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Scene 14
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生まれてこのかた、これだけの雪を見たことはなかった。
山形新幹線という妙な電車は、福島駅で東北新幹線から切り離され、普通のレールを走り始める。だが、そのスピードは俺の田舎の西武池袋線の各駅停車より遅く感じる。電車は山を登って行き、窓の外はあっという間に真っ白になった。電車の高さよりも雪が高く積もっている。
「あと一時間ちょっとかな、山形駅まで」
隣で本を読んでいた雪江が独り言のように言う。電車は山を降りて最初の駅に止まり、また走り始めた。田んぼの真中を、雪をけたてて疾走しはじめる。今度は西武池袋線の急行並みの速度だ。
見渡す限り、雪、雪、雪である。遠くは雪に煙って見えないが、どっちを見ても山が見える。俺の育った所沢も遠くに山が見えるが、その反対側をむけば限りなく平野だ。周りが山ばかりというのは、ちょっと異様な風景だった。
「こんなに降ったら、交通機関麻痺するだろ」
「それは東京の話」
東京では、五センチも雪が積もればすべての交通が止まる。雪が積もることを前提にしていない街だからだ。しかしこの山形ではごくあたりまえに莫大な量の雪が積もる。車も電車も人も、それを前提にして生きているのだろう。
「そりゃ、一晩で一メートル近く積もったら山形でも交通機関ストップだけど」
「それって、雨だったら集中豪雨ってやつだろ」
「かもね。でも、洪水になるわけじゃないし」
俺は小ぎれいにカットされた自分の髪をなでた。
「どうも、七三ってのは性に合わないな」
俺の地毛は、ゆるいウェーブがかかっている。それを軽く七三に分けて、グレーのスーツというのが今日のいでたちだ。大学の入学式でさえ革ジャンを引っ掛けていた俺の、人生で最初の姿だ。
「似合うよ、ちょっとホストっぽいけど」
今回、スーツと一緒にメガネも新調した。ちなみに、金を払ったのは雪江だった。スーツもメガネも、俺が聞いたことのないブランドの、かなり値が張るものだった。
俺は生来の近視だが、ステージの時は客席がぼんやりとしか見えなくて緊張しにくいので、あえてメガネをはずしていた。どうしても必要な時だけ、高校時代からかけていたメガネを使っていたのだ。むろん、メガネを新調するカネなど無い、というのが最大の理由だ。
「あのさ、スーツとメガネの代金だけど」
「お母さんが送ってくれたお金だから、気にしないで」
雪江が本に目を落としながら答えた。
「ホント、似合うよ、そういうスタイルも」
雪江がにっこり笑って俺によりそい、すばやく頬にキスをする。
「三国一の花婿だわ」
むろん褒めているのだろうが、俺はちょっと複雑な気持ちだった。
新幹線は山形駅に到着し、俺たちは電車を降り、ローカル線に乗り換える。ホームには二両編成のディーゼル車が、唸りを上げながら止まっている。
「ヒダリサワゆき?」
「アテラザワ、って読むのよ」
左沢ゆきとかかれた車両は、扉が閉まっている。雪江が扉の横のボタンを押すと、扉が開いた。
「こういうの、高崎線とかにあったな」
「そうね、東京の電車みたく停車中にドア全開にできないよ、寒いし」
車内はほとんど高校生だ。彼らの話し声は、ディーゼルエンジンの唸りよりもやかましかった。春になったら、こういう連中と付き合うのかと思ったら少しげっそりした。
「寒河江、だっけか」
「うん、30分くらいかな」
ディーゼルカーは、いっそう大きく唸って、ゆっくりと発進した。ちょっとだけ都会的だった窓の外は、あっという間に雪で埋め尽くされた田んぼだらけになる。そんなに高くない山が近くに見え、遠くには高い山が見える。
「ホント、山だけだな。山形って」
「そうね、川もあるよ」
走行音が変わったと思ったら、鉄橋だった。確かにでかい川を渡っている。
ディーゼルカーは五分走って駅で停車、というのを繰り返す。東京近辺の私鉄の、各駅停車以下の速度だ。もう一度大きな鉄橋にさしかかったところで、雪江が俺に語りかけた。
「この川が最上川。最上川を越えると、私の寒河江よ」
ようやく着いた寒河江駅は、建物だけは俺の地元の所沢駅よりも新しくて立派だった。所沢駅はホームがたくさんあるが、寒河江駅にはホームが1列しかないのが違いといえば違いだ。
「どのくらい歩くんだ」
大荷物を抱えて寒河江駅前に降り立ち、雪江に尋ねた。
「5分くらいかな」
雪は降っていないが、駅前のロータリーはバスやタクシーが行きかうところ以外すべて雪に埋もれている。5分でも歩くのが億劫だ。
「タクシー乗ろうぜ」
「何バカなこと言ってるの」
駅前のロータリーを出ると、街道に面する。よくみるとその街道沿いに延々と壁が続いている。門は、歩道に出てすぐのところにあった。まさかと思い表札を見ると、「石川」とある。
「家、ここ?」
「うん」
駅徒歩ゼロ分だった。
「5分くらい歩くって…」
「うん、家はこの奥」
門をくぐる前にもう一度位置関係を見直した。駅を出ると、バスやタクシーのロータリーがあって、それにつながる街道がある。交通量もそこそこだからたぶん国道だろう。その国道に平行して、今乗ってきた線路が続いている。駅あたりでは国道と線路は、100メートルくらい離れているようだ。石川家の壁は街道に沿ってしばらく見えている。1キロ近くあるんじゃないかと思われた。国道は徐々に線路から離れていくようだし、線路と国道に挟まれた巨大な三角地帯が石川家の敷地だ。常識外れの敷地を持つ個人宅だった。
「本当は山形から車で来て、南門から入ると近いんだけど」
重厚な門の脇にある通用口を、ただいまと小さくつぶやきながら雪江がくぐっていく。俺も後を追った。中は、これまた雪に覆われた森だった。
「あのさ、ここをずーっと歩いていくと、賽銭箱とかある?」
「神社じゃないわよ」
森を抜けると、ようやく遠くに家が見えた。歴史の教科書でみたなんとか城から、天守閣を切り取ったような家が見える。家と俺たちのちょうど真ん中あたりで、誰かが機械を操縦していた。小型雪かき機みたいなものだろうか。機械の片方から雪を噴き出している。機械を操縦していた男が、こちらを見て雪江に気づき、大声で叫んだ。
「ゆぎえ様帰ってござたー!だんな様、奥様、大奥様、ゆぎえ様帰ってござったー!」
「孫兵衛おんちゃん、あいかわらず声が大きいったら」
今気がついたが、雪江はあの門をくぐってただいまとつぶやいた時から、「良家の子女」モードに突入している。
ここからは俺は雪江の付属物に変わる。雪の中を歩く雪江の背筋が、いっそうぴんと伸びていた。
いくら歩いても家が近づいてこないような気がする。そういえば左手のずっと先のほうにも大きな門がうっすら見える。あれが南門とかいうやつだろうか。門と家の中間に、駐車場がある。雪に埋もれているが、相当な広さだ。セダンとワンボックスが2台づつと軽四輪1台、2トントラックと普通トラック、その上マイクロバスまである。3人暮らしのはずだがいったい何台車があるんだろう。
「クラウンがお父さんの車で、セドリックが私の。軽はお母さんのでトラックは農作業用よ。残りの車は政治活動用ね。付き合いの関係で、車のメーカーはまんべんなくあるわ」
雪江が俺の疑問を読んで、すらすら答えた。俺は車の免許を持っていないし車に興味が無いので、車名はよくわからない。
「夕方には主だった親戚が集まるから、駐車場も一杯になるの。孫兵衛おんちゃん、駐車場の雪かきに来てくれたのね」
ようやく巨大な家の玄関が近づいていた。玄関先に、さっき遠くに見えた男が雪にまみれて土下座している。雪江が駆け寄った。
「おんちゃん、なしてほだなごどさんなねなやぁ、立ってっちゃ」
雪江が流暢な方言を発しながら初老の男に寄り添う。
「ゆぎえ様がおむこ様しぇで帰ってきてけで、こんで石川宗家は大丈夫だはぁ、ありがどさまだっすぅ、ありがどさまぁ」
孫兵衛と呼ばれた初老の男は、雪に埋まりながら土下座しておいおい泣いていた。
「18年前の大晦日に、酒とばくちでシンショウなぐすどご、先代の権兵衛様に死ぬほどごしゃがっでだ俺ば、そごの土間でかばってけだゆぎえ様のこどは、おら一生恩にきったがらっす」
どうもこの初老の男が、雪江のことを崇拝しているらしいことは判った。ただし単語の一つ一つはいまだにさっぱり理解できなかった。
「おんちゃん、あどいいがら、家さ入れはぁ」
雪江が孫兵衛を促し、玄関をくぐった。
「ただいま戻りました」
玄関を入るとだだっ広い土間である。小学校の頃社会科見学で訪れた民俗資料館の、江戸時代の農家のようなつくりだ。土間の左手には上がり口があり、その先はまたどこまで続いているかわからないくらい広い座敷になっている。その反対側は台所らしい。昔は台所と座敷の間はつながっていなかったのだろうが、今は廊下が渡してあり、台所も現代風に改築されているようだ。
「あーくん、上がって」
雪江が框に上がり俺を見下ろしている。石川家の女モードに突入していた。俺は心持ち背をかがめて、雪江の後に続いて座敷に入った。冬のさなかということで、広い座敷はえらく寒いのだが、見たこともないようなでかい石油ストーブが数台置かれ、蒼い炎を見せている。。十二畳ほどの座敷が四つ、そのふすまがすべて取り払われ、五十畳近い大広間になっているのだ。
そしてその大広間の奥に、これまた非常識なまでに巨大な仏壇が鎮座している。その容積だけなら、キタが住んでいるワンルームマンションと変わらないのではないか。不謹慎ながら、仏壇の中身を片付けたら、普通に男一人が寝転べるのでないかという広さだ。
仏壇の周りにはお盆でもないのに大小さまざまなちょうちんが置かれ、野球のバットのような図太い蝋燭と道路工事のパイロンのように巨大な燭台があり、そして大型炊飯器の釜のような鐘が分厚い座布団に乗っかっている。
雪江はまっすぐその仏壇の前に行き、これまたでかくて分厚い座布団に座る。俺はその後ろにちょこんと座った。雪江がでかい蝋燭で線香に火をつけ、これだけは普通の大きさの線香立てに立てる。しかしその線香立てが載る机は、日本史の資料集に写真がある、なんとか寺所有、のような重厚なものだ。
そして例の一升炊きをごんと叩くと静かに仏壇の中に向かって手を合わせる。俺もそれに倣い、手を合わせて目を閉じた。雪江は小さな声でなにやらつぶやいているようだ。それがお経なのか、先祖に語りかける声なのかはわからなかったが、俺は心の中で「とりあえずこれからお世話になりますんでよろしく」と繰り返していた。
俺が目を開けて合わせていた手をひざに置いても、雪江の祈りは終わっていなかった。それどころか、肩が震えている。泣いているようだ。
「雪江…」
俺が小さな声で話しかけると、雪江はようやく祈りを終え、顔を上げて巨大な仏壇の中を晴れ晴れと見上げた。
「おじいちゃんに、紹介してたのよ、貴方を。このヒトが、雪江の結婚相手だよ、って。そしたら、なんだか泣けてきちゃったよ」
いつの間にか義母が後ろに立っていた。
「雪江はおじいちゃんが大好きだったからね。もちろんおじいちゃんも雪江をかわいがってたし」
仏頂面の義父もやってきて続けた。
「孫兵衛が雪江ばありがだがんのも、オヤズがおまえのゆうごどだば何でも聞いだがらだげの。孫兵衛なの、あの日オヤズがらごしゃがっで、ボダされっどごだっけんだがら」
「さっきのオジサン、孫兵衛って人で、代々石川の小作人の筆頭、みたいな人なのよ。ちょっと素行が良くなかった頃があって、先代から絶縁を言い渡されそうになったのよう。でも、3歳くらいだった雪江が、おんちゃんばごしゃがねでけろ、じいちゃんごしゃがねでけろ、って泣いて頼んだから、先代はいっぺんで孫兵衛を許したの。孫兵衛、うさな野郎だば今すぐボダしてやんなだげっど、ゆぎえがこでして泣いで頼むなださげ、勘弁してやっぺ、うさな野郎、一生ゆぎえさあだま上がらねぞ、わしぇんな、なれ、ってね」
「私は憶えてないけどね」
雪江が笑った。泣かせどころと決め台詞と思われる部分は、何を言ってるか一切理解できなかったが。
遠くの土間では、当の孫兵衛さんが仏壇のほうに向かって手を合わせている。
「孫兵衛、ほだなどごがらお参りしてねで、ちゃんと仏壇の前さ来てオヤズさあいさづすろ」
仏頂面が大声を出す。だが、その声に怒りは含まれていない。政治家だけに、根は人情家なのだろう。雪江が仏壇の前から脇へよけ、孫兵衛を座布団にいざなう。孫兵衛は静かに手を合わせていたがまた嗚咽を漏らし始め、閉じられた両目から滝のように涙が流れ始める。孫兵衛は祈りを終えると座布団を降り、また雪江に向かって平身低頭しながら号泣し始めた。
「ゆぎえ様、いがったなっす、ほんてんいがった、おんちゃんなの、今すんだてしぇーはぁー」
「良かったね、良かったね、孫兵衛おじさんはもういつ死んでもかまわないくらいだよ、って言ってるのよ」
義母が同時通訳してくれた。
「おんちゃんさ、なんでもゆってけろな、なんでもすっさげな、ほんてだぜ、ほんてん」
「孫兵衛、あどしぇーさげ、すこすおぢづげっちゃ」
仏壇の脇から、小さな塊のようなものがゆっくり出てきて、声を発した。俺は思わず悲鳴を上げた。
「何おどろいてんの、ずっといたじゃないの、おばぁちゃん」
「気がつかなかった」
おばぁちゃんと呼ばれた物体は、雪江の隣にやってきた。本当に小さいが、のろのろしたところはなく、まるで畳の上を滑るように歩く。号泣していた孫兵衛おんちゃんが、その存在に気づくとものすごい素早さで三歩引き、その老女に平身低頭し、畳に額をこすりつけた。
「雪江の祖母です。愛郎さんでしたね。はじめまして」
この老女も、俺に対してはすばらしくきれいな発音の標準語で話しかけてきた。
「あたしもね、若いころ東京に住んでいましたのよ。連れ合いが軍人だったものでねぇ、戦争が終わるまで広尾に住んでましたわ」
雪江の祖母は、仏壇の横の鴨居に掛けられた遺影をちょっと振り返り、にっこりと笑った。やはり、雪江の60年後の顔だった。俺はようやく正気に戻り、あたふたと頭を下げる。
「し、失礼いたしました。徳永愛郎と申します」
「おやまあいい男じゃないか。あたしのつれあいにどっか似たところがあるよ」
祖母はミギの江戸ことばを思い起こさせる発音で軽口を叩き、義母と雪江はそれを聞いて明るく笑う。
「まんず孫兵衛、あどしぇーさげ、ごっつぉ出すな手伝ってけろ。いまいま旦那衆みえんだじぇ」
祖母が平身低頭を継続中の孫兵衛おんちゃんに向かってネィティブの訛りで語りかけると、おんちゃんは大きな声ではいっスと答え、土下座のまま三歩下がり、ものすごい速さで身体を切り返して部屋を出て行った。
山形新幹線という妙な電車は、福島駅で東北新幹線から切り離され、普通のレールを走り始める。だが、そのスピードは俺の田舎の西武池袋線の各駅停車より遅く感じる。電車は山を登って行き、窓の外はあっという間に真っ白になった。電車の高さよりも雪が高く積もっている。
「あと一時間ちょっとかな、山形駅まで」
隣で本を読んでいた雪江が独り言のように言う。電車は山を降りて最初の駅に止まり、また走り始めた。田んぼの真中を、雪をけたてて疾走しはじめる。今度は西武池袋線の急行並みの速度だ。
見渡す限り、雪、雪、雪である。遠くは雪に煙って見えないが、どっちを見ても山が見える。俺の育った所沢も遠くに山が見えるが、その反対側をむけば限りなく平野だ。周りが山ばかりというのは、ちょっと異様な風景だった。
「こんなに降ったら、交通機関麻痺するだろ」
「それは東京の話」
東京では、五センチも雪が積もればすべての交通が止まる。雪が積もることを前提にしていない街だからだ。しかしこの山形ではごくあたりまえに莫大な量の雪が積もる。車も電車も人も、それを前提にして生きているのだろう。
「そりゃ、一晩で一メートル近く積もったら山形でも交通機関ストップだけど」
「それって、雨だったら集中豪雨ってやつだろ」
「かもね。でも、洪水になるわけじゃないし」
俺は小ぎれいにカットされた自分の髪をなでた。
「どうも、七三ってのは性に合わないな」
俺の地毛は、ゆるいウェーブがかかっている。それを軽く七三に分けて、グレーのスーツというのが今日のいでたちだ。大学の入学式でさえ革ジャンを引っ掛けていた俺の、人生で最初の姿だ。
「似合うよ、ちょっとホストっぽいけど」
今回、スーツと一緒にメガネも新調した。ちなみに、金を払ったのは雪江だった。スーツもメガネも、俺が聞いたことのないブランドの、かなり値が張るものだった。
俺は生来の近視だが、ステージの時は客席がぼんやりとしか見えなくて緊張しにくいので、あえてメガネをはずしていた。どうしても必要な時だけ、高校時代からかけていたメガネを使っていたのだ。むろん、メガネを新調するカネなど無い、というのが最大の理由だ。
「あのさ、スーツとメガネの代金だけど」
「お母さんが送ってくれたお金だから、気にしないで」
雪江が本に目を落としながら答えた。
「ホント、似合うよ、そういうスタイルも」
雪江がにっこり笑って俺によりそい、すばやく頬にキスをする。
「三国一の花婿だわ」
むろん褒めているのだろうが、俺はちょっと複雑な気持ちだった。
新幹線は山形駅に到着し、俺たちは電車を降り、ローカル線に乗り換える。ホームには二両編成のディーゼル車が、唸りを上げながら止まっている。
「ヒダリサワゆき?」
「アテラザワ、って読むのよ」
左沢ゆきとかかれた車両は、扉が閉まっている。雪江が扉の横のボタンを押すと、扉が開いた。
「こういうの、高崎線とかにあったな」
「そうね、東京の電車みたく停車中にドア全開にできないよ、寒いし」
車内はほとんど高校生だ。彼らの話し声は、ディーゼルエンジンの唸りよりもやかましかった。春になったら、こういう連中と付き合うのかと思ったら少しげっそりした。
「寒河江、だっけか」
「うん、30分くらいかな」
ディーゼルカーは、いっそう大きく唸って、ゆっくりと発進した。ちょっとだけ都会的だった窓の外は、あっという間に雪で埋め尽くされた田んぼだらけになる。そんなに高くない山が近くに見え、遠くには高い山が見える。
「ホント、山だけだな。山形って」
「そうね、川もあるよ」
走行音が変わったと思ったら、鉄橋だった。確かにでかい川を渡っている。
ディーゼルカーは五分走って駅で停車、というのを繰り返す。東京近辺の私鉄の、各駅停車以下の速度だ。もう一度大きな鉄橋にさしかかったところで、雪江が俺に語りかけた。
「この川が最上川。最上川を越えると、私の寒河江よ」
ようやく着いた寒河江駅は、建物だけは俺の地元の所沢駅よりも新しくて立派だった。所沢駅はホームがたくさんあるが、寒河江駅にはホームが1列しかないのが違いといえば違いだ。
「どのくらい歩くんだ」
大荷物を抱えて寒河江駅前に降り立ち、雪江に尋ねた。
「5分くらいかな」
雪は降っていないが、駅前のロータリーはバスやタクシーが行きかうところ以外すべて雪に埋もれている。5分でも歩くのが億劫だ。
「タクシー乗ろうぜ」
「何バカなこと言ってるの」
駅前のロータリーを出ると、街道に面する。よくみるとその街道沿いに延々と壁が続いている。門は、歩道に出てすぐのところにあった。まさかと思い表札を見ると、「石川」とある。
「家、ここ?」
「うん」
駅徒歩ゼロ分だった。
「5分くらい歩くって…」
「うん、家はこの奥」
門をくぐる前にもう一度位置関係を見直した。駅を出ると、バスやタクシーのロータリーがあって、それにつながる街道がある。交通量もそこそこだからたぶん国道だろう。その国道に平行して、今乗ってきた線路が続いている。駅あたりでは国道と線路は、100メートルくらい離れているようだ。石川家の壁は街道に沿ってしばらく見えている。1キロ近くあるんじゃないかと思われた。国道は徐々に線路から離れていくようだし、線路と国道に挟まれた巨大な三角地帯が石川家の敷地だ。常識外れの敷地を持つ個人宅だった。
「本当は山形から車で来て、南門から入ると近いんだけど」
重厚な門の脇にある通用口を、ただいまと小さくつぶやきながら雪江がくぐっていく。俺も後を追った。中は、これまた雪に覆われた森だった。
「あのさ、ここをずーっと歩いていくと、賽銭箱とかある?」
「神社じゃないわよ」
森を抜けると、ようやく遠くに家が見えた。歴史の教科書でみたなんとか城から、天守閣を切り取ったような家が見える。家と俺たちのちょうど真ん中あたりで、誰かが機械を操縦していた。小型雪かき機みたいなものだろうか。機械の片方から雪を噴き出している。機械を操縦していた男が、こちらを見て雪江に気づき、大声で叫んだ。
「ゆぎえ様帰ってござたー!だんな様、奥様、大奥様、ゆぎえ様帰ってござったー!」
「孫兵衛おんちゃん、あいかわらず声が大きいったら」
今気がついたが、雪江はあの門をくぐってただいまとつぶやいた時から、「良家の子女」モードに突入している。
ここからは俺は雪江の付属物に変わる。雪の中を歩く雪江の背筋が、いっそうぴんと伸びていた。
いくら歩いても家が近づいてこないような気がする。そういえば左手のずっと先のほうにも大きな門がうっすら見える。あれが南門とかいうやつだろうか。門と家の中間に、駐車場がある。雪に埋もれているが、相当な広さだ。セダンとワンボックスが2台づつと軽四輪1台、2トントラックと普通トラック、その上マイクロバスまである。3人暮らしのはずだがいったい何台車があるんだろう。
「クラウンがお父さんの車で、セドリックが私の。軽はお母さんのでトラックは農作業用よ。残りの車は政治活動用ね。付き合いの関係で、車のメーカーはまんべんなくあるわ」
雪江が俺の疑問を読んで、すらすら答えた。俺は車の免許を持っていないし車に興味が無いので、車名はよくわからない。
「夕方には主だった親戚が集まるから、駐車場も一杯になるの。孫兵衛おんちゃん、駐車場の雪かきに来てくれたのね」
ようやく巨大な家の玄関が近づいていた。玄関先に、さっき遠くに見えた男が雪にまみれて土下座している。雪江が駆け寄った。
「おんちゃん、なしてほだなごどさんなねなやぁ、立ってっちゃ」
雪江が流暢な方言を発しながら初老の男に寄り添う。
「ゆぎえ様がおむこ様しぇで帰ってきてけで、こんで石川宗家は大丈夫だはぁ、ありがどさまだっすぅ、ありがどさまぁ」
孫兵衛と呼ばれた初老の男は、雪に埋まりながら土下座しておいおい泣いていた。
「18年前の大晦日に、酒とばくちでシンショウなぐすどご、先代の権兵衛様に死ぬほどごしゃがっでだ俺ば、そごの土間でかばってけだゆぎえ様のこどは、おら一生恩にきったがらっす」
どうもこの初老の男が、雪江のことを崇拝しているらしいことは判った。ただし単語の一つ一つはいまだにさっぱり理解できなかった。
「おんちゃん、あどいいがら、家さ入れはぁ」
雪江が孫兵衛を促し、玄関をくぐった。
「ただいま戻りました」
玄関を入るとだだっ広い土間である。小学校の頃社会科見学で訪れた民俗資料館の、江戸時代の農家のようなつくりだ。土間の左手には上がり口があり、その先はまたどこまで続いているかわからないくらい広い座敷になっている。その反対側は台所らしい。昔は台所と座敷の間はつながっていなかったのだろうが、今は廊下が渡してあり、台所も現代風に改築されているようだ。
「あーくん、上がって」
雪江が框に上がり俺を見下ろしている。石川家の女モードに突入していた。俺は心持ち背をかがめて、雪江の後に続いて座敷に入った。冬のさなかということで、広い座敷はえらく寒いのだが、見たこともないようなでかい石油ストーブが数台置かれ、蒼い炎を見せている。。十二畳ほどの座敷が四つ、そのふすまがすべて取り払われ、五十畳近い大広間になっているのだ。
そしてその大広間の奥に、これまた非常識なまでに巨大な仏壇が鎮座している。その容積だけなら、キタが住んでいるワンルームマンションと変わらないのではないか。不謹慎ながら、仏壇の中身を片付けたら、普通に男一人が寝転べるのでないかという広さだ。
仏壇の周りにはお盆でもないのに大小さまざまなちょうちんが置かれ、野球のバットのような図太い蝋燭と道路工事のパイロンのように巨大な燭台があり、そして大型炊飯器の釜のような鐘が分厚い座布団に乗っかっている。
雪江はまっすぐその仏壇の前に行き、これまたでかくて分厚い座布団に座る。俺はその後ろにちょこんと座った。雪江がでかい蝋燭で線香に火をつけ、これだけは普通の大きさの線香立てに立てる。しかしその線香立てが載る机は、日本史の資料集に写真がある、なんとか寺所有、のような重厚なものだ。
そして例の一升炊きをごんと叩くと静かに仏壇の中に向かって手を合わせる。俺もそれに倣い、手を合わせて目を閉じた。雪江は小さな声でなにやらつぶやいているようだ。それがお経なのか、先祖に語りかける声なのかはわからなかったが、俺は心の中で「とりあえずこれからお世話になりますんでよろしく」と繰り返していた。
俺が目を開けて合わせていた手をひざに置いても、雪江の祈りは終わっていなかった。それどころか、肩が震えている。泣いているようだ。
「雪江…」
俺が小さな声で話しかけると、雪江はようやく祈りを終え、顔を上げて巨大な仏壇の中を晴れ晴れと見上げた。
「おじいちゃんに、紹介してたのよ、貴方を。このヒトが、雪江の結婚相手だよ、って。そしたら、なんだか泣けてきちゃったよ」
いつの間にか義母が後ろに立っていた。
「雪江はおじいちゃんが大好きだったからね。もちろんおじいちゃんも雪江をかわいがってたし」
仏頂面の義父もやってきて続けた。
「孫兵衛が雪江ばありがだがんのも、オヤズがおまえのゆうごどだば何でも聞いだがらだげの。孫兵衛なの、あの日オヤズがらごしゃがっで、ボダされっどごだっけんだがら」
「さっきのオジサン、孫兵衛って人で、代々石川の小作人の筆頭、みたいな人なのよ。ちょっと素行が良くなかった頃があって、先代から絶縁を言い渡されそうになったのよう。でも、3歳くらいだった雪江が、おんちゃんばごしゃがねでけろ、じいちゃんごしゃがねでけろ、って泣いて頼んだから、先代はいっぺんで孫兵衛を許したの。孫兵衛、うさな野郎だば今すぐボダしてやんなだげっど、ゆぎえがこでして泣いで頼むなださげ、勘弁してやっぺ、うさな野郎、一生ゆぎえさあだま上がらねぞ、わしぇんな、なれ、ってね」
「私は憶えてないけどね」
雪江が笑った。泣かせどころと決め台詞と思われる部分は、何を言ってるか一切理解できなかったが。
遠くの土間では、当の孫兵衛さんが仏壇のほうに向かって手を合わせている。
「孫兵衛、ほだなどごがらお参りしてねで、ちゃんと仏壇の前さ来てオヤズさあいさづすろ」
仏頂面が大声を出す。だが、その声に怒りは含まれていない。政治家だけに、根は人情家なのだろう。雪江が仏壇の前から脇へよけ、孫兵衛を座布団にいざなう。孫兵衛は静かに手を合わせていたがまた嗚咽を漏らし始め、閉じられた両目から滝のように涙が流れ始める。孫兵衛は祈りを終えると座布団を降り、また雪江に向かって平身低頭しながら号泣し始めた。
「ゆぎえ様、いがったなっす、ほんてんいがった、おんちゃんなの、今すんだてしぇーはぁー」
「良かったね、良かったね、孫兵衛おじさんはもういつ死んでもかまわないくらいだよ、って言ってるのよ」
義母が同時通訳してくれた。
「おんちゃんさ、なんでもゆってけろな、なんでもすっさげな、ほんてだぜ、ほんてん」
「孫兵衛、あどしぇーさげ、すこすおぢづげっちゃ」
仏壇の脇から、小さな塊のようなものがゆっくり出てきて、声を発した。俺は思わず悲鳴を上げた。
「何おどろいてんの、ずっといたじゃないの、おばぁちゃん」
「気がつかなかった」
おばぁちゃんと呼ばれた物体は、雪江の隣にやってきた。本当に小さいが、のろのろしたところはなく、まるで畳の上を滑るように歩く。号泣していた孫兵衛おんちゃんが、その存在に気づくとものすごい素早さで三歩引き、その老女に平身低頭し、畳に額をこすりつけた。
「雪江の祖母です。愛郎さんでしたね。はじめまして」
この老女も、俺に対してはすばらしくきれいな発音の標準語で話しかけてきた。
「あたしもね、若いころ東京に住んでいましたのよ。連れ合いが軍人だったものでねぇ、戦争が終わるまで広尾に住んでましたわ」
雪江の祖母は、仏壇の横の鴨居に掛けられた遺影をちょっと振り返り、にっこりと笑った。やはり、雪江の60年後の顔だった。俺はようやく正気に戻り、あたふたと頭を下げる。
「し、失礼いたしました。徳永愛郎と申します」
「おやまあいい男じゃないか。あたしのつれあいにどっか似たところがあるよ」
祖母はミギの江戸ことばを思い起こさせる発音で軽口を叩き、義母と雪江はそれを聞いて明るく笑う。
「まんず孫兵衛、あどしぇーさげ、ごっつぉ出すな手伝ってけろ。いまいま旦那衆みえんだじぇ」
祖母が平身低頭を継続中の孫兵衛おんちゃんに向かってネィティブの訛りで語りかけると、おんちゃんは大きな声ではいっスと答え、土下座のまま三歩下がり、ものすごい速さで身体を切り返して部屋を出て行った。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
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