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第二話 幸福の招き猫
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しおりを挟むわたしが「カクリヨ美容室」で働き出して、本日で二週間が過ぎようとしていた。
定休日は火曜日と第三水曜日、祝日。それ以外は基本的に午前11時に開店して、午後7時には閉まる。時と場合によっては閉まっていることもあるらしいけど。
少なくともわたしが働き出してからのここ二週間は、何事もなく過ぎていった。ちなみに、わたしがここで見たお客さまは数人だけだ。大概はわたしがいないときに来るらしいけど、学生身分であるわたしは週数回程しか入っていないし、しかも平日は学校終わりの17時しか出れないわけだから、遭遇率はとびきり少ない。
そうして本日もまた、何事もなく一日は終わろうとしていた──壁にかけられたアンティーク時計の針が、ちょうど「7」の数字を差したあたりで。
「結衣くん、お疲れさまです。今日はもう上がっていいですよ」
店主である「黄昏ほだか」の透き通るような美声が、涼やかなそよ風みたく店内へ木霊した。
時代劇映画の映像フィルムから飛び出してきたかの如しモダンな和服姿の彼は、本日も変わることのない魅惑な笑顔をわたしへ向けてくる。やはり彼は美しい。
天上天下、わたしは彼以上に美しい人間を知らない。それは見た目に始まり、その心の清さにしてもそうだ。わたしの乙女フィルターが作用しているせいかもしれないが、とにかくわたしはこの「黄昏ほだか」という美人に魅了されてばかりだ。
見惚れてしまう……やはり、いつ何時どの角度から眺めてもビューティフォー。
またここ二週間で言えば、わたしと彼の呼び方も変わっていた。働き出してすぐ、お店の店長に対して「さん」付けはどうなんだろうと思ったわたし。その旨をほだかさんに伝えると、「僕は気にしませんが……」と突然考え始めた。
「でも、確かにそうかもしれません。一緒に働く身として『如月さん』は些か他人行儀過ぎますよね」
いやそっち!? とツッコミたい気持ちをぐっと堪えた。これも一緒に働き出して分かったことだが、彼は少し天然なところがある。そこがまたエモいのなんのその。
わたしにとって、彼の織りなす一挙手一投足が目の保養であり耳が幸せです。
「そうですね……では、結衣ちゃん? これは少し軽い感じがしますね。では結衣さん……これは、馴れ馴れし過ぎるでしょうか」
と、ああでもないこうでもないと真剣に悩みぬいた後のこと。
「では、結衣くん。これでいかがでしょうか?」
──否定することもない。結果として、わたしは「結衣くん」と呼ばれるようになった。わたしとしては「結衣」で構わなかったけれど、彼的に「くん」付けの方が呼び易いとのこと。
一方のわたしはと言うと、
「ほだか先生、今日は肉じゃがを作りましたから。冷める前に食べてくださいね」
掃除、閉店作業を終えて帰ろうとした折、わたしはワザとらしく『ほだか先生』というワードを口にしてみる。分かってる……ただ呼びたいだけだって。でも、呼びたいのだから仕方がない。昔からの憧れだったのだ。夢見心地な乙女の妄想。
先生と助手──その関係性を妄想しただけで、ご飯三杯はいける気がする。
「いつも申し訳ありませんね、夕御飯まで作って頂いて」
「いえ、申し訳ないのはむしろわたしの方ですよ。わたしが出来ることなんて、掃除と受付くらいのものですし」
自分から「働きたい」と言ってなんだ、わたしが美容室でできることなんてたかが知れていた。そのうち美容師の助手としてなにか手助け出来たらと思っていたけれど、「美容国家資格を持ってないと、お客さまに触れてはいけない規則となっています」とのことだった。
「なんか、逆に気を遣わせちゃってますよね……あの、いらないときはいらないって、ちゃんと──」
「そんなことありません」
ぴしゃりと、断言。
「掃除くらいだとは仰いますが、細かいところまで綺麗してくれるので凄く助かっています。目の悪さを言い訳にするつもりはありませんが、僕には気付けない部分もありますので」
「……そ、そうですかね」
「はい。それに──」と、ほだか先生は目を瞑り、愛くるしい小動物みたくスンスンと鼻を鳴らす。嬉しそうに、表情を緩めた。
「夕ご飯」
ほだか先生は、幸福そうに言った。
「結衣くんの手料理は、お世辞抜きで美味しいです。言ってませんでしたが、実はここ最近の楽しみなんですよ」
にっこり満点スマイル。この通り、ほだか先生がいちいち優しい。ここ最近、わたしの胸を痛くさせる問題事だ。
「そう言えば、少し前髪が伸びてきましたね」
ふと、ほだか先生がわたしの顔を覗き込んでくる。
わたしは赤面する顔を悟られぬよう、自然な態度にて前髪を指先で撫ぜた。
「そうなんですよ。長いときはあまり気にならなかったんですけど、髪が伸びるのって結構早いんですね」
「個人差はありますが、大体は一ヶ月で1センチほど伸びると言われています。早い人は2センチ程度でしょうか」
「へー、知りませんでした……髪って、そんなに早く伸びるんだ……」
と、感嘆する声を上げたわたしに。
「結衣くん、ちょっと座ってください」
カット椅子を引くほだか先生。
「少し、前髪を整えましょうか」
「え!? いいんですか!?」
鏡面越しに、ほだか先生は笑って頷いた。
「もちろんです。結衣くんには、日頃からお世話になっていますからね」
もうね、返す言葉もなかった。
その後に聞こえる──かちんっ、かちんっ、かちんっ──軽やかなシザーの開閉音。店内のライトで輝く銀色のシザーが、光煌めく宝石にも思える。またその瞳、マロン色眼睛も見目麗しく──
「ほだか先生、その……」
「はい?」
「……眼鏡。よく、似合ってますね」
そう、眼鏡。私的イケメン三種の神器の一つである眼鏡装備のほだか先生は、もはや無敵。伝説の剣を手に入れた勇者が如し、なのである。
「そうですか? 僕としては、自然体である方が好きなんですけれど」
最近となってようやく知り得たことなのだが、ほだか先生はカット時に眼鏡をかけるときと、そうでないときがある。その理由について、ほだかさん曰く「曇りなき眼にて見定めよ」という祖父からの言いつけを遵守しているから。
もっと詳しく言うならば、
『ガラス越しでは、見えるものも見えなくなってしまいますから。ですので、僕が眼鏡を身につけるのはそもそも見えないと分かっている人だけです』
というわけで、わたしは『見えない』側へとなったらしい。こうして眼鏡ほだか先生を真正面から拝める権利を獲得したのである。やったね。
「(新婚生活って、こんな感じなのかなぁ)」
以上、幸福な日々。わたしは不思議の国のアリス。「カクリヨ美容室」という御伽話に迷い込んだお姫さま。そして、「黄昏ほだか」という王子さまと巡り合った。そういう夢のような体験を、ずっとしていたい。
だが始まりがあるように、終わりもあるのだろう。またその始まりが唐突であるように、その終わりが突然訪れる可能性もあるわけでして──
「あれ、結衣にゃん。キミまだいたの?」
──ほら、終わった。
開け放たれた扉の前に立つ、ニヤけ面。その男を見て、わたしは盛大なため息を吐いた。
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