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西の果ての街
遅い夕食
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ジジジ……、と燈芯に付いた異物が燃える微かな音が空間を埋める。
簡易テーブル代わりの伐採された木の根の上に置かれたやたら大きい本を、丁寧に捲る微かな音がそれに応える唯一の音だ。
漂う灯りの香りが少し焦げ臭いのは、油がもう少ないからである。
それは直ぐに注ぎ足すべきであるという合図でもあった。放って置くと燈芯が黒く焦げて無駄になってしまうのだ。
しかし、本の前に座る人物は全くそれに気付かずに、夢中に手元の文字を追っている。
ぎしりと板を貼った床がきしむが、それにも全く反応はない。
「こりゃ、ライカ」
ゴツンと硬い音がして、ライカは突然襲った鈍痛に驚いて顔を上げた。
「あ、ジィジィ」
反射的に頭に手をやって、初めて自分が殴られた事に気付いたらしい。
なにやら微笑ましいような動作だが、それでライカが全く周囲に気を巡らせてなかった事が丸分かりになった。
「飯の準備もせんと、こんなに暗くなるまで何をやっておるんじゃ」
「う? え?」
ライカは立ち上がると窓を開けて外を眺める。
見事なぐらいに真っ暗だった。
「あれ? さっきまでまだ明るかったのに」
「お前のさっきは随分と昔のようじゃな」
溜息と、笑いが声に混ざる。
ライカの祖父ロウスは、どうやら帰宅したてのようで、両垂れのある帽子を帽子掛けに掛けると、油差しを掴んで燈明皿に注いだ。
やや暗さが増していた室内が少し明るくなる。
「何をそんなに熱心に読んでおるんじゃ? ん? ほう綺麗な絵じゃな、絵本か?」
「ううん、ええっとね、目録の一種で草木の覚えっていうんだって。治療所の先生がくれたんだ」
ライカは表紙を見て文字を読むと、それを祖父に伝えた。
ロウスは目を丸くする。
「全く、お前の顔の広さは驚き以外の何物でもないの。いつのまに先生とそんなに親しくなったんじゃ?」
「凄い大変な時に助けてくれたんだよ。だからお礼代わりにお手伝いしてただけだよ」
「どうもワシにはお前の方が得をしておるように見えるんじゃがな、お礼になっておるのか?」
「そこはちょっと自信がない」
ライカは困ったように首をかしげてみせた。
「まぁええわ、それより飯はどうなっておるんじゃ?」
「あ! ごめんなさい。直ぐ作るよ。今日はリエラさんに習ってごった汁を作るつもりで豆を半日水に付けて柔らかくしておいたんだ」
「ほう、豆漬けはどうした? 買うと高いじゃろ?」
「それもリエラさんに分けてもらったよ。今度うちでも作ろうと思ってるんだけど、塩が思ったより高いんだね」
「まぁ仕方あるまい、塩はここいらじゃ採れんからな。北東の方の山岳地帯じゃ岩塩が転がってる場所もあるらしいが、ここいらにはありゃあせん」
「うん、でもまぁ買うのは塩ぐらいだしそのぐらいは何とかなると思う。それにしてもさ、豆漬けって塩を沢山使うのにちょっと甘いよね、不思議だね」
言いながら水から揚げた膨らんだ豆をザルに入れ、水を洗い物用の桶に移す。
この水は食器を洗った後に家人の足を洗ったり床を掃除したりするのに使い、最後に真っ黒になって庭の畑に撒かれる事になるのだ。
すっかり遅くなって土間の台所は真っ暗である。
しかし油を使うのがもったいないのでライカはそこにまで灯火を灯す気にはならなかった。
ある程度は夜目が利くのでなんとかなる気持ちもある。
そもそも本来なら下準備は明るい内に行っておくのだが、本に夢中になっていたので時間を忘れてしまっていたらしい。当然自分のせいなので仕方がなかった。
「ジィジィ、そういえば男のカイショウとかはいいの?」
ごそごそと、居間でなにやらやっている風の祖父にライカは疑問を投げる。
ここ最近、祖父はそう言って夜は早々に外出していたのだ。
この暗さだと、いつもの、祖父の外出する時間はすっかり過ぎている。
「なに、これも甲斐性の内じゃな。偶には距離を置かんと、さしもの番い鳥といえども飽きが来てしまう。少し離れて、ちと寂しくなってきた辺りに贈り物を持って会いに行くんじゃ。そうするとまた新鮮な気持ちでしっぽりといけるんじゃよ」
「良く分からないけどジィジィは凄いや、俺はきっとカイショウとか出来ないな」
「努力なくして男は成らずじゃ、努力すればお前だって甲斐性ある良い男になれるんじゃよ」
ライカは野菜と、潰した豆と肉の切れ端を丸めた団子を入れて水を張った鍋を居間の炉の鉤に掛ける。
火避けの樹脂を塗った黒い鉤が、少しだけ揺れて火の上に鍋を留めた。
「この絵は紅カズラじゃの」
ライカが夢中になって読んでいた本をロウスが覗き込んでふむとうなずく。
「あ、ジィジィもそう思うよね、でもさ、書いてる名前が違うよね?」
「そんなもんが分かるか、ワシが読めるのは誓約焼証の決め文ぐらいのもんじゃ」
なぜか胸を張って、祖父がそう答えた。
「誓約焼証?」
「貴族が契約をする時の証書じゃよ。分厚い皮紙に焼き印で記すんでそういう呼び名になったんじゃな。傭兵にとっちゃ自分の命を切り売りする契約じゃから、それだけは読めるように必死で覚えたわ。中にはこっちが字なぞ読めない平民だと侮ってだまくらかそうとする輩がおったからの」
「ジィジィ凄い色んな事を知ってるなぁ」
「木の年輪のごとしといってな、年を重ねればそれだけ知識も分厚くなるもんじゃ」
「じゃ、その本の事、分かるかな? さっき言ったようにその絵は紅カズラなのに書いてる名前は渋皮カズラになってるんだ」
ライカはヘラで時々鍋をかき混ぜながら祖父に問う。
「ああ、なるほど。そりゃああれだ、共通目録の名前じゃろう」
「共通目録?」
「うむ、物というのは同じものでも場所によって呼ばれ方が違ったりするもんじゃ。例えば山豚なぞはもっと南東の地方に行くと猪と呼ばれておる」
「へぇ」
「まぁ自分の住む場所だけで物を売り買いして暮らす分にはそれでも構わんが、いざそういう離れた場所と取引をするとなると困った事になる。名前が違うと混乱が生まれるんじゃ」
「混乱?」
「そうじゃ、紅カズラにしろここらじゃ実が赤いやつがそう呼ばれておるが、他所では葉の赤いのが同じように呼ばれておる可能性もある」
「あ、そうか」
「それで出来たのが共通目録じゃ。公で取り引きされる物の名前を取り決めで統一したんじゃな」
ライカはすっかり感心して半開きの口のまま祖父を見つめた。
「凄いね!」
「単に必要じゃったからそうなったとも言えるがな。ところで鍋がグツグツ音を立ててるようじゃが?」
「ああ! しまった」
ライカが慌ててヘラで鍋をかき回すと、底になにかこびり付いていたようで引っ掛かりがある。
それをなんとか剥がし、置いてあったペースト状の豆漬けをひと掬い入れて軽くひと混ぜした。
独特の食欲をそそる香りが広がる。
大きな椀にそれを注ぎ分け、店から貰ってきた平たいパンを大皿に乗せて出した。
「少々薄味だが、まぁ美味いんじゃないかな?」
スプーンでごった汁をいくらか口にしてそう評価すると、ロウスはいつの間にか用意していたらしい酒を杯に注いで一気に呑む。
「良かった、味加減がちょっと難しいよね。ジィジィはもう少し濃い方が良い? 豆漬け少し足す?」
「いや、それより」
ロウスは少々掬い取られたそれをヘラごと受け取ると、パンをちぎってそれに塗った。
「ふむ、美味いわい」
ライカは笑って自分も残ったパンを更にちぎり、祖父に倣ってちょっとだけ豆漬けを乗せてみる。
「あ、辛い」
「お前は辛いのが苦手じゃな」
慌ててごった汁を口にするライカをロウスが笑う。
「うん、塩辛いのはちょっと苦手かな」
ライカは思いついたようにパンを更に細かくちぎってごった汁の中へ入れ、ひと掬い食べるとにこりと笑った。
「しかしまぁ、お前がそんなに本が好きとは知らんかったの」
「この本、絵が分かりやすいし、色々な植物の見付かる場所や育て方、効能とか詳しく書いてあるから面白いよ。俺、単に匂いの良いハーブを部屋で上手に育てたかっただけなんだけど、薬草とか面白くてついつい時間を忘れちゃった」
「ほうほう、そりゃ、良かったのぅ。今度お礼にあの治療所の補修でもさせてもらわんとな」
「え? 俺がお礼に色々お手伝いするから大丈夫だよ」
「ばかもん、保護者には保護者の顔というものがあるんじゃ」
「顔?」
「子供の責任者面をしておかんと甲斐性がないと思われるんじゃよ」
「これもカイショウなんだ、奥が深いね」
ライカはすっかり感心すると、尊敬した目で祖父を仰ぎ見たのだった。
簡易テーブル代わりの伐採された木の根の上に置かれたやたら大きい本を、丁寧に捲る微かな音がそれに応える唯一の音だ。
漂う灯りの香りが少し焦げ臭いのは、油がもう少ないからである。
それは直ぐに注ぎ足すべきであるという合図でもあった。放って置くと燈芯が黒く焦げて無駄になってしまうのだ。
しかし、本の前に座る人物は全くそれに気付かずに、夢中に手元の文字を追っている。
ぎしりと板を貼った床がきしむが、それにも全く反応はない。
「こりゃ、ライカ」
ゴツンと硬い音がして、ライカは突然襲った鈍痛に驚いて顔を上げた。
「あ、ジィジィ」
反射的に頭に手をやって、初めて自分が殴られた事に気付いたらしい。
なにやら微笑ましいような動作だが、それでライカが全く周囲に気を巡らせてなかった事が丸分かりになった。
「飯の準備もせんと、こんなに暗くなるまで何をやっておるんじゃ」
「う? え?」
ライカは立ち上がると窓を開けて外を眺める。
見事なぐらいに真っ暗だった。
「あれ? さっきまでまだ明るかったのに」
「お前のさっきは随分と昔のようじゃな」
溜息と、笑いが声に混ざる。
ライカの祖父ロウスは、どうやら帰宅したてのようで、両垂れのある帽子を帽子掛けに掛けると、油差しを掴んで燈明皿に注いだ。
やや暗さが増していた室内が少し明るくなる。
「何をそんなに熱心に読んでおるんじゃ? ん? ほう綺麗な絵じゃな、絵本か?」
「ううん、ええっとね、目録の一種で草木の覚えっていうんだって。治療所の先生がくれたんだ」
ライカは表紙を見て文字を読むと、それを祖父に伝えた。
ロウスは目を丸くする。
「全く、お前の顔の広さは驚き以外の何物でもないの。いつのまに先生とそんなに親しくなったんじゃ?」
「凄い大変な時に助けてくれたんだよ。だからお礼代わりにお手伝いしてただけだよ」
「どうもワシにはお前の方が得をしておるように見えるんじゃがな、お礼になっておるのか?」
「そこはちょっと自信がない」
ライカは困ったように首をかしげてみせた。
「まぁええわ、それより飯はどうなっておるんじゃ?」
「あ! ごめんなさい。直ぐ作るよ。今日はリエラさんに習ってごった汁を作るつもりで豆を半日水に付けて柔らかくしておいたんだ」
「ほう、豆漬けはどうした? 買うと高いじゃろ?」
「それもリエラさんに分けてもらったよ。今度うちでも作ろうと思ってるんだけど、塩が思ったより高いんだね」
「まぁ仕方あるまい、塩はここいらじゃ採れんからな。北東の方の山岳地帯じゃ岩塩が転がってる場所もあるらしいが、ここいらにはありゃあせん」
「うん、でもまぁ買うのは塩ぐらいだしそのぐらいは何とかなると思う。それにしてもさ、豆漬けって塩を沢山使うのにちょっと甘いよね、不思議だね」
言いながら水から揚げた膨らんだ豆をザルに入れ、水を洗い物用の桶に移す。
この水は食器を洗った後に家人の足を洗ったり床を掃除したりするのに使い、最後に真っ黒になって庭の畑に撒かれる事になるのだ。
すっかり遅くなって土間の台所は真っ暗である。
しかし油を使うのがもったいないのでライカはそこにまで灯火を灯す気にはならなかった。
ある程度は夜目が利くのでなんとかなる気持ちもある。
そもそも本来なら下準備は明るい内に行っておくのだが、本に夢中になっていたので時間を忘れてしまっていたらしい。当然自分のせいなので仕方がなかった。
「ジィジィ、そういえば男のカイショウとかはいいの?」
ごそごそと、居間でなにやらやっている風の祖父にライカは疑問を投げる。
ここ最近、祖父はそう言って夜は早々に外出していたのだ。
この暗さだと、いつもの、祖父の外出する時間はすっかり過ぎている。
「なに、これも甲斐性の内じゃな。偶には距離を置かんと、さしもの番い鳥といえども飽きが来てしまう。少し離れて、ちと寂しくなってきた辺りに贈り物を持って会いに行くんじゃ。そうするとまた新鮮な気持ちでしっぽりといけるんじゃよ」
「良く分からないけどジィジィは凄いや、俺はきっとカイショウとか出来ないな」
「努力なくして男は成らずじゃ、努力すればお前だって甲斐性ある良い男になれるんじゃよ」
ライカは野菜と、潰した豆と肉の切れ端を丸めた団子を入れて水を張った鍋を居間の炉の鉤に掛ける。
火避けの樹脂を塗った黒い鉤が、少しだけ揺れて火の上に鍋を留めた。
「この絵は紅カズラじゃの」
ライカが夢中になって読んでいた本をロウスが覗き込んでふむとうなずく。
「あ、ジィジィもそう思うよね、でもさ、書いてる名前が違うよね?」
「そんなもんが分かるか、ワシが読めるのは誓約焼証の決め文ぐらいのもんじゃ」
なぜか胸を張って、祖父がそう答えた。
「誓約焼証?」
「貴族が契約をする時の証書じゃよ。分厚い皮紙に焼き印で記すんでそういう呼び名になったんじゃな。傭兵にとっちゃ自分の命を切り売りする契約じゃから、それだけは読めるように必死で覚えたわ。中にはこっちが字なぞ読めない平民だと侮ってだまくらかそうとする輩がおったからの」
「ジィジィ凄い色んな事を知ってるなぁ」
「木の年輪のごとしといってな、年を重ねればそれだけ知識も分厚くなるもんじゃ」
「じゃ、その本の事、分かるかな? さっき言ったようにその絵は紅カズラなのに書いてる名前は渋皮カズラになってるんだ」
ライカはヘラで時々鍋をかき混ぜながら祖父に問う。
「ああ、なるほど。そりゃああれだ、共通目録の名前じゃろう」
「共通目録?」
「うむ、物というのは同じものでも場所によって呼ばれ方が違ったりするもんじゃ。例えば山豚なぞはもっと南東の地方に行くと猪と呼ばれておる」
「へぇ」
「まぁ自分の住む場所だけで物を売り買いして暮らす分にはそれでも構わんが、いざそういう離れた場所と取引をするとなると困った事になる。名前が違うと混乱が生まれるんじゃ」
「混乱?」
「そうじゃ、紅カズラにしろここらじゃ実が赤いやつがそう呼ばれておるが、他所では葉の赤いのが同じように呼ばれておる可能性もある」
「あ、そうか」
「それで出来たのが共通目録じゃ。公で取り引きされる物の名前を取り決めで統一したんじゃな」
ライカはすっかり感心して半開きの口のまま祖父を見つめた。
「凄いね!」
「単に必要じゃったからそうなったとも言えるがな。ところで鍋がグツグツ音を立ててるようじゃが?」
「ああ! しまった」
ライカが慌ててヘラで鍋をかき回すと、底になにかこびり付いていたようで引っ掛かりがある。
それをなんとか剥がし、置いてあったペースト状の豆漬けをひと掬い入れて軽くひと混ぜした。
独特の食欲をそそる香りが広がる。
大きな椀にそれを注ぎ分け、店から貰ってきた平たいパンを大皿に乗せて出した。
「少々薄味だが、まぁ美味いんじゃないかな?」
スプーンでごった汁をいくらか口にしてそう評価すると、ロウスはいつの間にか用意していたらしい酒を杯に注いで一気に呑む。
「良かった、味加減がちょっと難しいよね。ジィジィはもう少し濃い方が良い? 豆漬け少し足す?」
「いや、それより」
ロウスは少々掬い取られたそれをヘラごと受け取ると、パンをちぎってそれに塗った。
「ふむ、美味いわい」
ライカは笑って自分も残ったパンを更にちぎり、祖父に倣ってちょっとだけ豆漬けを乗せてみる。
「あ、辛い」
「お前は辛いのが苦手じゃな」
慌ててごった汁を口にするライカをロウスが笑う。
「うん、塩辛いのはちょっと苦手かな」
ライカは思いついたようにパンを更に細かくちぎってごった汁の中へ入れ、ひと掬い食べるとにこりと笑った。
「しかしまぁ、お前がそんなに本が好きとは知らんかったの」
「この本、絵が分かりやすいし、色々な植物の見付かる場所や育て方、効能とか詳しく書いてあるから面白いよ。俺、単に匂いの良いハーブを部屋で上手に育てたかっただけなんだけど、薬草とか面白くてついつい時間を忘れちゃった」
「ほうほう、そりゃ、良かったのぅ。今度お礼にあの治療所の補修でもさせてもらわんとな」
「え? 俺がお礼に色々お手伝いするから大丈夫だよ」
「ばかもん、保護者には保護者の顔というものがあるんじゃ」
「顔?」
「子供の責任者面をしておかんと甲斐性がないと思われるんじゃよ」
「これもカイショウなんだ、奥が深いね」
ライカはすっかり感心すると、尊敬した目で祖父を仰ぎ見たのだった。
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