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第25話 その感情の名は…
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長老から提示された条件は、集めた同胞たちを説得すること。定められた日時は一週間後。ベルとヒイロはそれを了承し、穏健派の巣窟を去ることになった。
ヒイロは崖の出入口近くにロックを呼ぶ。ロックは巨大ながらも器用に羽ばたいて空中停止飛行に近い状態を保つ。
長老は出入口まで見送りについてきた。珍しいことらしく、各所に配置された警備兵たちが慌てていた。今も門番が緊張した面持ちで背を伸ばしたまま微動だにしない。
「こちらはすぐに召集をかけるからな。必ず期待に応えろ」
「言われずとも。年齢を理由に忘れたなどと言わないだろうな」
最後まで長老とヒイロの二人は挑発し合う。特にヒイロは相容れないとばかりに不満げに鼻を鳴らしていた。
*****
「主様、ベル様、よくお戻りになられました」
二人を真っ先に出迎えたのは、にこやかな顔をしたアオだった。続いて数人の子どもたちによじ登られているアカが荒々しい音を立ててやってきた。
「どうだったんだ主?」
明け透けなアカの物言いにアオが横目で睨む。
「悪くはない。同胞たちを説得できたら力を貸す、と向こうは言っている」
ヒイロは気にする様子もなく淡々と長老との話を側近二人に伝えた。
「ほう……。幽玄渓谷の当主にしては、やけに親切ですね。以前は我らの言動にしょっちゅう口を挟んできたというのに」
「ベルを軽んじることはできないのだろう」
「なるほど……さすがベル殿」
アオが手放しで褒め称えるので、ベルは「わたしは何もしてないよっ」と恐縮した。二人は本人を置き去りにして、頷き合っている。ベルの頬が赤くなった。
「主もベルも疲れているだろう。今日は早めに休むといい」
天の助けかアカの一言があり、その場で解散となった。
*****
その晩、ベルは大広間から繋がる幾つかの通路の内の、出入口に一番近い場所にあるヒイロの部屋を訪れていた。部屋といってもドアはなく、岩壁を削ったままの空間だ。入口の周りには幾何学模様が掘られている。ここに住む魔族が感謝を込めて掘ったらしい。力のない者の中には手先が器用な者がいて、物作りに長けているそうなのだ。そういった者は、戦力にはなれなくとも、武器を作ったり、衣服を編んだりして役に立っている。
入口の模様だけでも、ヒイロが慕われていることが分かる。もしかしたら、魔王城の扉に掘られていたものも、同じ経緯だったのかもしれない。
アカが言うには、ヒイロは出自にはこだわらず、分け隔てなく同胞たちに接しているのだという。それは実力主義の魔族でも珍しいこと。創造神から与えられた力が残る古い家系は、一目置かれる存在だ。それでも、歴史の浅い家系生まれのアカとアオをそばに置いている。「主には感謝をしている。無謀にも喧嘩を売った俺を拾ってくれたんだ」とアオは屈託のない笑みを浮かべていた。
ベルは入口から顔だけを出し、「ヒイロ」と中へ呼びかけた。魔族は夜行性だから、起きているはず。
「どうした?」
落ち着いた声が返ってくる。ベルは空を浮き沈みしながら飛んでヒイロの元へ近づいた。ヒイロは手で椀を作り、簡易的な止まり木を作って見せた。そこへベルが降りる。
「話があって来たの」
ベルは一瞬だけ躊躇い、それから言葉を紡いだ。
「嫌だったら言ってね。あなたのおうちのことなんだけど……。わたし何も知らなかったから教えて欲しくて」
ヒイロの表情に不快の色はなかった。少しだけ考える素振りを見せ、
「ああ、幽玄渓谷の当主に聞いたか?」
「ごめんなさい。聞いたといっても少しだけなの」
長老が心配していた、ということを伏せて曖昧に答える。
「謝らなくていい。私の生まれ故郷については話してなかったな」
ヒイロはそこで一拍置いてから、淀みなく話し始めた
「乾いてひび割れた土地が広がる場所がある。そこは見渡す限りの空と乾燥に強い少数の植物、所々に埋まった巨岩しかない場所だ。その中に隆起して歪になった巨大な奇岩がある。太古の昔に存在した爬虫類の頭蓋骨、と例えられている。真偽は定かではないがな」
その口調は淡々としている。まるで折り合いがついているかのような声音。ベルはヒイロの感情を逃さないように注視した。
「夫婦となった男女が子宝を祈願すると、その巨大な口内に赤子が生まれる。夫婦の魔力と土地の力が呼応し、新しい命となる。我らの中には霊山の頂上にある岩から生まれる者や植物の中から生まれる者がいる。ベルも同様だな。しかし、人間が自然を荒らすと土地の力が失われてしまう。当然、夫婦がいくら祈っても子は授からない」
わずかだがヒイロの眼に影が落ちる。
「私は荒野の偉大なる捻れ角の一族、最後の子だった。他にも子の誕生を祈った者もいるが、枯れた土地では何も生み出せなかった。我が一族は一人また一人と減っていき、最後には私だけが残った。いくら原初の力を強く受け継いだ一族でも最後は呆気ない——」
ベルの瞳に映る元魔王は、冷静さの中に寂しさを宿していた。一見落ち着いている表情が、なおさら悲しげに見える。
「なぜ生まれ故郷が枯れてしまったのか……。それは人間どもが我が地を荒らしたからだ。荒れた大地が広がるその地中には、鉱石が埋まっていた。我らも石を採取することはある。だがそれは、必要な量だけだ。しかし、奴らはあればあるだけ取っていく。掘り起こした土地はそのままだ。それどころか、土地を汚し、廃棄物を放置していく」
ヒイロの目元に皺が寄る。感情を表すように声が低くなる。
「最初は気づかなかった。人間とは時間の流れが違う。あっという間なのだ。故郷を奪われるのは……。他の土地も力を失う一方だ。途絶えた一族もある。それから私は力をつけ、一時は最大勢力をまとめた。しかし——」
ヒイロは俯く。かつては長かった髪がさらりと前へ落ちる。薄い唇が真一文字に結ばれてから、微かに開いた。
「無駄だった。我らは去り行く定めなのだ……」
その声を聞いた途端、ベルの胸が締めつけられた。ヒイロの言葉は決して感情的ではない。しかし、言葉の裏には形にできない深い悲しみや苦しみがある。微細な表情の変化にも現れている。
ベルは両手を広げて舞い上がった。ヒイロの顔の高さまで辿り着くと、鼻に寄り添うように頬を撫でる。黄金にきらきらと輝く魔力の粒子が身体から溢れる。
「わたしの魔法ではあなたの心を癒せない。でも、わたしがそばにいるから。一人じゃないよ」
気持ちが伝わるように、祈りながら口にする。弱っていたところを助けてもらったこと、世界について教えてくれたこと、居場所を作ってくれたこと。今までのことをすべて思い返しながらヒイロに触れる。
「ベル、ありがとう。お前の魔力は温かくて心地がいい。これで充分だ」
ヒイロの目が細まる。口元が緩み、ベルに優しげな眼差しが向けられる。若い青年が浮かべる微笑みと同じもの。
「お前は希望だ。もう二度と見ることはないと思っていた光の者が再び地上に現れた。まだ世界は終わりではないと信じることができる」
ヒイロの手がベルを優しく包む。鋭い爪が生えていても、小さな身体には傷一つつけない。
「まだ間に合う。それにあなたにはわたしだけじゃなくて、アオもアカもついてる」
「そうだな。ありがたいことに今でも慕ってくれる」
二人は見つめ合い、声を漏らして笑う。
ベルの中に生まれた温かい感情。力になりたい。支え合いたい。一緒に頑張りたい。
彼に感じていた、胸が高鳴って浮遊するような感覚とは少し違う。地に足がついている。どちらかといえば、落ち着いている。以前が太陽が眩しい夏のような感情だとしたら、今は柔らかい温もりに溢れる春だ。胸の奥から優しい熱が広がっていく。
——わたし、この人とずっと一緒にいたいんだ。
ベルの中で新しい気持ちが芽生えていた。
ヒイロは崖の出入口近くにロックを呼ぶ。ロックは巨大ながらも器用に羽ばたいて空中停止飛行に近い状態を保つ。
長老は出入口まで見送りについてきた。珍しいことらしく、各所に配置された警備兵たちが慌てていた。今も門番が緊張した面持ちで背を伸ばしたまま微動だにしない。
「こちらはすぐに召集をかけるからな。必ず期待に応えろ」
「言われずとも。年齢を理由に忘れたなどと言わないだろうな」
最後まで長老とヒイロの二人は挑発し合う。特にヒイロは相容れないとばかりに不満げに鼻を鳴らしていた。
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「主様、ベル様、よくお戻りになられました」
二人を真っ先に出迎えたのは、にこやかな顔をしたアオだった。続いて数人の子どもたちによじ登られているアカが荒々しい音を立ててやってきた。
「どうだったんだ主?」
明け透けなアカの物言いにアオが横目で睨む。
「悪くはない。同胞たちを説得できたら力を貸す、と向こうは言っている」
ヒイロは気にする様子もなく淡々と長老との話を側近二人に伝えた。
「ほう……。幽玄渓谷の当主にしては、やけに親切ですね。以前は我らの言動にしょっちゅう口を挟んできたというのに」
「ベルを軽んじることはできないのだろう」
「なるほど……さすがベル殿」
アオが手放しで褒め称えるので、ベルは「わたしは何もしてないよっ」と恐縮した。二人は本人を置き去りにして、頷き合っている。ベルの頬が赤くなった。
「主もベルも疲れているだろう。今日は早めに休むといい」
天の助けかアカの一言があり、その場で解散となった。
*****
その晩、ベルは大広間から繋がる幾つかの通路の内の、出入口に一番近い場所にあるヒイロの部屋を訪れていた。部屋といってもドアはなく、岩壁を削ったままの空間だ。入口の周りには幾何学模様が掘られている。ここに住む魔族が感謝を込めて掘ったらしい。力のない者の中には手先が器用な者がいて、物作りに長けているそうなのだ。そういった者は、戦力にはなれなくとも、武器を作ったり、衣服を編んだりして役に立っている。
入口の模様だけでも、ヒイロが慕われていることが分かる。もしかしたら、魔王城の扉に掘られていたものも、同じ経緯だったのかもしれない。
アカが言うには、ヒイロは出自にはこだわらず、分け隔てなく同胞たちに接しているのだという。それは実力主義の魔族でも珍しいこと。創造神から与えられた力が残る古い家系は、一目置かれる存在だ。それでも、歴史の浅い家系生まれのアカとアオをそばに置いている。「主には感謝をしている。無謀にも喧嘩を売った俺を拾ってくれたんだ」とアオは屈託のない笑みを浮かべていた。
ベルは入口から顔だけを出し、「ヒイロ」と中へ呼びかけた。魔族は夜行性だから、起きているはず。
「どうした?」
落ち着いた声が返ってくる。ベルは空を浮き沈みしながら飛んでヒイロの元へ近づいた。ヒイロは手で椀を作り、簡易的な止まり木を作って見せた。そこへベルが降りる。
「話があって来たの」
ベルは一瞬だけ躊躇い、それから言葉を紡いだ。
「嫌だったら言ってね。あなたのおうちのことなんだけど……。わたし何も知らなかったから教えて欲しくて」
ヒイロの表情に不快の色はなかった。少しだけ考える素振りを見せ、
「ああ、幽玄渓谷の当主に聞いたか?」
「ごめんなさい。聞いたといっても少しだけなの」
長老が心配していた、ということを伏せて曖昧に答える。
「謝らなくていい。私の生まれ故郷については話してなかったな」
ヒイロはそこで一拍置いてから、淀みなく話し始めた
「乾いてひび割れた土地が広がる場所がある。そこは見渡す限りの空と乾燥に強い少数の植物、所々に埋まった巨岩しかない場所だ。その中に隆起して歪になった巨大な奇岩がある。太古の昔に存在した爬虫類の頭蓋骨、と例えられている。真偽は定かではないがな」
その口調は淡々としている。まるで折り合いがついているかのような声音。ベルはヒイロの感情を逃さないように注視した。
「夫婦となった男女が子宝を祈願すると、その巨大な口内に赤子が生まれる。夫婦の魔力と土地の力が呼応し、新しい命となる。我らの中には霊山の頂上にある岩から生まれる者や植物の中から生まれる者がいる。ベルも同様だな。しかし、人間が自然を荒らすと土地の力が失われてしまう。当然、夫婦がいくら祈っても子は授からない」
わずかだがヒイロの眼に影が落ちる。
「私は荒野の偉大なる捻れ角の一族、最後の子だった。他にも子の誕生を祈った者もいるが、枯れた土地では何も生み出せなかった。我が一族は一人また一人と減っていき、最後には私だけが残った。いくら原初の力を強く受け継いだ一族でも最後は呆気ない——」
ベルの瞳に映る元魔王は、冷静さの中に寂しさを宿していた。一見落ち着いている表情が、なおさら悲しげに見える。
「なぜ生まれ故郷が枯れてしまったのか……。それは人間どもが我が地を荒らしたからだ。荒れた大地が広がるその地中には、鉱石が埋まっていた。我らも石を採取することはある。だがそれは、必要な量だけだ。しかし、奴らはあればあるだけ取っていく。掘り起こした土地はそのままだ。それどころか、土地を汚し、廃棄物を放置していく」
ヒイロの目元に皺が寄る。感情を表すように声が低くなる。
「最初は気づかなかった。人間とは時間の流れが違う。あっという間なのだ。故郷を奪われるのは……。他の土地も力を失う一方だ。途絶えた一族もある。それから私は力をつけ、一時は最大勢力をまとめた。しかし——」
ヒイロは俯く。かつては長かった髪がさらりと前へ落ちる。薄い唇が真一文字に結ばれてから、微かに開いた。
「無駄だった。我らは去り行く定めなのだ……」
その声を聞いた途端、ベルの胸が締めつけられた。ヒイロの言葉は決して感情的ではない。しかし、言葉の裏には形にできない深い悲しみや苦しみがある。微細な表情の変化にも現れている。
ベルは両手を広げて舞い上がった。ヒイロの顔の高さまで辿り着くと、鼻に寄り添うように頬を撫でる。黄金にきらきらと輝く魔力の粒子が身体から溢れる。
「わたしの魔法ではあなたの心を癒せない。でも、わたしがそばにいるから。一人じゃないよ」
気持ちが伝わるように、祈りながら口にする。弱っていたところを助けてもらったこと、世界について教えてくれたこと、居場所を作ってくれたこと。今までのことをすべて思い返しながらヒイロに触れる。
「ベル、ありがとう。お前の魔力は温かくて心地がいい。これで充分だ」
ヒイロの目が細まる。口元が緩み、ベルに優しげな眼差しが向けられる。若い青年が浮かべる微笑みと同じもの。
「お前は希望だ。もう二度と見ることはないと思っていた光の者が再び地上に現れた。まだ世界は終わりではないと信じることができる」
ヒイロの手がベルを優しく包む。鋭い爪が生えていても、小さな身体には傷一つつけない。
「まだ間に合う。それにあなたにはわたしだけじゃなくて、アオもアカもついてる」
「そうだな。ありがたいことに今でも慕ってくれる」
二人は見つめ合い、声を漏らして笑う。
ベルの中に生まれた温かい感情。力になりたい。支え合いたい。一緒に頑張りたい。
彼に感じていた、胸が高鳴って浮遊するような感覚とは少し違う。地に足がついている。どちらかといえば、落ち着いている。以前が太陽が眩しい夏のような感情だとしたら、今は柔らかい温もりに溢れる春だ。胸の奥から優しい熱が広がっていく。
——わたし、この人とずっと一緒にいたいんだ。
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