恋の罠 愛の檻

桜 朱理

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第1章 再会は罠の始まり

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『では、後ほど』
 そう言って、高坂は電話を切った。
 ――父さんが私に話? 一体何を考えているの?
 そこに答えなんて書いてないのに、通話の終了したスマートフォンのディスプレイを、ついまじまじと眺めてしまう。
「美園? どうしたの? 難しい顔して」
 アベルの声に、美園は我に返る。スマートフォンから視線を上げた美園は、アベルの顔を見て困ったように眉を寄せた。
「あー、ごめん。アベル。今日の夕食は無理そう」
「何かあったの?」
「お父さんが話があるから十七時に、迎えを寄越すって……」
 美園の言葉にアベルがふわりと微笑んだ。その美しい顔に、美園は見惚れて一瞬、言葉を失ってしまう。
「よかったね。美園」
「え? 何が?」
「それはお父さんから、美園に歩み寄って来てくれたってことでしょう?」
 思ってもいなかったアベルの言葉に、美園は混乱する。
 ――お父さんが私に歩み寄ってきた?
 ふと火葬場での父の涙が脳裏を過った。同時に、あの時覚えた些細な期待も思い出す。
 ――お父さんも、哀しいの?
 あまりに長い間、父とは分かりあえずに来たせいで、いきなり話があると言われても、警戒が先に来てしまった。
 だが、アベルの言葉で、もしかしたらという想いが、美園の胸にも湧き上がる。
「でも、あのお父さんだよ……?」
 しかし、これまでの父の態度を思い出せば、猜疑心が顔を覗かせる。
「今までを思えば、美園が不安になるのもわかるよ。でも、たった二人の家族なんだし、お父さんが歩み寄ろうとしてくれるなら、これはチャンスなんじゃない?」
 戸惑う美園の背中をアベルが、優しく押すように笑みを深めた。
「僕との夕飯はいつでもできるけど、お父さんとの話は今日じゃないと無理でしょう? 僕のことは気にしないで大丈夫だよ」
「……うん」
 期待と不安が美園の中で、複雑に混ざり合って、すぐに動き出せない。
「お迎えの時間がきちゃうから、早く用意を始めた方がいいよ? そのままで行くわけにはいかないんでしょう?」
「うん」 
 促されて時間を確認すると、もうすぐ十六時になる。あまり時間がないことに気づいて、美園は落ち着かなくなる。
「アベル……あの……」
「僕はもう部屋に戻るね。アレックスのことも僕に任せて」
 そわそわとする美園を前に、アベルは小さく笑い声を立てると皿を手に立ち上がり、ローテブルの上を後片付け始めた。
「ごめんね。ありがとう」
 素直にアベルの好意に甘えることにして、美園も外出の準備をするために立ち上がる。
 今日は家での作業がメインだからと、ノーメイクで服装も動きやすいようにTシャツにジーンズだ。
 アベルの言う通り、これは流石にまずいだろう。
 普通の家庭であれば、きっと全く問題にもならない。けれど、あの父であれば嫌味や小言の一つ出てくるに決まっている。少しでも喧嘩になる要素は減らしておきたかった。
 ――あ、そうだ。ハンカチ。
 着替えるために寝室に向かいながら、美園は葬儀の日に高坂に借りたハンカチのことを思い出す。
 寝室に入りチェストに歩み寄ると、引き出しから洗濯してアイロンをかけておいたハンカチを取り出す。
 忘れないように、先に外出用の鞄に入れておく。
 それから美園は、慌ただしく化粧と着替えを済ませた。何とか外出の準備を終えたのは、高坂が迎えに来るという十七時の十分前だった。
 戸締りをして、アレックスをアベルに預けると、美園はマンションのエントランスに向かった。
 外に出れば、高坂を乗せた車が、既に停まっていた。
 ――相変わらず待ち合わせの十分前か……
 美園の姿を認めたのか、車から降りてくる高坂を見つめて、美園の唇が緩む。
 高坂と待ち合わせをすると、彼は必ず約束の十分前には待ち合わせ場所にいた。
 昔と変わらないその生真面目さを、久しぶりに目をすれば、懐かしさを覚えた。
 美園は車にゆっくりと歩み寄る。眩しそうに高坂が、目を細めた。
「美園さん」
「お迎えありがとうございます。お待たせしましたか?」
「いえ、私が少し早く着いただけですから」
 柔らかに微笑む男の目尻に笑い皺が見えて、二人の間に過ぎた時間を実感する。
「暑いですから、お乗りください」
 高坂が車の後部座席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
 美園は車に乗り込む。車内はクーラーがきいていて、涼しかった。
 外に出ていたのは、ほんのわずかな時間であったが、肌は既に汗ばんでいて、美園はホッと息を吐く。
 日々、上昇する気温は、夕方になっても下がる気配が一向に見えない。外にいるだけで、体力が奪われるのを実感する。
「出します」
 運転席に乗り込んだ高坂が、車を発車させた。
 静かな車内に、美園は緊張した。
 車窓を流れる景色を眺めながら、美園は話題を探していた。会話をする必要はないはずだが、沈黙は気詰まりだった。
 そういえば、行き先を尋ねていなかったと思い出して、美園は運転席の高坂に話しかける。
「あの、高坂さん」
「はい」
「父はどこに……」
「ご自宅でお待ちです」
「そうですか」
 すぐに終わってしまった会話に、美園は途方にくれる。
 実家までは車で、一時間程だ。その間、車内には高坂と美園の二人きり。
 大人しく車窓を眺めている方が、お互いのためかもしれない。
 高坂は昔から饒舌な方ではない。物静かな男だった。子どもの頃は、そんな彼に纏わりついて、一方的に自分の話を続けていた。
 今、思えば、少女のくだらない話に、彼はよく付き合ってくれたものだと思う。
 ーーだから、鬱陶しいって思われたのかも。
 父に女というだけで認められないことが、当時の美園にとっては、コンプレックスだった。
 その分、兄には溺愛されていたが、いつも心のどこかに、満たされない想いがあった。
 そんな美園を気遣い、可愛がってくれたのが高坂だった。
 家族以外の年上の男性が、自分をちゃんと見て、話をしてくれる。大切にしてくれる。そんな些細なことが、嬉しくて、美園は彼に固執してしまった。
 傍にいられればいいなんて、健気なこと思う心とは裏腹に、高坂と付き合いのある女性たちに嫉妬して、その付き合いをわざと邪魔したりもした。
 ーー本当に、子どもだった。
 過去を振り返れば、苦笑しか出てこない。
「美園さん、大丈夫ですか?」
「え?」
 高坂の呼びかけに、過去を振り返っていた美園は、我に返る。
「酔われましたか? 昔から車の移動は苦手だったでしょう?」
 ーーよくそんなことを覚えてる。
「大丈夫です。仕事柄、移動には鍛えられました。今では乗り物酔いも克服しましたよ」
「そうですか。そういえば、智也が『美園がちっとも、日本にいてくれない』って嘆いていたな」
 兄を語る何気ない言葉が過去形になっていて、美園の胸が疼く。
「兄さんがそんなことを……」 
 優しい兄の顔が思い出されて、寂しさが押し寄せる。
「そういえば、高坂さんは今、何を?」
 仕事の話に、美園はふと高坂の今の仕事が気になった。今まで彼は兄の秘書だった。けれど、今日、父からの遣いで美園を迎えに来た。彼の今の立場が気になった。
「今は暫定的にお父さまの個人秘書をしております」
「そうなんですか……だったら高坂さんは、父の今日の話がなんであるか、知ってますか?」
 それは何の気なしの問だった。高坂が今の父の秘書をしていると言うのなら、父の様子が知りたかったのだ。
 だが、美園の問に、高坂の雰囲気がひどく緊張したものになった。

 
 
 
 
  
 
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