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神様が見てる
01
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小さい頃から、夜の海に行ってはいけないと言われていた。
実家は海沿いの街に程近い場所ではあったが、日常生活で海を感じることは余りなかった。
夏と冬、長い休みの間だけ訪れる祖母の家が、海まで数百メートルの距離だった。
潮騒と共に生活をするような土地で、私が小さい頃にはとっくに廃業していたけれど、その昔は民宿をやっていたという少し高台にある一軒家には、独り暮らしの祖母には不要な大量の食器や寝具がまだ残されていた。
祖母は、夫を亡くしてからも一人で宿を切り盛りして、一人息子の父を大学まで入れた、という女傑だった。自分には学がないから、と必死で働いて、父を東京の大学に入れてからも働き続けたという。明るくておおらかで何事にも動じない、潮風のような人だった。
そんな祖母が、私と姉に何度も言って聞かせたのが、夜の海に行ってはいけない、ということだった。
夜の潮騒は、本当にうるさい。海辺で過ごしてみなければ分からない、あの夢の中にまで入り込んでくるような音の圧力。繰り返し寄せては返す波の音は、止まることなく体内を侵食する。子供心には、その音だけでも十分恐ろしかった。
だが、祖母が語る夜の海の情景は、その比ではなかった。
祖母が言うには、夜の海には仏様が来るのだという。身の丈数十メートルの巨大な仏様が、沖の向こうで、黄金色の身体で座っているのだという。その周りには、これまた黄金色をした無数の小さな神様たちが水平線いっぱいを埋めつくし、漆黒の夜空には黄金色の天女だか仙人だかが飛び回っている。
そして、夜の海に入った人間を連れ去ってしまう、というのだ。
一体どんな幻想なのだろうか。大人になった今でもよく分からない。何がベースになっているのか、仏教なのか、民話なのか、このイメージで何を伝えたいのか、やっぱり全然分からない。
ただ、真っ暗な海を横一直線に埋め尽くす金ぴかの巨大な仏様たち、という絵はユーモラスではあるものの、アルカイックスマイルを浮かべ、妙なる音楽(私の想像では雅楽)を奏でながら無言で迫ってくる様子は、どことなく不気味で形容しがたい恐怖があった。
同じ話を聞いても、姉はそんなイメージは抱かなかったらしい。大して怖くもなかったよ、と事も無げに言っているのを聞いて、ひどく驚いた。
子供の私にとっては、泣き出しそうなほど恐ろしかったからだ。
布団に入っても波の音が止まない。耳は閉じられない。だから、どこまでいっても黄金の仏様たちが付いてくる。目蓋を閉じても離れないイメージが、眠りの入り口まで追いかけてくる。怖くて怖くて堪らなかった。
だから、夜にちょっと海まで散歩に行こうよ、と家族に誘われても頑なに拒んだ。だって、仏様に連れ去られてしまう。
決して目を合わせてはならない。
夜の海を見てはならない。
そんな風に思い込んでいた。
今ならもう、そんな妄想はありえない、と分かっている。頭では分かっているけれど、やっぱり心の片隅では少し怯えている。祖母としては、夜の海は暗いし、波に巻き込まれると流されて危ないから、くらいの気持ちで言った話なのだろう。
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ、といった程度の軽い戒めの言葉。深い教訓すらあったのか怪しいものだけれど。
今でもまだ、夜の海に行こう、と誘われても素直には頷けない。夏だろうが冬だろうが、砂浜に降りて、波打ち際にまで行くなんて、とてもとても無理だ。遠くから眺めるくらいなら出来るけれど。
いつだって水平線の向こうから、あのどこを見ているか分からない半眼で、監視されているような気がしてならない。
見ているぞ、と無言のうちに訴えられる恐怖。
そのせいかは知らないが、私は人の視線がとても苦手だ。
だから、いつも、後ろから抱かれたがる。
自分の顔を見られるのが嫌だった。特に、だらしなく善がり狂っている顔なんて、見せられたもんじゃない。好きな人には、特に。
今夜も、窓の向こうは夜景が綺麗だ。宝石箱をブチ撒けたみたいにキラキラと暖色系の光が点滅している。どんな嘘も汚さも全て覆い隠す闇と光を見ていると、何故だかほっとした。
だけど、暗闇と光のコントラストは、どこか夜の海を連想させる。
背後で空気が動いて、真後ろに立つ男がぴたりと背中に肌を重ねた。私は目を閉じて、世界が暗転するのを待つ。
これは儀式。世界と自分を、理性と本能を切り離すための。耳元の髪がわずかにかきあげられ、目蓋に柔らかく滑らかな肌触り。しゅるり、と音がして、きゅっと後頭部で結ばれる戒めの感触。
この瞬間が、どうしようもなく興奮する。スイッチが切り替わり、脳内でアドレナリンがどくどくと排出される感覚。
「 」
耳元で囁かれる淫らな煽り文句に、肌が粟立つ。きゅん、と身体中の性感帯が反応してしまう。それを分かっている男は、更に厭らしい手つきで、言葉で、私を煽る。身体の芯に火が点った。
手を引かれて、窓辺からそろそろと足を滑らせて進む。膝に当たる柔らかな障害物を四つん這いになって乗り越える。大人二人が寝転がってもまだ余裕のあるベッドを獣のように這って移動する。そう、私は獣だ。
そっと肩を押されて、仰向けに転がされ、つーっと服の中に侵入してくる長い指の冷たさに、短い息が漏れた。
視覚を奪われると、他の感覚が鋭敏になる。世界と自分が繋がってしまう。感覚が肥大して境界が曖昧になる。夜に飲み込まれていく。
男の息遣いがじわじわと興奮にのって荒くなる。それでも肌に触れる指先や口唇はひどく丁寧でもどかしいから、少しの刺激にも腰が跳ねて背中がしなる。それを分かっていてわざと、焦らしてくる意地の悪さが好きだ。もっと酷く抱いてくれ、と願ってしまう。
少しずつ露になる肌が夜の空気に晒される度に、期待で体温が上がる。もっと、と擦り合わせる内腿に笑いながら指が這う。
我慢しきれずに漏れてしまう声が嫌いだ。掌でも押さえきれず、親指の付け根の柔らかな肉を噛むと、笑いながら引き剥がされて、両手首を頭上で纏められる。半分ほど引き抜かれた服で、きゅっと結ばれる。不自由に拘束された身体。ゾクゾクする。
自分の醜態が目の前の男に晒されている。隠せない本性が暴かれていくスリルと背徳感に、脳がぐちゃぐちゃに蕩けるほど興奮している。妨げるものがなくなったせいで、惜しげもなく解放された声の醜さに恥ずかしさが募る。
衣擦れの音も、チリリと頬に触れる髪も、重なる肌の熱さも、男の纏う甘く苦い香辛料のような香りも、鮮明に夜の輪郭を象っていく。
見えない闇に潜む淫らな幻想に、すっぽりと包まれている。
実家は海沿いの街に程近い場所ではあったが、日常生活で海を感じることは余りなかった。
夏と冬、長い休みの間だけ訪れる祖母の家が、海まで数百メートルの距離だった。
潮騒と共に生活をするような土地で、私が小さい頃にはとっくに廃業していたけれど、その昔は民宿をやっていたという少し高台にある一軒家には、独り暮らしの祖母には不要な大量の食器や寝具がまだ残されていた。
祖母は、夫を亡くしてからも一人で宿を切り盛りして、一人息子の父を大学まで入れた、という女傑だった。自分には学がないから、と必死で働いて、父を東京の大学に入れてからも働き続けたという。明るくておおらかで何事にも動じない、潮風のような人だった。
そんな祖母が、私と姉に何度も言って聞かせたのが、夜の海に行ってはいけない、ということだった。
夜の潮騒は、本当にうるさい。海辺で過ごしてみなければ分からない、あの夢の中にまで入り込んでくるような音の圧力。繰り返し寄せては返す波の音は、止まることなく体内を侵食する。子供心には、その音だけでも十分恐ろしかった。
だが、祖母が語る夜の海の情景は、その比ではなかった。
祖母が言うには、夜の海には仏様が来るのだという。身の丈数十メートルの巨大な仏様が、沖の向こうで、黄金色の身体で座っているのだという。その周りには、これまた黄金色をした無数の小さな神様たちが水平線いっぱいを埋めつくし、漆黒の夜空には黄金色の天女だか仙人だかが飛び回っている。
そして、夜の海に入った人間を連れ去ってしまう、というのだ。
一体どんな幻想なのだろうか。大人になった今でもよく分からない。何がベースになっているのか、仏教なのか、民話なのか、このイメージで何を伝えたいのか、やっぱり全然分からない。
ただ、真っ暗な海を横一直線に埋め尽くす金ぴかの巨大な仏様たち、という絵はユーモラスではあるものの、アルカイックスマイルを浮かべ、妙なる音楽(私の想像では雅楽)を奏でながら無言で迫ってくる様子は、どことなく不気味で形容しがたい恐怖があった。
同じ話を聞いても、姉はそんなイメージは抱かなかったらしい。大して怖くもなかったよ、と事も無げに言っているのを聞いて、ひどく驚いた。
子供の私にとっては、泣き出しそうなほど恐ろしかったからだ。
布団に入っても波の音が止まない。耳は閉じられない。だから、どこまでいっても黄金の仏様たちが付いてくる。目蓋を閉じても離れないイメージが、眠りの入り口まで追いかけてくる。怖くて怖くて堪らなかった。
だから、夜にちょっと海まで散歩に行こうよ、と家族に誘われても頑なに拒んだ。だって、仏様に連れ去られてしまう。
決して目を合わせてはならない。
夜の海を見てはならない。
そんな風に思い込んでいた。
今ならもう、そんな妄想はありえない、と分かっている。頭では分かっているけれど、やっぱり心の片隅では少し怯えている。祖母としては、夜の海は暗いし、波に巻き込まれると流されて危ないから、くらいの気持ちで言った話なのだろう。
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ、といった程度の軽い戒めの言葉。深い教訓すらあったのか怪しいものだけれど。
今でもまだ、夜の海に行こう、と誘われても素直には頷けない。夏だろうが冬だろうが、砂浜に降りて、波打ち際にまで行くなんて、とてもとても無理だ。遠くから眺めるくらいなら出来るけれど。
いつだって水平線の向こうから、あのどこを見ているか分からない半眼で、監視されているような気がしてならない。
見ているぞ、と無言のうちに訴えられる恐怖。
そのせいかは知らないが、私は人の視線がとても苦手だ。
だから、いつも、後ろから抱かれたがる。
自分の顔を見られるのが嫌だった。特に、だらしなく善がり狂っている顔なんて、見せられたもんじゃない。好きな人には、特に。
今夜も、窓の向こうは夜景が綺麗だ。宝石箱をブチ撒けたみたいにキラキラと暖色系の光が点滅している。どんな嘘も汚さも全て覆い隠す闇と光を見ていると、何故だかほっとした。
だけど、暗闇と光のコントラストは、どこか夜の海を連想させる。
背後で空気が動いて、真後ろに立つ男がぴたりと背中に肌を重ねた。私は目を閉じて、世界が暗転するのを待つ。
これは儀式。世界と自分を、理性と本能を切り離すための。耳元の髪がわずかにかきあげられ、目蓋に柔らかく滑らかな肌触り。しゅるり、と音がして、きゅっと後頭部で結ばれる戒めの感触。
この瞬間が、どうしようもなく興奮する。スイッチが切り替わり、脳内でアドレナリンがどくどくと排出される感覚。
「 」
耳元で囁かれる淫らな煽り文句に、肌が粟立つ。きゅん、と身体中の性感帯が反応してしまう。それを分かっている男は、更に厭らしい手つきで、言葉で、私を煽る。身体の芯に火が点った。
手を引かれて、窓辺からそろそろと足を滑らせて進む。膝に当たる柔らかな障害物を四つん這いになって乗り越える。大人二人が寝転がってもまだ余裕のあるベッドを獣のように這って移動する。そう、私は獣だ。
そっと肩を押されて、仰向けに転がされ、つーっと服の中に侵入してくる長い指の冷たさに、短い息が漏れた。
視覚を奪われると、他の感覚が鋭敏になる。世界と自分が繋がってしまう。感覚が肥大して境界が曖昧になる。夜に飲み込まれていく。
男の息遣いがじわじわと興奮にのって荒くなる。それでも肌に触れる指先や口唇はひどく丁寧でもどかしいから、少しの刺激にも腰が跳ねて背中がしなる。それを分かっていてわざと、焦らしてくる意地の悪さが好きだ。もっと酷く抱いてくれ、と願ってしまう。
少しずつ露になる肌が夜の空気に晒される度に、期待で体温が上がる。もっと、と擦り合わせる内腿に笑いながら指が這う。
我慢しきれずに漏れてしまう声が嫌いだ。掌でも押さえきれず、親指の付け根の柔らかな肉を噛むと、笑いながら引き剥がされて、両手首を頭上で纏められる。半分ほど引き抜かれた服で、きゅっと結ばれる。不自由に拘束された身体。ゾクゾクする。
自分の醜態が目の前の男に晒されている。隠せない本性が暴かれていくスリルと背徳感に、脳がぐちゃぐちゃに蕩けるほど興奮している。妨げるものがなくなったせいで、惜しげもなく解放された声の醜さに恥ずかしさが募る。
衣擦れの音も、チリリと頬に触れる髪も、重なる肌の熱さも、男の纏う甘く苦い香辛料のような香りも、鮮明に夜の輪郭を象っていく。
見えない闇に潜む淫らな幻想に、すっぽりと包まれている。
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