いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第七章~おごりの盾~

四百五十一話

 夜半過ぎ、書斎には鉛筆の音とキーを叩く音が響く。

「――よし、出来た!」
 
 原稿用紙に最後の一文字を書きつけ、宏ちゃんが声を上げた。
 
「わあっ、おめでとう!」
 
 ぼくは清書していた手を止め、作家先生のもとに駆け寄る。すると、くるりとゲーミングチェアが振り返り、宏ちゃんの大きな笑顔が目に飛び込んできた。
 
「成! ありがとう!」
「ひゃあっ」
 
 ぎゅーっと抱きしめられて、慌てて肩にしがみつく。ぼく達を乗っけた椅子は、くるくるくるとコマのように回転してしまった。高速回転する書斎の景色に、ひええと悲鳴を上げる。
 
「やーっ、目がまわるーっ」
「あはは……ああ、終わった!」
 
 慌てるぼくに反して、宏ちゃんはハイテンション。綺麗な顔に、子どもみたいに明るい笑みを浮かべている。
  
 ――それもそうやんね。これで全ての〆切に目途が付いたんやもの……!
 
 ぼくも嬉しくなって、肩にそっと頬を埋めた。ちょっとよれたシャツから、濃密な森林のフェロモンが香ってドキドキする。
 宏ちゃんはぼくの腰を抱いて、にこにこして言う。
 
「成、お前のおかげだよ! 愛してる」
「……も、もう。宏ちゃんったら!」
 
 真正面からの好意に、ぼんと頬が燃えあがる。
 輝くような笑顔で、そんなこと言うなんて反則ですっ。真っ赤になって照れていると、宏ちゃんはご機嫌にぼくの頬を撫でる。
 
「……ありがとうな。あと少し、お前に手間かけちまうけど……」
「何言うてるのっ。続き読めるの、楽しみにしてたんやから」
 
 大好きな夫であり、推し作家のお仕事をいちばん側で味わえる。これ以上の僥倖がありましょうか。めっ、と鼻の頭に指を突きつけると、宏ちゃんは照れくさそうに目を細める。
 お仕事達成の喜びに溢れているものの、さすがに疲れの見える夫の頬を、ぼくは両手で包んだ。
 
「宏ちゃん先生、本当にお疲れさまでした。まずはしっかり休んでね?」
 
 三日前から、宏ちゃんは真の追い上げを見せていた。物凄い集中力で書き上げて、なんと〆切よりも一週間も早くに仕上げてしまったんよ。
 その分、ほとんど休息のとれていない夫が心配やったから、ぼくも本当にほっとした。
 すり、と鼻先をくっつけると、「うん」と長い睫毛が伏せられる。
 
「お風呂わかしてあるけど、入っちゃう?」
「……成は?」
「ぼ、ぼくは、後片付けしてから!」
 
 灰色がかった目に見つめられ、慌てて逃げを打つ。――脱稿ハイの宏ちゃんとお風呂に入ると、とんでもないことになると、経験則でわかってた。
 宏ちゃんは甘い声で「ちぇ」と呟く。
 
「じゃあ、キスだけ」
「……んっ!?」
 
 後頭部を引き寄せられ、唇を塞がれる。
 
「ひろ、ちゃ……」
 
 ぎゅっと肩に縋りつく。
 唇を包むやわらかな感触に、頭が爆発しちゃいそうや。優しく、角度を変えて何度も啄まれ――ぼくは、甘い感覚に酔わされる。
 
「ふあ……」
 
 まだ鼻先の触れ合う距離で、キスの雨が止む。
 ぼくは、ゆでだこみたいになって、はあはあと息を吐いていた。触れ合っていた唇が、甘く痺れて……口もきけない。間近にある灰色の瞳が、艶めかしく細まる。
 
「かわいい……食っちまいたいな」
「ひゃんっ!」
 
 かぷりと顎を甘噛みされ、大げさに体が跳ねてしまう。
 
 ――へ、へんな声出ちゃった……!
 
 かああと頬を染めると、宏ちゃんが肩を揺らして笑う。笑んだ形のまま、唇が額に触れた。
 
「風呂行ってくるから、後でな」
「~~っ!」
 
 ひょいと抱きかかえられ、椅子に置かれる。鼻歌を歌いながら去っていく背を、ぼくは真っ赤になって見送った。
 け、結局ピンチのままやんっ!
 燃えるような顔を押さえて、くるくる回っていると――ローテーブルの上のスマホが、着信音を鳴らした。
 
「あ……!」
 
 急に現実に帰った気分で、ぼくはスマホに飛びついた。久しぶりの熱の余韻を残す頬を手で仰ぎながら、受話器をあげた。
 
 
 
 
「ただいまー……って、どうしたんだ?」
 
 ほかほかと湯気をたてている宏ちゃんが、書斎の入り口で目を丸くする。
 ぼくは、はっとして振り返った。手元に置いてあった文章表現の本を、慌てて片付ける。
 
「あっ、お帰りなさい! あったまった?」
「おう……電話中だったか?」
 
 大股に近づいて来た宏ちゃんが、ひょいとしゃがみ込む。熱い湿り気を帯びた、ボディソープの匂いが香ってどきりとする。

 ――宏ちゃん、濡れた髪が色っぽい……
 
 さっきまでのことを思い出して、小さくなっていると……宏ちゃんがくすりと笑った。腰を引き寄せられて――
 
「成……」
『ひ、宏章さん!』
 
 突然、よく通る声が響き、われに返った。
 ローテーブルの上に立てておいたスマホの中では、綾人がぺこぺこと会釈していた。
 
 ――わーっ、電話の最中やった!
 
 ぼくは慌てて身を離し、正座する。
 
『こんばんは! すんません、遅くに』
「……いや、いいんだよ。どうしたんだ?」
 
 穏やかな問いが、前半は綾人に、後半はぼくに投げかけられる。ぼくは、頬をかきながら答えた。
 
「えと……綾人とスピーチについて話してて……悩んでるところがあって」
「ふむ。何を悩んでるんだ?」
 
 顎をひとなでした宏ちゃんは、綾人に向き直る。綾人はビクリと肩を揺らし、画面越しにもわかるほど緊張して、話しだす。
 
『えーっと……オメガのアスリートの抑制剤との向き合い方、みてーのを話したくて……でも、話が長すぎて飽きるって、朝匡に言われちまって……なんとか短くできないかなって』
 
 おずおずと遠慮がちに、綾人は言う。ぼくも、後に続いた。
 
「ぼくね、綾人のお話、とっても良いと思うん。やから、なんとかたくさんの人に響いてほしいんやけど……どういう風にしたらいいかって……!」
「なるほどなぁ」
 
 色んなシチュエーションで、スピーチの場数を踏んでる宏ちゃんなら、良いアイデアをくれるかも。
 じっと見上げていると、宏ちゃんは微笑んだ。
 
「無理に短くしなくて良いんじゃないか? 大事なのは緩急だ」
『えっ』
 
 目を丸くするぼく達に、宏ちゃんは続けた。
 
「興味の薄い話題は、だれてくるかもしれないよな。だから、間に面白いことを言って、注意を逸らすんだよ」
『……えっ! そ、それって、ギャグとか?』
「うーん。まあ……楽しいエピソードトークとかが無難じゃないかな?」
 
 綾人は目からうろこの落ちたような顔をしていた。
 
 ――面白い話をするなんて……!? お、思いつきもせんかった……!
 
 ぼくも驚いて、夫を尊敬の目で見つめた。
 
『ありがとうございました! オレ、やってみます』
「いえいえ。頑張ってね」
 
 糸口が見つかったらしく、綾人は元気よく通話を切った。ぼくはホッとして、頼もしい夫を振りかえった。
 
「宏ちゃん、ありがとう! ぼくじゃ、いい案が出なかったよっ」
「はは。そんなことないさ」
 
 宏ちゃんは穏やかに微笑する。お仕事で疲れているのに、手助けまでしてくれるなんて、なんて優しいんやろう。ぼくは嬉しい気分のまま、すっくと立ちあがった。
 
「ごめんね、すぐに後片付けをするから……」
 
 笑顔で振り返り、きょとんとする。宏ちゃんが、ぼくの手を掴んでいたんよ。
 
「宏ちゃん、どうし――ひゃあっ」
 
 不思議に思った瞬間、軽々と抱き上げられてしまう。
 
「あ、あの……?」
「まったく……お人好しなのは成のいいところだが……」
 
 低い声が何か呟いているけど、よく聞き取れない。頭にハテナを浮かべているうちに、どさりとソファの上に押し倒された。
 目を白黒させていると、逆光を背負った宏ちゃんが「成」と呼ぶ。
 蜂蜜みたいに甘い声に、ぞくりと背筋がわななく。
 
「いまからは、俺のことだけ考えてくれよ?」
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