た。
「おはようございます」
「おはよう。今日の予定はどうなっている?」
いつも通りに出社して、遠田と今日の予定を打ち合わせていく。
「わかった。それで進めてくれ。他に報告はあるか?」
スケジュールに大きな変更はなく、確認は五分もかからずに終了した。
珈琲を手に、最後に確認するように尋ねてくる遠田に、咲子は一瞬だけ躊躇った。
羞恥で体が熱くなる。だが、ここで報告しないのは契約違反だ。
「一件、ご相談があります」
「何だ?」
珈琲に口を付けながら、書類を広げていた遠田が、咲子の言葉に顔を上げた。
その顔を真っ直ぐに見つめて、咲子は意を決して口を開く。
「例の取引の件についてです。今朝、排卵チェッカーが陽性になりました。明日から排卵が始まりますが、明日の予定を……社長⁉」
一瞬だけ、どうやって伝えようか迷ったが、取り繕ったところで意味はないだろうとストレートに伝えた。
途端に遠田は目を剥いて硬直し、手にしていた珈琲カップを派手な音を立てて、ひっくり返した。
デスクの上に、みるみる珈琲の水たまりができる。遠田はものすごく焦った顔で書類を避難させ、傍にあったティッシュを豪快に引き出して、テーブルを拭き出した。
「社長、大丈夫ですか⁉ 火傷はしてませんか?」
咲子も慌てて珈琲と一緒に出しておいたおしぼりを手にして、遠田に歩み寄る。遠田の高級スーツの上着にも珈琲の飛沫が飛び散っていた。
「あ、あぁ。私は大丈夫だ。何ともない。すまない」
打ち合わせの間に珈琲はぬるくなっていたのか、遠田に火傷した様子はない。
――これくらいならすぐにクリーニングに出せば落ちるわね。あとでホテルのクリーニング部門に依頼しておこう。替えのスーツは用意してあったはず。
そんなことを考えながら、「染み抜きをするので、上着を脱いでください」と咲子は遠田を促す。
「いや、自分でできる」
遠田は我に返ったように立ち上がり上着を脱ぐと、おしぼりを受け取ろうと手を伸ばしてきた。
二人の手が触れ合う。咲子は咄嗟にその手を引きそうになったが、それより早く、遠田に手首を掴まれた。掴まれた手が、取引を持ちかけられた日と同じだけ熱を孕んでいる気がして、咲子は息を呑む。
「社長……?」
「明日なのか?」
掠れているのに、どこか艶を含んだ遠田の声が咲子の耳に届いた。
掴まれた手首が熱い。肌がざわりとして、鳥肌が立ちそうだった。
「明日なんだな」
遠田がもう一度、確認してくる。
その問いに、掴まれていた自分の手首を見下ろしていた咲子は、顔を上げた。真っ直ぐ、射抜くような強さで、こちらを見る遠田と目が合った。視線が絡み、目が離せなくなる。
遠田の瞳の奥に焔が揺らめいているように見えた。それが何を意味しているのか、わからないほど鈍感ではない。
女を欲する男の瞳だ――ここにいるのはいつもの上司ではなく、一人の男なのだと知る。
一瞬で口の中が干上がった。遠田の眼差しに煽られるように、咲子の肌も熱を上げる。
「明日、です」
もう一度、答える。その声は、自分でもびっくりするくらい、小さかった。それでも、遠田にはしっかり聞こえたのだろう。
咲子の手首を掴む遠田の指に力が入った。痛みを感じるほどの力に、咲子は思わず顔を顰める。
「あ、すまん! つい力が!」
それに気付いた遠田が、慌てて咲子の手を離した。力の抜けた咲子の手からおしぼりが落ちる。でも、それを拾う心の余裕はなかった。
咲子は掴まれていた手首を胸元に引き寄せる。遠田の手の感触が、はっきりと残っていた。
「強く握りすぎた。大丈夫か?」
遠田が咲子の顔を覗き込むようにして、確認してくる。
「大丈夫です……」
遠田の端整な顔が間近に迫って、咲子は咄嗟に一歩後ろに下がった。
先ほどの欲情に濡れた遠田の瞳を思い出し、彼の顔を見ていられなくて俯く。
何とも言えない気まずい沈黙が落ちた。互いに相手の様子を窺っているのがわかる。だけど、どちらも何を言えばいいのかわからなかった。
――このまま足元ばかり見ていたって、仕方ない。
咲子は視線を上げた。遠田の手が視界に入った。彼は手を握ったり、開いたりを繰り返している。
それを見て、緊張して戸惑っているのは自分だけではないと気付く。
咲子と違って、遠田はそれなりに恋愛経験があるはずなのにと思えば、肩の力が抜けた。
遠田の顔を真っ直ぐに見上げる。目が合った彼の肩が、ぴくりと跳ねた。
遠田の方が緊張しているように見えて、咲子は笑ってしまう。
咲子にあんなでたらめな取引を持ちかけてきた人と、同一人物とは思えなかった。
――本当にこの人は、どうしようもない。でも、だからこそ憎めない。
「お嫌なのかと思ってました」
「え?」
「私の相手をするのが……これまで社長がお付き合いされてきた方たちと比べて、私は特別美人でも可愛らしくもない。そのうえ、いい年ですからね」
性格はともかく遠田のかつての恋人たちは、若くそして美しい女性たちばかりだった。
それを知っているだけに、咲子の声音に自嘲が宿る。思わず瞼を伏せた咲子に、遠田が前のめりになって顔を覗き込んできた。
「それはない! 君は十分に若くて、綺麗だ! とても魅力的な人だ! そんな風に卑下する必要はない!」
力強く否定されて、咲子は目を瞬かせる。吐息の触れる距離にある、遠田の美しい顔をまじまじと見つめてしまう。近すぎる距離に気付いた遠田が、焦ったように飛びのいた。
「私にこんなことを言われても、嬉しくないかもしれないが……」
――何でここで、急に自信をなくすかな?
へにゃりと眉毛を下げた男の言葉に、咲子はくすりと小さく笑った。
「子どもの遺伝子的な母親にと望むくらいには、魅力的ですか?」
わざと茶化してそう言えば、遠田の眉はますます情けない角度に下がった。
自分を落ち着かせるように、遠田が「はー」と大きく息を吐き出した。
「それだけで君を選んだわけじゃない。今さらこんなことを言っても、信じてもらえないかもしれないが、君は女性としてもとても魅力的だよ。実際、私は今、恥ずかしいくらいに、牧原君に対してがっついていた」
――がっついていたんだ……
あのとき、遠田の瞳の奥に宿っていた焔は、やはり欲情だったのかと納得する。
「むしろ君の方が嫌じゃないのか? は、初めてなのに……」
私でいいのかと眼差しで問いかけてくる男に、咲子は微笑んだ。
言いにくそうに言葉を詰まらせた遠田を見上げて、初めて彼がいいと思った。
――私の初めての相手は社長がいい。今まで、社長をそういった目で見たことはなかったんだけど。人生何が起こるかわからないわね。
内心で苦笑して、咲子は今度こそ本当に覚悟を決める。
「お願いしたのは私です」
「だが!」
何かを言いかける遠田の唇に人差し指を当てて、その言葉を遮る。
「別に後生大事に守ってきたわけじゃないんです。本当に縁がなかっただけで」
咲子は真っ直ぐに眼鏡の向こうにある遠田の瞳を見つめた。
「私の初めての相手は、社長がいいです。子どもを産ませたいと思うほど、私を欲しがってくれたあなただから、いいんです」
たとえそれが恋愛感情に起因するものでなくても、そこまで咲子を欲しがってくれたのは遠田だけだ。
――だから、私は社長がいい。
きっぱりと告げた咲子の言葉に、遠田が鋭く息を呑んだ。そして次の瞬間、覚悟を決めたようにふっと表情を緩ませた。
「わかった。君が望むなら最高の夜を約束する」
遠田の表情にはさっきまでの情けなさはもうなくて、咲子は内心で苦笑する。
――自信家だなー。
それだけ経験があるのかと思えば、ちょっとだけムッとする。女心は複雑だ。
でも、今の遠田の方がいつもの遠田らしくて、咲子は安心する。
「お願いします」
「明日の夜のスケジュールは?」
「すべて変更可能なものです」
「わかった。週末も含めて、すべて空けてくれ」
「はい」
「それと、どこかに部屋を……」
「あ、それはやめましょう」
遠田の提案を察した咲子が、先回りして止める。遠田が訝しげに首を傾げた。
「社長と私がホテルでそんなことになったら、あっという間に秘密が秘密じゃなくなりますよ。系列外のホテルであったとしても、リスクが高すぎます」
「それも、そうだな」
納得した様子で頷いた遠田は、一瞬、迷うように口元を手で覆った。だが、すぐに手を下ろし、「では、私の部屋でどうだろう?」と提案してくる。
「社長のご自宅ですか?」
「ああ。私の部屋であれば、君も何度か出入りしているし、今さら誰も不審には思わないだろう。セキュリティもしっかりしているから、誰かに見られる心配もないはずだ」
「そうですね。わかりました。仕事が終わったら、お伺いします」
「あぁ」
頷く男の眼差しに宿る熱に、咲子は沈黙する。
ともに過ごす夜を想像して、二人は同時に胸を疼かせた――
「何だ」
「一つ申告というか、お願いがあるんですけど……」
「何だね? 出産に関して、君の希望にはできるだけ応えたいと思っている!」
意気込む遠田に、驚いたように咲子が半歩後ろに足を引いた。そうして、困ったように俯く。さらりと流れた髪が、彼女の表情を隠す。
束の間、二人の間に沈黙が落ちた。
咲子は覚悟を決めるように、肩で大きく息を吐き出して、顔を上げた。その顔がうっすらと赤らんでいることに気付いて驚く。
――何だ? そんなに言いにくいことなのか?
滅多に顔色を変えることのない咲子の初々しい表情に、遠田まで緊張してくる。
「……私には男性経験がありません」
思い切ったように告げられた言葉の意味を掴みかねる。
――男性経験がない?
頭の中で咲子の言葉を繰り返して、驚愕に目を瞠った。思わず咲子の頭の上から足の先まで、視線を巡らせてしまう。遠田の視線の強さに、咲子が怯えたようにびくりと体を竦ませた。
――嘘だろう⁉
遠田より頭一つ分以上小さい彼女は、大人の女性らしい体つきをしていた。適度な胸の大きさにくびれた腰をパンツスーツに包んだ姿は、禁欲的で人によっては欲情をそそるだろう。実際、そんなことを遠田に言ってくる輩もいた。
だから、咲子の言葉が予想外すぎて、遠田は絶句した。
――彼女に触れた男がいない?
そう思った瞬間、遠田は自分の肌が粟立つような感覚を覚えた。快感にも通じるその感覚に、遠田は動揺する。
今の今まで、そういった目で咲子を見たことはなかったはずなのに、一気に彼女が一人の女性であることを意識してしまう。
――ちょ、ちょっと待て! 落ち着け自分‼
「どこかの神の子みたいに、処女懐胎というのは、さすがにどうかと思うのですが……」
「処女懐胎……」
咄嗟に連想を避けた言葉を、そのまま告げられたものだから、遠田は自分の視界が赤く染まったような気がした。鼻の奥がむずむずと疼いて、鼻血でも出そうな予感に、遠田は慌てて手で口元を覆った。
「なので……社長さえお嫌でなければ、最初だけ普通の方法で妊娠を目指してみたいのですが……」
――表情と言動が一致してないだろう!
頬は赤いのに、いつもの淡々とした仕事のときの表情を浮かべて話す咲子に、遠田の動揺がひどくなる。
「私相手では無理だと仰るなら諦めますが……」
「そんなことはない! 君は魅力的だ!」
尻すぼみに小さくなっていく咲子の声に、思わず叫んでいた。声の大きさに咲子が驚いたようにきょとんと目を瞠る。
一度、二度、咲子が瞬きを繰り返す。その姿に、自分の狼狽えぶりを自覚した。
――わ、私は一体何に動揺しているんだ? 童貞でもあるまいし、落ち着け!
「それはありがとうございます? では問題ないですね」
何故か疑問形で礼を言った彼女が小首を傾げた。その仕草がやけに可愛らしく見えて鼓動が速くなる。
「ああ。そうだな」
思考が空転していて、何か大きな問題があるような気がするのだが、それが何かわからない。
「では、お話がそれだけであれば、今日はもう失礼してもいいでしょうか?」
そう尋ねる咲子は、ミス・パーフェクトと陰で言われる、いつもの冷静沈着な姿に戻っていた。
「ああ。もちろんだ」
「ありがとうございます」
何とか平静を装って頷くと、咲子は上半身を屈めて、テーブルに置いていた手帳を手に取った。遠田の視界に、彼女の白いうなじが晒され、目線が吸い寄せられる。
――彼女の肌はこんなに白かっただろうか?
そんな疑問が頭の中を駆け巡る。見慣れているはずの彼女が、まったく見知らぬ女性に見えた。
遠田の眼差しに気付くことなく、咲子が顔を上げた。
「それではスケジュールを調整して、近日中にメディカルチェックを受けてこようと思います。その結果報告と合わせて、直近の排卵日を算定してご報告するということでよろしいですか? 取引の開始はそこからで大丈夫でしょうか?」
畳みかけるように告げられる事柄に、遠田の方がついていけなくなりそうだった。
遠田は必死に頭を回転させて、今必要であろうことを告げる。
「問題ない。こちらも先ほど言った内容を契約書類に起こしておく。あとは出産場所に考えている病院の資料も用意しておくよ」
「お願いします。では、今日はこれで失礼します」
「ああ。気を付けて帰ってくれ」
「はい」
何事もなかったように社長室を去る咲子を見送って、遠田は応接ソファにどかりと腰かけた。
――あんな非常識な願いを叶えてもらえることになったのに、何故、俺の方がこんなに動揺しているんだ? まるで俺の方がおかしな取引を持ちかけられた気分だ。
眼鏡を外して、テーブルに投げ出すように置くと、遠田は両手で顔を覆う。
今さら咲子が女性であることを、ひどく意識している。
これは願ってもない申し出のはずだ。迷う必要も動揺する必要もない。
子どもの母親には、彼女しかいないと望んだのは自分なのだから――
☆
自宅に帰って来た咲子は、荷物をソファの上に放り出して、床の上にへたり込んだ。
こんなに早く帰宅できたのはいつぶりだろう、と思う時間に帰ることができたのに、いつも以上の疲労感を覚えている。
――私、社長に何を言った?
自分の行動が信じられなくて、自己嫌悪のあまり穴を掘って埋まってしまいたい。
だが、埋まる穴を掘る気力もなく、とりあえずソファの座面に顔を押し付けた。
――本当に何の取引を引き受けたの私?
今頃そんなことを考えたところですべてが遅い。
頬に触れるひやりと冷たい合皮の感触に、やっと夢から覚めたような気持ちになる。
遠田に子どもを産んでほしいと言われてからの出来事は、どこか現実感が薄く、あれが夢だったと言われたら納得してしまいそうだった。
だが、現実はそう甘くない。
咲子がそう思ってるのを見透かすように、仕事用のスマートフォンがメールの着信を告げた。
指先一つ動かすのすら億劫に感じているのに、何か緊急事態かもしれないと、体は勝手に動き出す。顔を上げた咲子は鞄からスマートフォンを取り出して、メールを確認した。
発信者は遠田だった。メールの内容は彼の友人の実家だという産婦人科の病院名と住所。ご丁寧に病院のサイトのURLまで添付されている。だめ押しのように現実を突きつけられた気がした。
「さすがに仕事がお早いことで……」
遠田はそれだけ本気だと言うことだろう。変な感心をしてから、脱力感が咲子を襲った。
返信するべきなのだろうが、今は何もかもが面倒で、スマートフォンをソファの上に投げ出した。再びソファに顔を埋めた咲子の唇から、盛大なため息が吐き出される。
――あの取引はともかく何でわざわざ社長に処女なんて自己申告したのよ、私?
三十一年の人生の中でも、あれは五指に入る失敗だった。
忘れられるものなら今すぐ忘れてしまいたい。
遠田の記憶からも消し去ってしまいたいと強く願うが、そんなことは叶うわけがなかった。
別に後生大事に、守ってきたわけではない。これまでの人生で、縁がなかっただけだ。
十七歳で両親を事故で亡くし、父方の祖父母の援助で何とか高校を卒業した。だが、高齢の祖父母に負担をかけたくなくて、大学は奨学金とバイト代で賄った。
就職はいつか両親のオーベルジュを取り戻すことを夢見て、日本で最大のホテルグループを目指した。少しでも就職に有利になるようにと、バイトの合間に取れる資格はすべて取った。
就職難と言われていた当時、第一志望の内定をもらったときは、飛び上がるほど喜んだのを覚えてる。
最初の二年は客室係としてがむしゃらに働いた。吸収できるものは何でも吸収した。その仕事ぶりが認められて、次の三年はホテルのウェディング企画室に引っ張られた。
そして、遠田の友人の結婚式を担当したのをきっかけに、社長秘書に抜擢されたのが二十六歳のとき――それから今日まで五年間。ワーカホリック気味の遠田に秘書として仕える日々は、ジェットコースターのように、あっという間に過ぎ去っていった。
恋愛にうつつをぬかす暇なんてなかった。もともとその手のことにあまり興味がなかったのも相まって、この年まで貞操を守り抜いてしまっただけのことだった。
ただあのとき、遠田に当たり前のように人工受精を提案されて、処女のまま妊娠するなど、いくらなんでもあり得ないだろうと思った。
――でもそれは、建前でしかない。
一度くらい女として、誰かに愛されてみたい――渇望と言えるほどに強く、そう思ったのだ。
自分の中にそんな望みがあったことに驚いた。
両親を亡くした十七歳の日から、夢に向かって無我夢中で走り続けてきた十四年間。
――後悔なんて何もなかったはずなのに、自分の心の奥底にはあんな願いが眠っていた。
気付かずにいた想いを、思わぬ形で自覚させた遠田が、恨めしくなる。
ただの八つ当たりだ。それはわかっている。だけど、今晩くらいはあの底抜けにバカな上司を恨んでも、バチは当たらない気がした。
これから先の人生、仕事一筋で生きていくと決めてるわけではない。
亡くなった両親は、娘から見ても相思相愛でラブラブだった。常連客に万年新婚夫婦といつも揶揄われていた両親を間近で見て育ってきたのだから、咲子にも結婚願望くらいあった。
運命の王子様が迎えに来ると信じるほど夢見がちではなかったが、いつか人生をともにしたいと思える人が現れると信じるくらいには、平凡な女だったはずだ。
――私って、案外ずるいというか、汚い人間だったのね。
どうしても叶えたい夢のために、上司の子どもを産む。
そんな決断ができてしまった自分の人間性が、自分でも信じられなくなりそうだ。
亡くなった両親もあの世で、娘の決断を嘆いているかもしれない。
それでも、誰にどんな非難をされても、この取引が自分の人生に大きな影を落としたとしても、咲子は両親のオーベルジュを取り返したいのだ。
視界が何故か歪んだ。泣きたくもないのに、涙が滲んできて、咲子は瞼を強く閉じる。
――今さら泣くな‼ 泣くくらいなら、あんな取引に応じるな、馬鹿!
後悔するのは好きじゃない。
遠田は尊敬できる人間だ。彼は、咲子が人生の目標にしてきた男だった。
男性としての魅力もある。その上司が、数多いる女性の中で、子どもの母親として咲子を選んだ。
そのことは誇っていいはずだ。それだけの信頼を寄せられたのだから。
きっと遠田は言葉通りに、咲子の人生を守ってくれるはずだ。
――きっと大丈夫。社長は一度約束したことは守る男だ。
「でも、あの人、女を見る目が本当にないからなー」
ぽつりと呟いて、咲子はくすりと小さく笑った。
――本当、とことん見る目がない。だから、私なんかにこんなでたらめなことを頼んだりするのだ。
人生とはままならないものだと、咲子は心の底から思った。
☆
「あー、ついに来たか」
排卵チェッカーに出た陽性反応に、咲子はトイレの壁にゴンッと額を打ち付けた。
――痛い。夢ではないらしい。
例の取引を持ちかけられてから二週間――咲子の排卵日が来た。
体を起こして、痛む額を手で押さえる。
念のためにもう一度、排卵チェッカーの反応を確認するが、そこにははっきりと陽性反応が出ていた。これは明日、排卵が起こるというサインだ。
もともと咲子の生理周期はあまり狂ったことがない。スマートフォンのアプリで管理している基礎体温と照らし合わせても、この結果は間違いないだろう。
――明日からの社長のスケジュールってどうなってたっけ?
排卵チェッカーを手に、トイレに座ったまま咲子は頭の中で遠田と自分の予定を思い浮かべる。幸いというか何というか、変更可能な予定ばかりだった。
余程、緊急のトラブルでもなければ、遠田が動く必要のないものだ。
折しも明日は金曜日。週末の予定は特に聞いてない。
――取引の開始は明日か……
覚悟はとっくに決めたはずなのに、いざとなればやっぱり怖いと思う。
メディカルチェックの結果を報告したとき、喜ぶかと思った遠田は、何故か無言で黙り込んでいた。その様子から、一時は中止を言い渡されるかもしれないと思ったが、彼は宣言通り契約書を用意し、取引継続のまま今日まできた。
もし、遠田が取引に躊躇いを覚えているのだとしたら、それは、咲子がつけた無茶な条件のせいかもしれない。ふとそんなことを考える。
――男性にとって処女はめんどくさいって聞いたことあるしなー。
若くて可愛らしい女性であれば、処女でも自分好みに育てる楽しみがあるだろうが、相手が咲子であればそんなわけにもいかないだろう。
咲子は、妊娠するには十分すぎるくらい健康ではあるが、たいして若くもなければ可愛くもない。お局様と言われても仕方ない年だ。
だが『無理なら諦める』と言ったとき、遠田は咲子の言葉を遮るように、それを否定してくれた。
たとえ咲子を傷付けないための嘘だったとしても、あれは嬉しかったと思う。
遠田の躊躇いの理由が、咲子を抱くことならば、今からでも撤回しようと決める。ベッドの上で、やっぱりダメだと言われたら、いくら咲子でも立ち直れない。
余計な条件などつけずに、あくまでビジネスライクに話を進めていればよかったと今さらながらに後悔する。だが、放ってしまった言葉は取り消せない。
この二週間の間に、後悔は嫌になるほどしたし、自己嫌悪にも陥った。
もうこれ以上ないほどに、落ち込んだのだから、あとは浮上するだけだと咲子は開き直ってる。
それに、こんなことでせっかく遠田との間に築き上げてきたものが崩れるのは、咲子にとっても本意ではなかった。
ただ、やはり未知の経験は怖いと思うし、不安になるのは仕方ない。
「あ、やばい。こんなところで、考え込んでる場合じゃない。遅刻する!」
腕時計に目線を落として、咲子は慌てて排卵チェッカーを汚物入れに片付けると、トイレを出た。
――人生なるようにしかならない。深く考えたらドツボに嵌るだけ。
もう自分はまな板の上の鯉だと覚悟を決めて、咲子は家を出た。
「おはようございます」
「おはよう。今日の予定はどうなっている?」
いつも通りに出社して、遠田と今日の予定を打ち合わせていく。
「わかった。それで進めてくれ。他に報告はあるか?」
スケジュールに大きな変更はなく、確認は五分もかからずに終了した。
珈琲を手に、最後に確認するように尋ねてくる遠田に、咲子は一瞬だけ躊躇った。
羞恥で体が熱くなる。だが、ここで報告しないのは契約違反だ。
「一件、ご相談があります」
「何だ?」
珈琲に口を付けながら、書類を広げていた遠田が、咲子の言葉に顔を上げた。
その顔を真っ直ぐに見つめて、咲子は意を決して口を開く。
「例の取引の件についてです。今朝、排卵チェッカーが陽性になりました。明日から排卵が始まりますが、明日の予定を……社長⁉」
一瞬だけ、どうやって伝えようか迷ったが、取り繕ったところで意味はないだろうとストレートに伝えた。
途端に遠田は目を剥いて硬直し、手にしていた珈琲カップを派手な音を立てて、ひっくり返した。
デスクの上に、みるみる珈琲の水たまりができる。遠田はものすごく焦った顔で書類を避難させ、傍にあったティッシュを豪快に引き出して、テーブルを拭き出した。
「社長、大丈夫ですか⁉ 火傷はしてませんか?」
咲子も慌てて珈琲と一緒に出しておいたおしぼりを手にして、遠田に歩み寄る。遠田の高級スーツの上着にも珈琲の飛沫が飛び散っていた。
「あ、あぁ。私は大丈夫だ。何ともない。すまない」
打ち合わせの間に珈琲はぬるくなっていたのか、遠田に火傷した様子はない。
――これくらいならすぐにクリーニングに出せば落ちるわね。あとでホテルのクリーニング部門に依頼しておこう。替えのスーツは用意してあったはず。
そんなことを考えながら、「染み抜きをするので、上着を脱いでください」と咲子は遠田を促す。
「いや、自分でできる」
遠田は我に返ったように立ち上がり上着を脱ぐと、おしぼりを受け取ろうと手を伸ばしてきた。
二人の手が触れ合う。咲子は咄嗟にその手を引きそうになったが、それより早く、遠田に手首を掴まれた。掴まれた手が、取引を持ちかけられた日と同じだけ熱を孕んでいる気がして、咲子は息を呑む。
「社長……?」
「明日なのか?」
掠れているのに、どこか艶を含んだ遠田の声が咲子の耳に届いた。
掴まれた手首が熱い。肌がざわりとして、鳥肌が立ちそうだった。
「明日なんだな」
遠田がもう一度、確認してくる。
その問いに、掴まれていた自分の手首を見下ろしていた咲子は、顔を上げた。真っ直ぐ、射抜くような強さで、こちらを見る遠田と目が合った。視線が絡み、目が離せなくなる。
遠田の瞳の奥に焔が揺らめいているように見えた。それが何を意味しているのか、わからないほど鈍感ではない。
女を欲する男の瞳だ――ここにいるのはいつもの上司ではなく、一人の男なのだと知る。
一瞬で口の中が干上がった。遠田の眼差しに煽られるように、咲子の肌も熱を上げる。
「明日、です」
もう一度、答える。その声は、自分でもびっくりするくらい、小さかった。それでも、遠田にはしっかり聞こえたのだろう。
咲子の手首を掴む遠田の指に力が入った。痛みを感じるほどの力に、咲子は思わず顔を顰める。
「あ、すまん! つい力が!」
それに気付いた遠田が、慌てて咲子の手を離した。力の抜けた咲子の手からおしぼりが落ちる。でも、それを拾う心の余裕はなかった。
咲子は掴まれていた手首を胸元に引き寄せる。遠田の手の感触が、はっきりと残っていた。
「強く握りすぎた。大丈夫か?」
遠田が咲子の顔を覗き込むようにして、確認してくる。
「大丈夫です……」
遠田の端整な顔が間近に迫って、咲子は咄嗟に一歩後ろに下がった。
先ほどの欲情に濡れた遠田の瞳を思い出し、彼の顔を見ていられなくて俯く。
何とも言えない気まずい沈黙が落ちた。互いに相手の様子を窺っているのがわかる。だけど、どちらも何を言えばいいのかわからなかった。
――このまま足元ばかり見ていたって、仕方ない。
咲子は視線を上げた。遠田の手が視界に入った。彼は手を握ったり、開いたりを繰り返している。
それを見て、緊張して戸惑っているのは自分だけではないと気付く。
咲子と違って、遠田はそれなりに恋愛経験があるはずなのにと思えば、肩の力が抜けた。
遠田の顔を真っ直ぐに見上げる。目が合った彼の肩が、ぴくりと跳ねた。
遠田の方が緊張しているように見えて、咲子は笑ってしまう。
咲子にあんなでたらめな取引を持ちかけてきた人と、同一人物とは思えなかった。
――本当にこの人は、どうしようもない。でも、だからこそ憎めない。
「お嫌なのかと思ってました」
「え?」
「私の相手をするのが……これまで社長がお付き合いされてきた方たちと比べて、私は特別美人でも可愛らしくもない。そのうえ、いい年ですからね」
性格はともかく遠田のかつての恋人たちは、若くそして美しい女性たちばかりだった。
それを知っているだけに、咲子の声音に自嘲が宿る。思わず瞼を伏せた咲子に、遠田が前のめりになって顔を覗き込んできた。
「それはない! 君は十分に若くて、綺麗だ! とても魅力的な人だ! そんな風に卑下する必要はない!」
力強く否定されて、咲子は目を瞬かせる。吐息の触れる距離にある、遠田の美しい顔をまじまじと見つめてしまう。近すぎる距離に気付いた遠田が、焦ったように飛びのいた。
「私にこんなことを言われても、嬉しくないかもしれないが……」
――何でここで、急に自信をなくすかな?
へにゃりと眉毛を下げた男の言葉に、咲子はくすりと小さく笑った。
「子どもの遺伝子的な母親にと望むくらいには、魅力的ですか?」
わざと茶化してそう言えば、遠田の眉はますます情けない角度に下がった。
自分を落ち着かせるように、遠田が「はー」と大きく息を吐き出した。
「それだけで君を選んだわけじゃない。今さらこんなことを言っても、信じてもらえないかもしれないが、君は女性としてもとても魅力的だよ。実際、私は今、恥ずかしいくらいに、牧原君に対してがっついていた」
――がっついていたんだ……
あのとき、遠田の瞳の奥に宿っていた焔は、やはり欲情だったのかと納得する。
「むしろ君の方が嫌じゃないのか? は、初めてなのに……」
私でいいのかと眼差しで問いかけてくる男に、咲子は微笑んだ。
言いにくそうに言葉を詰まらせた遠田を見上げて、初めて彼がいいと思った。
――私の初めての相手は社長がいい。今まで、社長をそういった目で見たことはなかったんだけど。人生何が起こるかわからないわね。
内心で苦笑して、咲子は今度こそ本当に覚悟を決める。
「お願いしたのは私です」
「だが!」
何かを言いかける遠田の唇に人差し指を当てて、その言葉を遮る。
「別に後生大事に守ってきたわけじゃないんです。本当に縁がなかっただけで」
咲子は真っ直ぐに眼鏡の向こうにある遠田の瞳を見つめた。
「私の初めての相手は、社長がいいです。子どもを産ませたいと思うほど、私を欲しがってくれたあなただから、いいんです」
たとえそれが恋愛感情に起因するものでなくても、そこまで咲子を欲しがってくれたのは遠田だけだ。
――だから、私は社長がいい。
きっぱりと告げた咲子の言葉に、遠田が鋭く息を呑んだ。そして次の瞬間、覚悟を決めたようにふっと表情を緩ませた。
「わかった。君が望むなら最高の夜を約束する」
遠田の表情にはさっきまでの情けなさはもうなくて、咲子は内心で苦笑する。
――自信家だなー。
それだけ経験があるのかと思えば、ちょっとだけムッとする。女心は複雑だ。
でも、今の遠田の方がいつもの遠田らしくて、咲子は安心する。
「お願いします」
「明日の夜のスケジュールは?」
「すべて変更可能なものです」
「わかった。週末も含めて、すべて空けてくれ」
「はい」
「それと、どこかに部屋を……」
「あ、それはやめましょう」
遠田の提案を察した咲子が、先回りして止める。遠田が訝しげに首を傾げた。
「社長と私がホテルでそんなことになったら、あっという間に秘密が秘密じゃなくなりますよ。系列外のホテルであったとしても、リスクが高すぎます」
「それも、そうだな」
納得した様子で頷いた遠田は、一瞬、迷うように口元を手で覆った。だが、すぐに手を下ろし、「では、私の部屋でどうだろう?」と提案してくる。
「社長のご自宅ですか?」
「ああ。私の部屋であれば、君も何度か出入りしているし、今さら誰も不審には思わないだろう。セキュリティもしっかりしているから、誰かに見られる心配もないはずだ」
「そうですね。わかりました。仕事が終わったら、お伺いします」
「あぁ」
頷く男の眼差しに宿る熱に、咲子は沈黙する。
ともに過ごす夜を想像して、二人は同時に胸を疼かせた――
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