君に捧げる紅の衣

高穂もか

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夢のような幸福

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 ――それはまだ、幸福な夢を信じ切っていた頃だった。

 待ち望んでいた赤い絹を渡されて、僕は歓声を上げた。
 
「ありがとうございます、お姉様!」
「……本当に出来るのですか、羅華ルオファ。あなたが、それだけの大きな布に刺繍なんて、職人に任せた方が良かったんじゃありませんか?」
 
 お姉様が心配そうに、美しい眉を顰める。腰に手を当てた拍子に、牡丹の刺繍の施された青磁色の袖が、ふわりと舞う。
 僕はニッコリ笑って、たっぷりとした絹布を腕に抱いた。なめらかな布は、僕の分と夫となる方のと、二人分だ。幸福の重みを噛み締める。
 
「大丈夫です。花嫁が婚礼衣装に刺繍を施すのは、我が家の習わしではないですか! 僕だって、たくさん練習してきたんですよ」
 
 婚礼衣装に魔除けの刺繍を施すと、その婚姻は幸せなものになるって言われてるんだ。だから、婚礼の儀を行うとなると、その一年くらい前からたくさんの術者を雇い、準備を進めておく。
 けれど、王家お抱えの術者の一族である我がシュエン家は、花嫁ひとりで刺繍を行う。呪力が強すぎるから、他の術者との釣り合いが取れないっていうのが大きな理由の一つ。あと、本音を言うと、当代一の術者のプライドなんだって。
 
 ――僕は、その一家の末っ子で花嫁。もちろん、自分で刺繍をするのが筋と言うものです。
 
 ぐっ、と得意げに顎を突き上げると、お姉様は胡乱な目をした。
 
「練習は、そりゃしてるのは知ってますけど……ねえ、その机の上にあるものはなんですか?」
「はい、お兄様の上着です。生誕のお祝いが近いので、家紋の亀を刺繍したんです。独創性があるって、先生に褒めていただきました」
 
 黒色の絹布に、呪力を込めた銀糸で丁寧に刺繍した自信作だ。えへんと胸を張ると、お姉様はがっくりと項垂れた。
 
「私には馬糞にしか見えないわ……」
 
 どうして、余計に心配そうにするんだろ? って首をかしげていると、姉の侍女たちがくすくすと笑いを零す。
 
「羅華様。奥様は、羅華様の婚儀をそれは楽しみにしていらっしゃいますから。いっとうお美しい姿を見られれば、もう後は何でもよい、食事の盆をひっくり返しても、夫君の足を踏まれても構わないと仰られて」
「お前達、余計なことを言うんじゃないの」
 
 お姉様は、柳眉をつり上げる。でも、ふだん雪のようなお顔が桃のように色づいていらっしゃるから、皆の言うことが事実なんだろう。ぼくは感激して、小さなころのようにお姉様に身を寄せた。
 生まれてすぐにお母様が無くなって、僕の面倒はほとんどお姉様が見て下さった。三年前に嫁がれてからも、こうして弟の僕を気にかけてくださる、優しいお姉様。
 
「お姉様、嬉しいです……! 僕、お姉様がいてくださったから、こうして幸福に嫁ぐことが出来ます。絶対に綺麗だって思ってもらえる刺繍をしますねっ」 
「……まあ、いいのですけど。張り切り過ぎないようにね。あなたは張り切ると、本っ当に手元が狂うから」
 
 やわらかな手に頭を撫でられて、にこにこしてしまう。
 すると、庭に面した窓から、低い笑い声が聞こえてきた。
 
「あ……!」
  
 僕は、弾かれたように振り返る。
 と――窓のすぐそばに、項で一つにまとめられた鉄色の髪が見えた。肩を揺らし笑っている男性をみとめ、僕はぱあと花咲く気分で、駆け寄った。
 
シンさんっ」
 
 両手を伸ばし、愛しい人に飛びつく。ヒュン、と落下する体を危なげなく受け止めてくれた辰さんは、呆れたように言う。
 
「こら、羅華様! 窓から飛び出したら危ないって言ってるでしょうが」
「大丈夫ですっ。だって、いつも受け止めてくれますから」
 
 武人らしい太い首にぎゅっとしがみつく。「やれやれ」と辰さんは、僕のことを腕に抱えなおした。武人の藍色のお仕着せから、清冽な香の匂いがする。他の武人の人は汗臭いのに、辰さんはいつもいい匂い。
 
「辰。盗み聞きなんて趣味が悪いわよ」
 
 お姉様は言い、扇子をポンと手のひらに打ち付ける。辰さんは、どこか芝居かかった仕草で肩を竦める。
 
「盗み聞きだなんて、まさか。私はただ、庭で護衛の任についていただけです」
「あぁら、仕事熱心で嬉しいこと。どうりで弟と居るときには、いつでもその頭が見えるはずだわね」
「あああの、お姉様、辰さんっ。喧嘩しないで」
 
 バチバチ、と二人の間に火花が散って見えて、僕は慌てて割って入る。二人が顔を合わせると、いつもこうだった。お兄様が言うには、喧嘩するほど仲が良いというものらしいけど。
 辰さんとお姉様の顔をくるくると交互に見上げると、うっと呻き声があがった。
 
「喧嘩じゃありませんから、そんな顔しないで頂戴!」
「本当ですか?」
 
 ほっとして笑うと、お姉様も少しほほ笑んでくれた。
 
「ええ……辰、私は兄上に話があるので、こそこそしないで中にお入り!」
「は。ありがとうございます、姉上様」
 
 恭しく礼をとる辰さんに、お姉様はふんと鼻を鳴らし室を出て行かれた。ぞろぞろと侍女たちも後をついていく。僕は「お姉様、素敵な布をありがとう」と辰さんの腕の中で叫んだ。
 
「布……婚礼衣装の、ですか」
 
 辰さんがぽつりと呟く。ぼくは少しはにかみながら、作業机に置いた赤い絹布を指さした。
 
「はい、素晴らしい布をお姉様がくださったんです! 僕、腕によりをかけて刺繍をいたしますからっ」
 
 きっと幸福な婚姻となるように、一針一針……想いを込めて――その決意とともに、辰さんを見つめる。辰さんは緑がかった瞳を、僅かに瞠った。
 それから、ふと唇をほころばせる。
 
「……羅華様は、本当に可愛らしい方ですね」
「えっ!」
 
 突然の甘い囁きに、頬が真っ赤になる。おろおろしてしまうと、辰さんは朗らかな笑い声を立てた。
 よくわからないけれど、愛しい人が笑ってくれて嬉しい。
 
 ――ずっと、一緒に居られるんだ……夢だったらどうしよう。
 
 僕は無邪気に願い、辰さんに抱きついた。
 その幸福が、本当にまやかしであるなんて思いもしないで――
 
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