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しおりを挟む午前7時。朱鈴は、いつものようにアパートを出た。春風がマフラーをすり抜け、谷間へと入ってきた。札幌市は4月に入ったとはいえ、まだ肌寒いく、東京とは違う冷たさを感じた。
ちらりと向かいの駐車場に目を向けた。そこには数台並んでいたが、私の気にかけている白色のワンボックスカーはなかった。
空を見上げると、ぶ厚い雲が陽を遮るように浮かんでいた。私が29の頃に引っ越してきて、もうじき4年が経つ。
スマートフォンを取り出し、画面を開いた。そこには スズラン の待ち受け画像が映し出された。彼には「女子かよ?」と揶揄われたが、私にとって意味のある花だった。北海道を代表する花としても知られている。
起床して、すぐにショートメールを送ったが、未だに返事はなかった。どうして、lineやメールでなく、ショートメールを使っているのか? 簡単な話しだ。不倫がバレないように、読んだら消すようにしているからだ。
私はちいさく溜息をついて、石山通を北へと歩き、植物園を目指す。そこが私が働いている職場だ。つまり受付スタッフをしている。将来性のないアルバイト。そこには、不安しかない。けれど、彼と“遠距離恋愛”をするよりかは大いに良かった。
彼と知り合ったのは、大学の頃だった。親友に 彼氏 だと紹介された。初めは酷く驚いたが、すぐに気になる存在へと変わっていた。親友の彼氏を寝取るのに、それほど時間は掛からなかった。彩蘭には悪いけど、親友の好みというヤツだ。
私は、目の前の信号が赤になるのを見て、右に曲がった。少し歩けば、コンビニが左手に見えてきた。4ヶ月ほど前に新しく建てられた60坪ほどの小売店だ。私は、自動ドアを開いた。
「いらっしゃいませ。おはようございます」
朝の陳列を手早く行っている女性の聞きなれない、それでいて新鮮な声がした。その声が私に一層の達成感を味わわせてくれた。ここにはもう彩蘭を悲しませる女はいない。私を苦しませる女はいないのだ。
声を掛けてきた女性は、不思議そうに私を見つめていた。どうやら私は、ほんの少し口角を上げてしまっていたらしい。軽く会釈をして、女性向けの週刊誌コーナーに向かった。新聞を買うような習慣がないので、仕方なく週刊誌に手を伸ばした。
パラパラと捲るが、私たちに関係するような記事は出てこなかった。あれは、事件でなく事故として処理されたのだから、当然だろう。でも、気を抜くことはできない。彩蘭と 私 が死体遺棄で逮捕されるまでが計画に入っている。
死体遺棄罪の罰則は「3年以下の懲役」が規定されている。しかし、殺人罪となれば、死刑または無期もしくは5年以上の懲役が科せられる。なんとしても死体遺棄罪で裁判を乗り切らなければならない。
週刊誌を元に戻した。この店で働いていた女性が失踪してから10日目となる。未だに彼女の交友関係から、彩蘭の夫に繋がらない刑事に、少し歯がゆさを覚えていた。
窓ガラスに目を向けると、はらはらと雪が舞い降ってきた。札幌市の 春雪 は珍しくはない。ただ、ガラス越しに映る店員と目が合って、ドキリとした。これは思いもよらなかった。
女性店員がゆっくりと近づいてくる。私は唇を噛んだ。ひょっとすると、この辺りで聞き込みをしていた刑事たちに何か頼まれたのかもしれない。そんな事を思考したが、そんなわけがない事にすぐに気が付いた。
「――あの、お客様。立ち読みはご遠慮ください」
「え? あ、ごめんなさい」注意をされ、腕時計を見て確認する。すでに10分以上が経過しいた。随分と立ち読みをしてしまっていたようだ。
慌てて 総菜コーナー へと向かってサンドイッチを、それからレジ横にあるホットコーヒーを手に取り、レジで待機していた男性店員に会計をしてもらった。
レジ袋を手に店を出た。そして今度こそ植物園へと向かった。ここ数日の間に、週刊誌を度々立ち読みをしていたのがいけなかったようだ。顔を覚えられていたに違いない。警察に通報されて、不審人物としてマークされては適わない。
◇
女性が出ていくのをみて、夢川 結衣は安堵した。まさか、窓ガラスに映った自分と目が合うとは思ってもみなかった。彼女の顔を覚えようと近づきすぎたのがいけなかった。苦し紛れに出た咄嗟のひと言に救われた気分だった。
友人と連絡が途絶えて、今日で10日目となる。彼氏との惚気を聞かされていて私生活を満喫しているとばかり思っていた。だが、突然に彼女は失踪した。
警察の者ですが、と刑事が訪ねてきたときは身を固くした。西木野 美希に失踪届けが出ていると聞かされ、涙が止まらなかった。刑事には美希に恋人がいる事をはなした。ただ、相手の顔を見せてもらったことはない。惚気ているわりに、写真を撮らせてはくれないと不満を漏らしていた。
夢川は考えられる範囲で相手の風貌を推理し、「男は顔面とコミュニケーション能力が大事なの」と語っていた美希が、ついに性格で相手を選ぶようになったと感心したものだ。当時の彼女は、こんな事になるとは夢にも思わなかっただろう。
先ほどの女性が店から出ていくと、代わるようにスーツ姿に左伊多津万色のコートを着た女性が入店してきた。
女性は速足で、男性店員の元へ向かっていった。例の刑事のようだ。ひと言ふたこと言葉を交わすと、こちらに顔を向けた。
夢川は足早に刑事の元へ向かった。
「あの、美希のこと。何か進展が?」夢川の質問に桜月 詩織は首を横に振った。彼女の顔から疲労が見て取れる。それでも芯の強い心を感じさせる瞳が夢川を見つめた。同時に怒らせると怖い印象を与える顔だ。
「先ほどの女性に何かおっしゃられたようですが、お知り合いですか?」
「いえ。ただ気になったので話しかけようか迷っていたら――」
「気になった、とは?」
「どこかで会ったような気がしたんですが、思い出せなくて」
「そうですか。何か思い出したら、連絡をしてください」
「美希とあのひと、何か関係があるんですか?」
桜月は大きく頭を振った。「まだ捜査中なので申し上げられませんが、必ず西木野さんを見つけ出します」
夢川はその言葉に納得するしかなかった。藁すら掴むことができないことに自分に腹を立てていた。引っ込み思案な性格が悔しくて仕方がない。
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