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第三章 マリーアントワネット
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次の日の学校終わり、わたしは元職場の前を立ち寄った。手に赤い傘を握りしめて、外から中を覗いてみる。相変わらず、忙しない店内。バイトリーダーでありガチムチ系男子の小山さん(29)が秘儀"高速レジ打ち"を発動させている。一度あの状態になったら最後、小山さんはもう誰にも止められない。レジの待機列がなくなるか、バイト時間が終わるまで覚醒状態は続く。元気そうでなによりだ。ただ、その隣。
「(げっ、店長だ……)」
これも相変わらずのハゲ面……ではなく、フッサフサの黒髪を生やした店長が、レジで和やかに接客対応をしていた。え、うそ。レジに立ちたがらず、裏でユーチューブばかり見ていたあの店長がっ!? ──じゃなくて、なんですかその髪!? づ、ヅラですか?
「み、見なかったことにしよう……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
ちょっと目が疲れているかもしれない。目頭を押さえて、今日のところは大人しく退散することにした。また後日ということで。紅麗亜ちゃんもいないようだし……いいよね?
その足で深沢。「カクリヨ美容室」へ──と。
「結衣にゃん、遅いよ! 俺も暇じゃないんだから、もっと早く来てよ」
店奥に一台しかないシャンプー台に寝転がり、唇を尖らせる彼──天童薫は、頭の後ろに手を回しながら「んん!」と蹴伸び。この人、ここを実家かなにかと勘違いしているのでは。
「ちょっと天童さん、店の中でそんなに堂々とくつろがないで下さいよ。お客さまに見られたらどうするんですか」
「ついさっき、女の子が入ってきて見られたけど」
「そうでしょ? だからやめてくださいって、そう言って……って、はぁあああっ!?」
わたしはズカズカと天童さんへ歩み寄った。
「それはいつ、何時何分何十秒、地球が何回まわったときですか!?」
「いや知らないよ」
「で、そのあとは!? ちゃんと引き留めてくれたんですよね!?」
「もちろん。『お店の人なら今出かけてるよー』って、ちゃんと伝えておいた。でもその子、いきなり血相変えて逃げちゃってさ。なんだったんだろうね?」
「なっ……もう天童さん! どうせあなたがそんな調子で寛いでるから、びっくりして帰っちゃったんですよぉ! もう勘弁してくださいよ! ウチはただでさえお客が少ないんですからね、ここで寛ぎたいなら少しは協力してくださいよぉぉぉ」
「はははは! 結衣にゃんが怒ってる怒ってる!」
はぁ、この人になにかを期待してもダメ。
諦めるのよ、結衣。彼は子供をそのまま大人にしたかのような人、子供おじさん……いや、違う。天童さんはまだおじさんじゃないし、確かまだ24歳だ。だったらそうだな、彼は子供おにいさんだ──って、いやどっちでもいいわいっ!
わたしはため息を漏らして、受付台へ向かう。予約票を確認。誰も記載はされていない。次に、店内へと見回してみる。
「あれ、ほだか先生はどこかに行ってるんですか?」
「いいや、いつものあれ。今日は体調が良くないみたい」と、天童さんは窓の向こうへ視線を移した。どんよりとした、鉛色の空。
「偏頭痛ってやつ? 天気悪いと、そういう感じになるやつじゃないかな」
「えっと、そうでしたっけ?」
「いや適当」
いや適当かい!
「でもほだかのやつ、俺が来るとだいたい体調悪いからさ。まあ、俺が来るのが雨の日が多いってこともあるけど」
「なんですかそれ。まさか、狙ってるんですか?」
まさかと、天童さんは肩をすくめた。
「雨が降ると、ふらっと足がここに傾いちゃうんだよね。既視感ってやつ? そう言えば行こうとしてたなぁ、みたいな」
それ、単に雨でだるいから仕事サボりたいだけでは……いや、考えないでおこう。まともに気にしたら負けだ。
「それで、その女の子がどんな方だったか教えてもらえますか。一応ほだか先生に確認してみますから」
「えーと、そうだねえ。髪が長かった」
「ふむふむ……他には?」
「長さは背中が隠れるくらい。あと、前髪が眉毛あたりで切り揃えられてた」
ん?
「……もしかしてその子、セーラー服着てませんでした? しかも外国人みたいな顔で、肌がすっごく白くて、足なんかスラッとしてて」
「よく分かったね結衣にゃん。キミ、もしかしてエスパー? 俺、心読まれちゃった的な?」
首を傾げる天童さんには、わたしは答えない。冷や汗がこめかみから落ちる。嫌な予感がした。
「もしもーし、結衣にゃん聞こえてますかー?」
「それ、もしかしたら昨日ウチで髪を染めたお客さまかもしれません……」
「そうなの? まさかのお直しってやつかな?」
「お直しって、なんですか……」
尋ね返すと、天童さんは癖なのか顔脇に垂れた髪を指でいじりながら。
「染まりが悪いとか、要はクレームってやつ。髪色の定着があまかったとかで、家に帰ってシャンプーをしたら色がごっそり抜けることもあるし、雨に濡れて抜け落ちるなんて事例もあるからね」
ズキッと、胸が痛む。まさか、あれかな。昨日の雨。あれで、色が抜けちゃったりとか……
「ちなみに、髪の色は……」
「そりゃあもう、見るもびっくりするくらいの真っ白だった。今時いるんだねえ、そんな子も」
「く、紅麗亜ちゃんだ。それ、ぜったい紅麗亜ちゃんだぁぁ……ぁぁ、どうしよう」
「紅麗亜? ん、さっきの子の名前?」
「やっぱり、あのとき追いかけときゃ良かった……」
「んー、さっきからどったのよ結衣にゃん。なんかあるのなら、お兄さんに話してみ」
いつぞやのときみたく気さくな調子で聞いてくる天童さんに、わたしは。
「実は……」
かくかくしかじか、実はこういったことがありまして──先日の出来事を洗いざらい話していた。天童さんは腕組み、静かに話を聞いてくれる。こういった冷静な一面は、素直に感心してしまう。さすがNO.1ホストさま。女性たちが彼の虜になるのも、分からなくはない。
「まあまあ、そう凹みなさんなって」
天童さんは、項垂れるわたしの肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「話を聞く感じだと、染まりがあまくて髪色が抜けたわけじゃないみたいだしさ」
「でも天童さん、さっき雨に濡れたら髪色が抜けることもあるって、そう言ってたじゃないですか……」
「言ったけど、それはファッションカラーでの話。色素の濃いグレイカラーじゃ、まず色が全部抜け落ちることなんてないから」
「……? ファッションカラー? それ、なんですか」
「お洒落染め。明るい色」
脳内で「?」が渦巻いている。天童さんは「ちょっと来てみ」と、バックルーム──調剤室へ。カラー剤の陳列する棚の前まで手を引っ張られる。
「確認とばかりに。結衣にゃん、昨日ほだかが使ってたカラーがどれか分かる?」
「えっと、そうですねえ」
記憶だけを頼りに、カラー剤の箱を目で追っていく。厳密には、わたしが追っていたのは箱に記載されている数字の方だった。
「確か……これです。この『5』って数字のやつ」
「あー、じゃあやっぱりグレイカラー。しかもこれ、黒か」
「? すみません天童さん。さっきから言ってるその、グレイカラーってなんですか?」
尋ねると、天童さんはその箱をつま先でトントンと叩きながら、
「こういった暗い色のことを言うんだよ。そしてこの箱に書いている『5』って数字は、色のトーン。この数字が低ければ低いほど暗い色って思ってもらっていい。白髪染め、とも言ったりするかな」
「えっと、それじゃあ、逆にこっちの『12』とか『14』は、数字が高くなるほど髪が明るくなるって、そういう感じですか?」
天童さんは「YES」と頷きながら、話続けた。
「ちなみにだけど、日本ではその『14』トーンってのが色素を最大限に明るくできるファッションカラー。そこから先、例えばその……紅麗亜だっけ? 彼女みたいに髪を真っ白くする場合は、ブリーチっていう薬剤を使う必要がある。こっちはカラー剤というよりは、脱色剤と考えてもらっていいよ」
「ん~? 脱色剤って、要するに色を抜くってことですよね? 白く染めるのに色を抜くって……それおかしくないですか?」
「これがおかしくないんだな。大前提として、人の髪はもともと真っ白なわけ。ただ生えてくるときにメラノサイトっていう色素形成細胞でメラニン色素が作られて、髪が黒くなる。歳をとると白髪が増えるって言われてるのは、このメラノサイトの働きが低下するから、そんな仕組みなわけさ」
あ、なるほど。
「で、あとは簡単な話。黒が色落ちすると、茶色になる。茶色の次は黄色。で、最後に髪は白くなる。ほら、脱色でしょ?」
確かに、言われてみればその通りだ。わたしの髪も、長いときは毛先がほのかに黄色くなっていた。髪が痛むと色が抜けるって話も聞いたことがある。
「そして、ここからが本題。彼女が本当にこのグレイカラーで染めたのなら、雨で全部色が抜け落ちることなんてまずない。そのくらい、グレイカラーの色素沈着は強いんだ」
天童さんは深く頷きながら言い切った。冗談を言っている様子は、微塵も見受けられない。でも先ほど、天童さんは紅麗亜ちゃんの髪が白かったと言った。その上で、黒に染めたのなら色落ちすることはあり得ないとも。だったら、どうして。
もしかして、やっぱり紅麗亜ちゃんの髪は──
「……マリー、アントワネット」
「ん。なにー?」
「いや昨日、紅麗亜ちゃんが言っていたんですよ。マリーアントワネットは処刑前夜、一夜にして髪が白くなったって。自分も、そうだって。ほら、ストレスですよ。よく言うじゃないですか。ストレスが溜まると、白髪が増えるって。だからもしかしたら、紅麗亜ちゃんの髪も同じことが起きてるのかもしれません」
「強いストレスによる神経トラブルで、白髪が生えてくるのは事実とされているね」
天童さんは「ただ」と、尚も言ってきた。
「それは飽くまでも、これから生えてくる髪に限った話ね。染毛は化学反応でありケミカルなことだから、一晩で髪色が白くなるなんて生物学的にあり得ないよ。それにその『白髪伝説』にしてもそうだけど──」
マリーアントワネットの『白髪伝説』は諸説あるが、有力な説はこうだ。マリーアントワネットの処刑が決まってから実際にギロチンにかけられるまで、数ヶ月は空いていた。この間、ストレスで白髪が伸びたとする。
そして処刑直前、髪を短く切られたという話がある。そうなった場合、残るのは伸びてきた白髪だけ。一夜にして髪が白くなったと勘違いする人がいても不思議ではない──と、天童さんは身振り手振りを交え流暢に語った。
「てなわけで、仮にもその紅麗亜って子の髪色が黒から白に落ちていたとするなら、考えられるのはブリーチだけってわけ。ただこれ、結構髪にダメージが残るから。毛繊維がぶちぶちに切れて、髪がゴムみたいに伸びる」
「髪がゴムって……恐いですね、それ」
「それだけじゃないよ。カラーもブリーチも強アルカリ剤だから、弱酸性である人の皮膚は溶けてしまう。カラー剤を使って『かぶれる』っていう言い方は、要するに火傷に近い状態なんだ。用途を守れば大丈夫だけど、連続の染毛脱色は結構リスキーなことだよ」
知らなかった。これまで、わたしはカラー剤を絵の具みたいなものと思っていたけれど──化学反応。天童さんの言葉を借りれば、そういうものだ。目に入ったら失明することもあるらしい。だけど、悪いことばかりでもないのだろう。昨日聞いたほだか先生の話を思い返して、わたしはそのように思う。
ただそれ故の疑問を、紅麗亜ちゃんに抱かされる。
「じゃあどうして、紅麗亜ちゃんは昨日染めたばかりなのに自分から脱色なんかしたんでしょう……危ないことだって、髪を染めてる紅麗亜ちゃんがよく分かってるはずなのに」
「そんなこと知らないよ。もしかして、あれじゃない? 誰かさんに会いに来る口実が欲しかったとか」
「誰かさんって……それまさか、ほだか先生のこと言ってます?」
「さあ、どうだろうねえ。少なくとも結衣にゃんかほだか、ここにはキミたちしかいないわけだし。あれ、まさか禁断の恋ってやつ?」
「茶化さないでくださいよ」
天童さんは鼻を鳴らして、勝ち誇ったかのような笑み。なんだか敗北した気分だ。
「それで他に聞きたいことは? 今日は大サービス、なんでも教えてあげるけど」
「いや、もうダイジョウブです……」
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「いえいえ、本当に。それにしても天童さん、前々から思ってたんですけど……美容の知識詳し過ぎませんか?」
「まあね。一応美容師を目指してるからさ」
「そうなんですか!?」
天童さんはニンマリ顔で頷いた。初耳である。
「普段はホストとして働いてるけど、年に数度だけ美容専門学校で勉強中って感じ」
「確か、通信制ってやつでしたっけ?」
「なんだ結衣にゃん、知ってんじゃん」
もちろんよく知っている。美容専門学校のシステムについては、中学三年生の頃に何度も調べたことがあった。
「どうりで詳しいわけですね、納得しました。でも天童さんが美容師、そうでしたか」
「そういうこと。来年には国家資格取ってるだろうから、もしかしたら結衣にゃんと同僚になってるかもね~」
「えっ、まさかここで働くつもりですか!?」
「うん。ほだかの許可はちゃんと得てますから」
天童さんは八重歯を覗かせ、ピースサインを見せてきた。
「よろしくね、結衣にゃん先輩?」
わたしは苦笑う。ナンテコッタ。
「(げっ、店長だ……)」
これも相変わらずのハゲ面……ではなく、フッサフサの黒髪を生やした店長が、レジで和やかに接客対応をしていた。え、うそ。レジに立ちたがらず、裏でユーチューブばかり見ていたあの店長がっ!? ──じゃなくて、なんですかその髪!? づ、ヅラですか?
「み、見なかったことにしよう……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
ちょっと目が疲れているかもしれない。目頭を押さえて、今日のところは大人しく退散することにした。また後日ということで。紅麗亜ちゃんもいないようだし……いいよね?
その足で深沢。「カクリヨ美容室」へ──と。
「結衣にゃん、遅いよ! 俺も暇じゃないんだから、もっと早く来てよ」
店奥に一台しかないシャンプー台に寝転がり、唇を尖らせる彼──天童薫は、頭の後ろに手を回しながら「んん!」と蹴伸び。この人、ここを実家かなにかと勘違いしているのでは。
「ちょっと天童さん、店の中でそんなに堂々とくつろがないで下さいよ。お客さまに見られたらどうするんですか」
「ついさっき、女の子が入ってきて見られたけど」
「そうでしょ? だからやめてくださいって、そう言って……って、はぁあああっ!?」
わたしはズカズカと天童さんへ歩み寄った。
「それはいつ、何時何分何十秒、地球が何回まわったときですか!?」
「いや知らないよ」
「で、そのあとは!? ちゃんと引き留めてくれたんですよね!?」
「もちろん。『お店の人なら今出かけてるよー』って、ちゃんと伝えておいた。でもその子、いきなり血相変えて逃げちゃってさ。なんだったんだろうね?」
「なっ……もう天童さん! どうせあなたがそんな調子で寛いでるから、びっくりして帰っちゃったんですよぉ! もう勘弁してくださいよ! ウチはただでさえお客が少ないんですからね、ここで寛ぎたいなら少しは協力してくださいよぉぉぉ」
「はははは! 結衣にゃんが怒ってる怒ってる!」
はぁ、この人になにかを期待してもダメ。
諦めるのよ、結衣。彼は子供をそのまま大人にしたかのような人、子供おじさん……いや、違う。天童さんはまだおじさんじゃないし、確かまだ24歳だ。だったらそうだな、彼は子供おにいさんだ──って、いやどっちでもいいわいっ!
わたしはため息を漏らして、受付台へ向かう。予約票を確認。誰も記載はされていない。次に、店内へと見回してみる。
「あれ、ほだか先生はどこかに行ってるんですか?」
「いいや、いつものあれ。今日は体調が良くないみたい」と、天童さんは窓の向こうへ視線を移した。どんよりとした、鉛色の空。
「偏頭痛ってやつ? 天気悪いと、そういう感じになるやつじゃないかな」
「えっと、そうでしたっけ?」
「いや適当」
いや適当かい!
「でもほだかのやつ、俺が来るとだいたい体調悪いからさ。まあ、俺が来るのが雨の日が多いってこともあるけど」
「なんですかそれ。まさか、狙ってるんですか?」
まさかと、天童さんは肩をすくめた。
「雨が降ると、ふらっと足がここに傾いちゃうんだよね。既視感ってやつ? そう言えば行こうとしてたなぁ、みたいな」
それ、単に雨でだるいから仕事サボりたいだけでは……いや、考えないでおこう。まともに気にしたら負けだ。
「それで、その女の子がどんな方だったか教えてもらえますか。一応ほだか先生に確認してみますから」
「えーと、そうだねえ。髪が長かった」
「ふむふむ……他には?」
「長さは背中が隠れるくらい。あと、前髪が眉毛あたりで切り揃えられてた」
ん?
「……もしかしてその子、セーラー服着てませんでした? しかも外国人みたいな顔で、肌がすっごく白くて、足なんかスラッとしてて」
「よく分かったね結衣にゃん。キミ、もしかしてエスパー? 俺、心読まれちゃった的な?」
首を傾げる天童さんには、わたしは答えない。冷や汗がこめかみから落ちる。嫌な予感がした。
「もしもーし、結衣にゃん聞こえてますかー?」
「それ、もしかしたら昨日ウチで髪を染めたお客さまかもしれません……」
「そうなの? まさかのお直しってやつかな?」
「お直しって、なんですか……」
尋ね返すと、天童さんは癖なのか顔脇に垂れた髪を指でいじりながら。
「染まりが悪いとか、要はクレームってやつ。髪色の定着があまかったとかで、家に帰ってシャンプーをしたら色がごっそり抜けることもあるし、雨に濡れて抜け落ちるなんて事例もあるからね」
ズキッと、胸が痛む。まさか、あれかな。昨日の雨。あれで、色が抜けちゃったりとか……
「ちなみに、髪の色は……」
「そりゃあもう、見るもびっくりするくらいの真っ白だった。今時いるんだねえ、そんな子も」
「く、紅麗亜ちゃんだ。それ、ぜったい紅麗亜ちゃんだぁぁ……ぁぁ、どうしよう」
「紅麗亜? ん、さっきの子の名前?」
「やっぱり、あのとき追いかけときゃ良かった……」
「んー、さっきからどったのよ結衣にゃん。なんかあるのなら、お兄さんに話してみ」
いつぞやのときみたく気さくな調子で聞いてくる天童さんに、わたしは。
「実は……」
かくかくしかじか、実はこういったことがありまして──先日の出来事を洗いざらい話していた。天童さんは腕組み、静かに話を聞いてくれる。こういった冷静な一面は、素直に感心してしまう。さすがNO.1ホストさま。女性たちが彼の虜になるのも、分からなくはない。
「まあまあ、そう凹みなさんなって」
天童さんは、項垂れるわたしの肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「話を聞く感じだと、染まりがあまくて髪色が抜けたわけじゃないみたいだしさ」
「でも天童さん、さっき雨に濡れたら髪色が抜けることもあるって、そう言ってたじゃないですか……」
「言ったけど、それはファッションカラーでの話。色素の濃いグレイカラーじゃ、まず色が全部抜け落ちることなんてないから」
「……? ファッションカラー? それ、なんですか」
「お洒落染め。明るい色」
脳内で「?」が渦巻いている。天童さんは「ちょっと来てみ」と、バックルーム──調剤室へ。カラー剤の陳列する棚の前まで手を引っ張られる。
「確認とばかりに。結衣にゃん、昨日ほだかが使ってたカラーがどれか分かる?」
「えっと、そうですねえ」
記憶だけを頼りに、カラー剤の箱を目で追っていく。厳密には、わたしが追っていたのは箱に記載されている数字の方だった。
「確か……これです。この『5』って数字のやつ」
「あー、じゃあやっぱりグレイカラー。しかもこれ、黒か」
「? すみません天童さん。さっきから言ってるその、グレイカラーってなんですか?」
尋ねると、天童さんはその箱をつま先でトントンと叩きながら、
「こういった暗い色のことを言うんだよ。そしてこの箱に書いている『5』って数字は、色のトーン。この数字が低ければ低いほど暗い色って思ってもらっていい。白髪染め、とも言ったりするかな」
「えっと、それじゃあ、逆にこっちの『12』とか『14』は、数字が高くなるほど髪が明るくなるって、そういう感じですか?」
天童さんは「YES」と頷きながら、話続けた。
「ちなみにだけど、日本ではその『14』トーンってのが色素を最大限に明るくできるファッションカラー。そこから先、例えばその……紅麗亜だっけ? 彼女みたいに髪を真っ白くする場合は、ブリーチっていう薬剤を使う必要がある。こっちはカラー剤というよりは、脱色剤と考えてもらっていいよ」
「ん~? 脱色剤って、要するに色を抜くってことですよね? 白く染めるのに色を抜くって……それおかしくないですか?」
「これがおかしくないんだな。大前提として、人の髪はもともと真っ白なわけ。ただ生えてくるときにメラノサイトっていう色素形成細胞でメラニン色素が作られて、髪が黒くなる。歳をとると白髪が増えるって言われてるのは、このメラノサイトの働きが低下するから、そんな仕組みなわけさ」
あ、なるほど。
「で、あとは簡単な話。黒が色落ちすると、茶色になる。茶色の次は黄色。で、最後に髪は白くなる。ほら、脱色でしょ?」
確かに、言われてみればその通りだ。わたしの髪も、長いときは毛先がほのかに黄色くなっていた。髪が痛むと色が抜けるって話も聞いたことがある。
「そして、ここからが本題。彼女が本当にこのグレイカラーで染めたのなら、雨で全部色が抜け落ちることなんてまずない。そのくらい、グレイカラーの色素沈着は強いんだ」
天童さんは深く頷きながら言い切った。冗談を言っている様子は、微塵も見受けられない。でも先ほど、天童さんは紅麗亜ちゃんの髪が白かったと言った。その上で、黒に染めたのなら色落ちすることはあり得ないとも。だったら、どうして。
もしかして、やっぱり紅麗亜ちゃんの髪は──
「……マリー、アントワネット」
「ん。なにー?」
「いや昨日、紅麗亜ちゃんが言っていたんですよ。マリーアントワネットは処刑前夜、一夜にして髪が白くなったって。自分も、そうだって。ほら、ストレスですよ。よく言うじゃないですか。ストレスが溜まると、白髪が増えるって。だからもしかしたら、紅麗亜ちゃんの髪も同じことが起きてるのかもしれません」
「強いストレスによる神経トラブルで、白髪が生えてくるのは事実とされているね」
天童さんは「ただ」と、尚も言ってきた。
「それは飽くまでも、これから生えてくる髪に限った話ね。染毛は化学反応でありケミカルなことだから、一晩で髪色が白くなるなんて生物学的にあり得ないよ。それにその『白髪伝説』にしてもそうだけど──」
マリーアントワネットの『白髪伝説』は諸説あるが、有力な説はこうだ。マリーアントワネットの処刑が決まってから実際にギロチンにかけられるまで、数ヶ月は空いていた。この間、ストレスで白髪が伸びたとする。
そして処刑直前、髪を短く切られたという話がある。そうなった場合、残るのは伸びてきた白髪だけ。一夜にして髪が白くなったと勘違いする人がいても不思議ではない──と、天童さんは身振り手振りを交え流暢に語った。
「てなわけで、仮にもその紅麗亜って子の髪色が黒から白に落ちていたとするなら、考えられるのはブリーチだけってわけ。ただこれ、結構髪にダメージが残るから。毛繊維がぶちぶちに切れて、髪がゴムみたいに伸びる」
「髪がゴムって……恐いですね、それ」
「それだけじゃないよ。カラーもブリーチも強アルカリ剤だから、弱酸性である人の皮膚は溶けてしまう。カラー剤を使って『かぶれる』っていう言い方は、要するに火傷に近い状態なんだ。用途を守れば大丈夫だけど、連続の染毛脱色は結構リスキーなことだよ」
知らなかった。これまで、わたしはカラー剤を絵の具みたいなものと思っていたけれど──化学反応。天童さんの言葉を借りれば、そういうものだ。目に入ったら失明することもあるらしい。だけど、悪いことばかりでもないのだろう。昨日聞いたほだか先生の話を思い返して、わたしはそのように思う。
ただそれ故の疑問を、紅麗亜ちゃんに抱かされる。
「じゃあどうして、紅麗亜ちゃんは昨日染めたばかりなのに自分から脱色なんかしたんでしょう……危ないことだって、髪を染めてる紅麗亜ちゃんがよく分かってるはずなのに」
「そんなこと知らないよ。もしかして、あれじゃない? 誰かさんに会いに来る口実が欲しかったとか」
「誰かさんって……それまさか、ほだか先生のこと言ってます?」
「さあ、どうだろうねえ。少なくとも結衣にゃんかほだか、ここにはキミたちしかいないわけだし。あれ、まさか禁断の恋ってやつ?」
「茶化さないでくださいよ」
天童さんは鼻を鳴らして、勝ち誇ったかのような笑み。なんだか敗北した気分だ。
「それで他に聞きたいことは? 今日は大サービス、なんでも教えてあげるけど」
「いや、もうダイジョウブです……」
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「いえいえ、本当に。それにしても天童さん、前々から思ってたんですけど……美容の知識詳し過ぎませんか?」
「まあね。一応美容師を目指してるからさ」
「そうなんですか!?」
天童さんはニンマリ顔で頷いた。初耳である。
「普段はホストとして働いてるけど、年に数度だけ美容専門学校で勉強中って感じ」
「確か、通信制ってやつでしたっけ?」
「なんだ結衣にゃん、知ってんじゃん」
もちろんよく知っている。美容専門学校のシステムについては、中学三年生の頃に何度も調べたことがあった。
「どうりで詳しいわけですね、納得しました。でも天童さんが美容師、そうでしたか」
「そういうこと。来年には国家資格取ってるだろうから、もしかしたら結衣にゃんと同僚になってるかもね~」
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