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第四章 誰そ彼とき
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卒塔婆と墓石の並ぶ、墓地の中。西日の傾いた夕陽に照らされて、黄昏 薫──墓石に彫れられたその文字が、ギラギラと光っていた。
ほだか先生は墓石を撫ぜながら、静かに語り始めた。
「僕と薫は、実の兄弟ではありません。父と母の再婚を機にそうなった、腹違いの兄弟なんです。父方の息子が薫、母方の息子が僕。ただ僕はまだ当時2歳だったので、その事実を知ったのはもっと後になって。
18歳の時、薫から聞かされました。驚きましたよ……兄と思っていた者から、いきなり実は血の繋がった兄弟ではないと知らされるのですからね。でも、前々からおかしいとは思っていたんですよ。どうして、僕らは兄弟なのに別々に暮らさなければならないのだろうと。
ただでさえ両親を失って心細いというのに、兄とまで切り離さなければならないんだろうって。金銭的な問題とは聞いていましたけど、でもそういった事情でないことは、幼い僕でも薄々と理解していました。
その事情についてまでは、薫は話してくれませんでした。祖父も亡くなっていたので、真実は分からずじまい……とは、思っていたんですけどね。祖父の弟子で、僕の師匠でもある方が、教えてくれたんです。師匠は亡くなった母の友人で、幼なじみとも言ってました。だからいろいろと、聞いていたみたいです。当時、なにがあったのかを。
そこで知ったのですが、母にはもともと結婚歴がなかった。僕を身篭ったとされる二十歳の頃も、お付き合いをしている方はいなかった。では僕は誰の子かという話なんですけど、そのことだけは一切明かさなかったそうです。それは両親にも、当時一緒に暮らしていた祖父に対しても。
僕はそんな素性の分からない子供だったので、両親におろせと迫られた。でも母は頑なに拒み、ついには離縁された。最後に頼ったのが祖父だった、ということでした。その後は僕が生まれて、2歳までは祖父と母の三人で、しみじみと暮らしていたそうです。
師匠がよく様子を見に行っていたみたいですが、それはそれで幸せそうだったと聞いています。僕は、よく覚えてないんですがね。そして、その頃にも母と父は知り合った。
きっかけは友人の結婚式、父の一目惚れだったと聞きました。父が28歳、薫が7歳のときですね。父はなんでも財閥の御曹司だったそうで、当時で既に良い立場についていた。
ただ、昔はかなりの遊び人だったそうで、薫はその時付き合っていた人との間に身篭った子、だそうです。母親は薫を産んですぐ、お金を渡してそれっきりだとか。
それから、父は母に猛アプローチ。ついには婚約の一歩手前までこぎつけたそうです。だけど、そううまくはいかなかった」
ほだか先生はそこまで話したあたりで、一度話を区切った。しゃがみ込み、墓石の脇に添えられた真新しい真っ白な菊の花びらを指で撫ぜた。
「家系の壁、というものです。父の家系は、由緒ある血筋の者たちです。一方で母の家系はごく一般的な……いや、一般でもないかもしれませんね。とにかく、父の一族は血筋の繋がりを気にした。しかも僕という、素性の分からない子供までいる。血筋に傷をつけたくなかったのでしょう」
そこで、わたしはやっとこさ口を挟むことにした。
「そんなの、変ですよ。血筋がどうだとか気にするなんて……」
「おかしいとは思いますか? でも、珍しい話ではないんですよ。特に家系図を遺しているような家系はね」
「でも、天童さんだって、実の母親がいないんですよね? だったら」
「いないから、いいんですよね。母親がいないのであれば、いないままにしておけばいい。どこの誰か分からないわけですから、血筋は汚れません。それに、一番重要である先祖の血自体は薫と繋がっている。なんの問題もありません」
そのときのわたしは、納得のいかない顔をしていたのだろう。ほだか先生は「仕方がないんです」と、話を続けた。
「そのように教わり、そのように育ってしまったのなら、それに従うのが一族というもの。そのしがらみから抜け出すのであれば、覚悟が必要となります。母が僕を産むために、親との縁を経ったように」
「では、まさかほだか先生のお父さんも……そうだったんですか?」
ほだか先生は、ゆっくりと頷いた。
「僕と薫が兄弟となったということは、そういうことです。確かに血の繋がりはありませんでしたが、それ以上の強い繋がり、血筋の壁を乗り越えた父と母の覚悟のもと、僕らは繋がっている。薫はそのことについて語りたがりませんでしたが、全てを分かっていたはず。その上で、薫は全てを投げ捨てて、再び僕のもとに帰ってきてくれた。黙っていれば、そのまま父の一族のもとで何不自由のない生活を送れたというのに。地位も名誉も、得られたはずなのに」
「……天童さん、らしいですね」
わたしがそう言うと、ほだか先生は「ええ」と嬉しそうに微笑んだ。
「自慢の兄です。優しくて、頼もしくて……そんな太陽のような人で、憧れで……目標だったんです。そして、僕に残された唯一の繋がりでもありました。ですが、そんな唯一の繋がりさえも、ある日突然奪われた」
空気が変わる。
「2年前の今日、大雨の日でした。薫は仕事前に一度店に寄ると電話をかけてきました。『大事な話があるから』と、妙に改まって。その時から、なにか嫌な予感がしていました。ですがおとなしく、店で薫が来るのも待つことにしたんです。それなのに、全く来る気配もなくて、連絡もつかなくて……僕が次に薫と会ったのは、何者かに殺され、変わり果てた姿となってからでした」
雷に打たれた気分だった。
「それから僕は、なにも手につかない日々を過ごしていました。ただただ悲しくて、恨めしくて……薫の声、あの笑顔がもう見れないと思うだけで、自然と涙が溢れ出してくるんです。そんな日々が、しばらく続いた頃にも……薫が、何事もなかったようにふらっと店に現れたんです。以前となにも変わらない様子で、まるであの惨劇などなかったみたいに。そのときにも、悟ったのです。薫は……自身の死に気付いていないと」
天童さんが店へ訪れるのはいつも不定期だ。ある雨の日の夕方、前触れもなく現れる──この理由については、ほだか先生の中である程度憶測がついているらしい。曰く、天童さんは死の直前の、本来あるべきだった一日を繰り返し過ごしている、とのこと。
確かに、天童さんは以前こんなことを言っていた。
── 雨が降ると、ふらっと足がここに傾いちゃうんだよね。既視感ってやつ? そう言えば行こうとしてたなぁ、みたいな。
今にして思えば、あの言葉こそがなによりの答えだったのかもしれない。天童さんは、壊れたビデオテープのように2年前の7月6日をリピートしているのだ。ただ、そこで一番気がかりだったのは記憶について。同じ日常を繰り返しているというならば、なぜ天童さんはわたしのことをちゃんと覚えているのか? また、紅麗亜ちゃんのことは覚えていなかった。
その疑問についても、ほだか先生は教えてくれた。
「無意識なのでしょうが、自身の記憶を都合良く取捨選択しているのだと思われます。この前、薫がいるときに時上さんが来たと言っていましたね?
それは、以前にもあったなんです。薫は、彼女に声をかけましたが……多少の寒気がするくらいの反応は見せていましたけど、それだけでした。以来、薫は時上さんについての記憶、名前すら覚えていませんでした。臭いものに蓋をした、とでも言うのでしょうか。精神を安定させるための、無意識な防衛反応なのかもしれません。いずれにしても、薫は死して尚、生きようと懸命にもがいている……僕は、そう思ってしまうんです」
知れば知るほどに、真実とは残酷だ。
「犯人も捕まっておらず、情報もありません。真相は全て、闇の中に葬られた。そのまま、泣き寝入りするしかなかったわけです……そう、普通ならば」
「普通、なら?」
ほだか先生はわたしの方へ振り返り、頷いた。真摯な瞳が、夕陽の陽射しを乱反射させる。
「警察の方から、聞いたんです。薫の遺体、その指には、長い黒髪が数本巻きついていた。これは、薫がその女性と争った形跡だろうと。結局、DNA鑑定でも、どこの誰かまで判別できなかったそうです。なにか、細工をしたのでしょう。完全犯罪。完璧にやり切った、そんなつもりなのでしょうが……」
氷のように、冷たい瞳。
「この眼ならば、その者の髪に遺された薫の残滓を、見抜ける……」
冷え切った瞳の奥には、きっとドス黒い炎が渦巻いている。
「僕の眼は、欺けない」
そこまで聞けば、もう大体のことを察した。ほだか先生が『人に褒められるような人間ではない』と言っていた、言葉の意味を。
ほだか先生は、ずっと探していたんだ。天童さんを殺したという犯人、その犯人に遺された、天童さんの残滓なるものを──
「幻滅しましたよね?」
ほだか先生は立ち上がり、いつもの表情へ戻る。笑っていた。
「そうです。このような仕事をしている根本的な理由は、復讐のため。薫の仇を討つ……僕は、そんな怨嗟にとり憑かれているんですよ。いろいろと、変だとは思っていたでしょう? なぜ苦しんでいた昴くんや時上さんを、そのままにしておいたか。何故、すぐにも助けてあげなかったのだろうと」
「……」
「それは……白か黒か、見定めるためです。誰かが、僕に嘘をついているかもしれない。今もどこかで、薫の死を暴こうとする僕を、見張っているかもしれない。結衣くん、あなたに近付いたのもそのため。僕は鼻から、誰のことも信用していません。むしろ利用できるものなら利用してやろうと、あなたを泳がせていました」
「……」
「ただ、さすがに時上さんのことは驚きました。僕としては、彼女こそが一番怪しいと睨んでいたのですが、どうも違っていたようですね」
「……」
「最低なんですよ、僕は」
自嘲気味な笑み。まるで自分のことを責めてくださいと、そうは言いたげで。実際、責めて欲しかったのだろう。ほだか先生は、そんなにも憎たらしい口振りで、わたしのことを突き放そうとしている。どうか自分のことを嫌いになってくれと、その真っ直ぐな瞳で訴えかけているとさえ思えた。きっと、それこそがほだか先生の導き出した答え。わたしに全てを打ち明けた、理由そのもの。
そしてその覚悟は、先日にも既に固まっていたのだろう。
──結局のところ、人は、人の繋がりでしか、その苦しみを乗り越えることはできない。ボクのやっていることは、単なる慰めに過ぎません。仮にも、その愚かしい慰めを選ぶのであれば……やはり、交わってはいけなかったかもしれません。
先日聞いたその言葉の意味が、すっと頭に流れ込んでくる。もう後戻りはできないって、そういうことだ。そんなこと、もう分かってる。
分かってるけど……それでも、言わせて欲しい──
「分かりません」
「え?」
「なにが最低なのか、わたしには全く理解できません。だってさっき、ほだか先生言ったじゃないですか。その目なら、天童さんの遺した残滓が見えるって。だったら、わたしや三觜さん、それに紅麗亜ちゃんが犯人でないことは既に分かっていたはずです。そうじゃない。ほだか先生は……なんだかんで言っても、結局は救ってあげるつもりだったんだ。ただそのタイミングを、見定めていただけなんでしょう」
ほだか先生は呆然としている。わたしは、毅然として話し続けた。
「それに、わたしを泳がせていたって言いますけど、それこそ嘘ですよ。だってほだか先生、あのときわたしの名前呼んで、止めようとしたじゃないですか。本当は天童さんのことだって、知られたくなかったはずです。じゃなきゃ、隠さないですよ普通。
どうせいつかはバレるわけですし。ほだか先生に誤算があったとすれば、やはりわたしですよね。わたしがいつも勝手な行動ばかりするから、ほだか先生の計画は狂ってばかり。わたしが天童さんの事実を知ってしまったことも、そのうちの一つです」
「……」
「以上、ほだか先生はなにも間違ってません。最低なんかでもありません。誰がなんと言っても、わたしはこの意見、譲る気ないです。それは、例えほだか先生であっても」
「結衣くん、あなたは……」
固まっていたほだか先生が、体をわたしに傾けてくる。
「……あなたは、どうして僕を疑ったり、しないんですか?」
「どうしてもなにも、疑う理由がないからです。わたしは、ほだか先生がこれまでなにをしてきたのか、それを知っています。大体、ほだか先生も言ってたじゃないですか。『僕は目に映るもの、自分で確認できたものしか信じない』って。だったら、わたしだってそうです。わたしは、ほだか先生のやってきたこれまでの全てを……信じます。ほだか先生は、人に褒められる素晴らしいことをしたんですよ。付け焼き刃の言葉なんて絶対信じない」
「結衣くん……」
「だから、無理にわたしから嫌われようとしなくたって、いいんですよ。そんなの、あなたらしくない。そんな悲しい顔、しないでください。美人さんが、台無しです。安心してください。天童さんのことは、絶対に誰にも言いませんから──」
そこで、咄嗟に口が止まってしまう。このままなにも気付かないフリをしておきたい。でもこんな時ですら、やはりわたしは「如月結衣」だった。
バカ正直者な残念さん。この性格のおかげで、これまでたくさん嫌な目にあってきたけれども、そのおかげでほだか先生と巡り合うことができた。その結果、わたしはたくさんの幸せを、もう充分過ぎるくらい味わった。味わい尽くした。だったら、もういいのだ。
わたしは、自身の口から告げることにした。
「辞めます、わたし」
わたしには、分かっていた。自身のことを嫌いになるような発言を繰り返し、自主的に辞めるよう誘導する──そんなほだか先生の企みなど、見抜いているのだから。全ては、天童さんを守るためだ。あの人の秘密は、きっと誰にも知られてはいけない。それは、例えわたしであっても。秘密は秘密であるから、秘密なのだ。
「ほだか先生にとって、天童さんがどれだけ大事な存在なのか……わたしにもお姉ちゃんがいるから、分かります。わたしも、ほだか先生と同じ状況だったら、きっと同じのことをするはずですから。それを罪深いって、ほだか先生は言いますけどね、そんなことありません。たった一人の兄弟を守るために、失いたくないから、そのために生きることの、なにが悪いんですか。恥じることなんてありません。もしもとやかく言ってくる奴がいたら、わたしがぶん殴ってやります」
「…………結衣くん」
「はい」
「……ごめんなさい」
泣きそうな声で、ほだか先生は言った。そして、ついに認めた。
「結衣くんに薫が見えていた時点で、いつかはこんな日が来るかもしれないと、予感はしていました。それなのに僕は、結衣くんに薫の真実を隠そうとした……バレなければ問題ない、そんな悪魔の囁きに、耳を傾けてしまった。それに、知られたとしても、もしかしたら結衣くんならと……そんなにも自分勝手なことを考えていたくせに……結局、恐くなってしまった。自分以外の誰かが、この事実を知っていることが、怖くて……いつか、薫にも知られてしまうかもしれないと。だから……」
わなわなと肩を震わせる、ほだか先生。今にも、足元から奈落の底へと落ちていってしまいそうで、可哀想だった。抱きしめてあげたい。支えてあげたい。わたしの体は、そこまで出かけていたけれど──前に出たのは。
「ほだか先生、大丈夫。この秘密は、わたしが墓場まで持っていきます」
小指だった。
「結衣くん……」
「だから、指切りげんまん! 天童さんの秘密を守り抜く……そんな約束を、結びましょう」
「……」
「まあでも、仮にその約束を破って針千本飲むのは、わたしなんでしょうけどね」
「……」
「あ、今のはもちろん冗談ですよ? ははは、やっぱり、天童さんみたいな気さくなジョークは難しいですね」
「……」
「安心してください。もう二度、二人の前には姿を見せないことを誓います。口外もしません。これは、そんな約束です」
「結衣くん」
「……はい」
「申し訳、ありませんでした……」
呟いて、頭を下げるほだか先生。ゆっくりと指切を伸ばしてきて、力なくわたしの指と絡めてくる。なんだか、怒られて泣きべそをかいている子供みたいで、不遜にも、可愛いと思ってしまう。そんな状況ではないのにね。でもやはり、うん……わたし、本当に、ほだか先生のことが好きなんだ。大好きだったんだ。
「いえいえ、とんでもない。大体、ほだか先生のもとに押し掛けたのは、わたしの方なんですから」
ほだか先生は墓石を撫ぜながら、静かに語り始めた。
「僕と薫は、実の兄弟ではありません。父と母の再婚を機にそうなった、腹違いの兄弟なんです。父方の息子が薫、母方の息子が僕。ただ僕はまだ当時2歳だったので、その事実を知ったのはもっと後になって。
18歳の時、薫から聞かされました。驚きましたよ……兄と思っていた者から、いきなり実は血の繋がった兄弟ではないと知らされるのですからね。でも、前々からおかしいとは思っていたんですよ。どうして、僕らは兄弟なのに別々に暮らさなければならないのだろうと。
ただでさえ両親を失って心細いというのに、兄とまで切り離さなければならないんだろうって。金銭的な問題とは聞いていましたけど、でもそういった事情でないことは、幼い僕でも薄々と理解していました。
その事情についてまでは、薫は話してくれませんでした。祖父も亡くなっていたので、真実は分からずじまい……とは、思っていたんですけどね。祖父の弟子で、僕の師匠でもある方が、教えてくれたんです。師匠は亡くなった母の友人で、幼なじみとも言ってました。だからいろいろと、聞いていたみたいです。当時、なにがあったのかを。
そこで知ったのですが、母にはもともと結婚歴がなかった。僕を身篭ったとされる二十歳の頃も、お付き合いをしている方はいなかった。では僕は誰の子かという話なんですけど、そのことだけは一切明かさなかったそうです。それは両親にも、当時一緒に暮らしていた祖父に対しても。
僕はそんな素性の分からない子供だったので、両親におろせと迫られた。でも母は頑なに拒み、ついには離縁された。最後に頼ったのが祖父だった、ということでした。その後は僕が生まれて、2歳までは祖父と母の三人で、しみじみと暮らしていたそうです。
師匠がよく様子を見に行っていたみたいですが、それはそれで幸せそうだったと聞いています。僕は、よく覚えてないんですがね。そして、その頃にも母と父は知り合った。
きっかけは友人の結婚式、父の一目惚れだったと聞きました。父が28歳、薫が7歳のときですね。父はなんでも財閥の御曹司だったそうで、当時で既に良い立場についていた。
ただ、昔はかなりの遊び人だったそうで、薫はその時付き合っていた人との間に身篭った子、だそうです。母親は薫を産んですぐ、お金を渡してそれっきりだとか。
それから、父は母に猛アプローチ。ついには婚約の一歩手前までこぎつけたそうです。だけど、そううまくはいかなかった」
ほだか先生はそこまで話したあたりで、一度話を区切った。しゃがみ込み、墓石の脇に添えられた真新しい真っ白な菊の花びらを指で撫ぜた。
「家系の壁、というものです。父の家系は、由緒ある血筋の者たちです。一方で母の家系はごく一般的な……いや、一般でもないかもしれませんね。とにかく、父の一族は血筋の繋がりを気にした。しかも僕という、素性の分からない子供までいる。血筋に傷をつけたくなかったのでしょう」
そこで、わたしはやっとこさ口を挟むことにした。
「そんなの、変ですよ。血筋がどうだとか気にするなんて……」
「おかしいとは思いますか? でも、珍しい話ではないんですよ。特に家系図を遺しているような家系はね」
「でも、天童さんだって、実の母親がいないんですよね? だったら」
「いないから、いいんですよね。母親がいないのであれば、いないままにしておけばいい。どこの誰か分からないわけですから、血筋は汚れません。それに、一番重要である先祖の血自体は薫と繋がっている。なんの問題もありません」
そのときのわたしは、納得のいかない顔をしていたのだろう。ほだか先生は「仕方がないんです」と、話を続けた。
「そのように教わり、そのように育ってしまったのなら、それに従うのが一族というもの。そのしがらみから抜け出すのであれば、覚悟が必要となります。母が僕を産むために、親との縁を経ったように」
「では、まさかほだか先生のお父さんも……そうだったんですか?」
ほだか先生は、ゆっくりと頷いた。
「僕と薫が兄弟となったということは、そういうことです。確かに血の繋がりはありませんでしたが、それ以上の強い繋がり、血筋の壁を乗り越えた父と母の覚悟のもと、僕らは繋がっている。薫はそのことについて語りたがりませんでしたが、全てを分かっていたはず。その上で、薫は全てを投げ捨てて、再び僕のもとに帰ってきてくれた。黙っていれば、そのまま父の一族のもとで何不自由のない生活を送れたというのに。地位も名誉も、得られたはずなのに」
「……天童さん、らしいですね」
わたしがそう言うと、ほだか先生は「ええ」と嬉しそうに微笑んだ。
「自慢の兄です。優しくて、頼もしくて……そんな太陽のような人で、憧れで……目標だったんです。そして、僕に残された唯一の繋がりでもありました。ですが、そんな唯一の繋がりさえも、ある日突然奪われた」
空気が変わる。
「2年前の今日、大雨の日でした。薫は仕事前に一度店に寄ると電話をかけてきました。『大事な話があるから』と、妙に改まって。その時から、なにか嫌な予感がしていました。ですがおとなしく、店で薫が来るのも待つことにしたんです。それなのに、全く来る気配もなくて、連絡もつかなくて……僕が次に薫と会ったのは、何者かに殺され、変わり果てた姿となってからでした」
雷に打たれた気分だった。
「それから僕は、なにも手につかない日々を過ごしていました。ただただ悲しくて、恨めしくて……薫の声、あの笑顔がもう見れないと思うだけで、自然と涙が溢れ出してくるんです。そんな日々が、しばらく続いた頃にも……薫が、何事もなかったようにふらっと店に現れたんです。以前となにも変わらない様子で、まるであの惨劇などなかったみたいに。そのときにも、悟ったのです。薫は……自身の死に気付いていないと」
天童さんが店へ訪れるのはいつも不定期だ。ある雨の日の夕方、前触れもなく現れる──この理由については、ほだか先生の中である程度憶測がついているらしい。曰く、天童さんは死の直前の、本来あるべきだった一日を繰り返し過ごしている、とのこと。
確かに、天童さんは以前こんなことを言っていた。
── 雨が降ると、ふらっと足がここに傾いちゃうんだよね。既視感ってやつ? そう言えば行こうとしてたなぁ、みたいな。
今にして思えば、あの言葉こそがなによりの答えだったのかもしれない。天童さんは、壊れたビデオテープのように2年前の7月6日をリピートしているのだ。ただ、そこで一番気がかりだったのは記憶について。同じ日常を繰り返しているというならば、なぜ天童さんはわたしのことをちゃんと覚えているのか? また、紅麗亜ちゃんのことは覚えていなかった。
その疑問についても、ほだか先生は教えてくれた。
「無意識なのでしょうが、自身の記憶を都合良く取捨選択しているのだと思われます。この前、薫がいるときに時上さんが来たと言っていましたね?
それは、以前にもあったなんです。薫は、彼女に声をかけましたが……多少の寒気がするくらいの反応は見せていましたけど、それだけでした。以来、薫は時上さんについての記憶、名前すら覚えていませんでした。臭いものに蓋をした、とでも言うのでしょうか。精神を安定させるための、無意識な防衛反応なのかもしれません。いずれにしても、薫は死して尚、生きようと懸命にもがいている……僕は、そう思ってしまうんです」
知れば知るほどに、真実とは残酷だ。
「犯人も捕まっておらず、情報もありません。真相は全て、闇の中に葬られた。そのまま、泣き寝入りするしかなかったわけです……そう、普通ならば」
「普通、なら?」
ほだか先生はわたしの方へ振り返り、頷いた。真摯な瞳が、夕陽の陽射しを乱反射させる。
「警察の方から、聞いたんです。薫の遺体、その指には、長い黒髪が数本巻きついていた。これは、薫がその女性と争った形跡だろうと。結局、DNA鑑定でも、どこの誰かまで判別できなかったそうです。なにか、細工をしたのでしょう。完全犯罪。完璧にやり切った、そんなつもりなのでしょうが……」
氷のように、冷たい瞳。
「この眼ならば、その者の髪に遺された薫の残滓を、見抜ける……」
冷え切った瞳の奥には、きっとドス黒い炎が渦巻いている。
「僕の眼は、欺けない」
そこまで聞けば、もう大体のことを察した。ほだか先生が『人に褒められるような人間ではない』と言っていた、言葉の意味を。
ほだか先生は、ずっと探していたんだ。天童さんを殺したという犯人、その犯人に遺された、天童さんの残滓なるものを──
「幻滅しましたよね?」
ほだか先生は立ち上がり、いつもの表情へ戻る。笑っていた。
「そうです。このような仕事をしている根本的な理由は、復讐のため。薫の仇を討つ……僕は、そんな怨嗟にとり憑かれているんですよ。いろいろと、変だとは思っていたでしょう? なぜ苦しんでいた昴くんや時上さんを、そのままにしておいたか。何故、すぐにも助けてあげなかったのだろうと」
「……」
「それは……白か黒か、見定めるためです。誰かが、僕に嘘をついているかもしれない。今もどこかで、薫の死を暴こうとする僕を、見張っているかもしれない。結衣くん、あなたに近付いたのもそのため。僕は鼻から、誰のことも信用していません。むしろ利用できるものなら利用してやろうと、あなたを泳がせていました」
「……」
「ただ、さすがに時上さんのことは驚きました。僕としては、彼女こそが一番怪しいと睨んでいたのですが、どうも違っていたようですね」
「……」
「最低なんですよ、僕は」
自嘲気味な笑み。まるで自分のことを責めてくださいと、そうは言いたげで。実際、責めて欲しかったのだろう。ほだか先生は、そんなにも憎たらしい口振りで、わたしのことを突き放そうとしている。どうか自分のことを嫌いになってくれと、その真っ直ぐな瞳で訴えかけているとさえ思えた。きっと、それこそがほだか先生の導き出した答え。わたしに全てを打ち明けた、理由そのもの。
そしてその覚悟は、先日にも既に固まっていたのだろう。
──結局のところ、人は、人の繋がりでしか、その苦しみを乗り越えることはできない。ボクのやっていることは、単なる慰めに過ぎません。仮にも、その愚かしい慰めを選ぶのであれば……やはり、交わってはいけなかったかもしれません。
先日聞いたその言葉の意味が、すっと頭に流れ込んでくる。もう後戻りはできないって、そういうことだ。そんなこと、もう分かってる。
分かってるけど……それでも、言わせて欲しい──
「分かりません」
「え?」
「なにが最低なのか、わたしには全く理解できません。だってさっき、ほだか先生言ったじゃないですか。その目なら、天童さんの遺した残滓が見えるって。だったら、わたしや三觜さん、それに紅麗亜ちゃんが犯人でないことは既に分かっていたはずです。そうじゃない。ほだか先生は……なんだかんで言っても、結局は救ってあげるつもりだったんだ。ただそのタイミングを、見定めていただけなんでしょう」
ほだか先生は呆然としている。わたしは、毅然として話し続けた。
「それに、わたしを泳がせていたって言いますけど、それこそ嘘ですよ。だってほだか先生、あのときわたしの名前呼んで、止めようとしたじゃないですか。本当は天童さんのことだって、知られたくなかったはずです。じゃなきゃ、隠さないですよ普通。
どうせいつかはバレるわけですし。ほだか先生に誤算があったとすれば、やはりわたしですよね。わたしがいつも勝手な行動ばかりするから、ほだか先生の計画は狂ってばかり。わたしが天童さんの事実を知ってしまったことも、そのうちの一つです」
「……」
「以上、ほだか先生はなにも間違ってません。最低なんかでもありません。誰がなんと言っても、わたしはこの意見、譲る気ないです。それは、例えほだか先生であっても」
「結衣くん、あなたは……」
固まっていたほだか先生が、体をわたしに傾けてくる。
「……あなたは、どうして僕を疑ったり、しないんですか?」
「どうしてもなにも、疑う理由がないからです。わたしは、ほだか先生がこれまでなにをしてきたのか、それを知っています。大体、ほだか先生も言ってたじゃないですか。『僕は目に映るもの、自分で確認できたものしか信じない』って。だったら、わたしだってそうです。わたしは、ほだか先生のやってきたこれまでの全てを……信じます。ほだか先生は、人に褒められる素晴らしいことをしたんですよ。付け焼き刃の言葉なんて絶対信じない」
「結衣くん……」
「だから、無理にわたしから嫌われようとしなくたって、いいんですよ。そんなの、あなたらしくない。そんな悲しい顔、しないでください。美人さんが、台無しです。安心してください。天童さんのことは、絶対に誰にも言いませんから──」
そこで、咄嗟に口が止まってしまう。このままなにも気付かないフリをしておきたい。でもこんな時ですら、やはりわたしは「如月結衣」だった。
バカ正直者な残念さん。この性格のおかげで、これまでたくさん嫌な目にあってきたけれども、そのおかげでほだか先生と巡り合うことができた。その結果、わたしはたくさんの幸せを、もう充分過ぎるくらい味わった。味わい尽くした。だったら、もういいのだ。
わたしは、自身の口から告げることにした。
「辞めます、わたし」
わたしには、分かっていた。自身のことを嫌いになるような発言を繰り返し、自主的に辞めるよう誘導する──そんなほだか先生の企みなど、見抜いているのだから。全ては、天童さんを守るためだ。あの人の秘密は、きっと誰にも知られてはいけない。それは、例えわたしであっても。秘密は秘密であるから、秘密なのだ。
「ほだか先生にとって、天童さんがどれだけ大事な存在なのか……わたしにもお姉ちゃんがいるから、分かります。わたしも、ほだか先生と同じ状況だったら、きっと同じのことをするはずですから。それを罪深いって、ほだか先生は言いますけどね、そんなことありません。たった一人の兄弟を守るために、失いたくないから、そのために生きることの、なにが悪いんですか。恥じることなんてありません。もしもとやかく言ってくる奴がいたら、わたしがぶん殴ってやります」
「…………結衣くん」
「はい」
「……ごめんなさい」
泣きそうな声で、ほだか先生は言った。そして、ついに認めた。
「結衣くんに薫が見えていた時点で、いつかはこんな日が来るかもしれないと、予感はしていました。それなのに僕は、結衣くんに薫の真実を隠そうとした……バレなければ問題ない、そんな悪魔の囁きに、耳を傾けてしまった。それに、知られたとしても、もしかしたら結衣くんならと……そんなにも自分勝手なことを考えていたくせに……結局、恐くなってしまった。自分以外の誰かが、この事実を知っていることが、怖くて……いつか、薫にも知られてしまうかもしれないと。だから……」
わなわなと肩を震わせる、ほだか先生。今にも、足元から奈落の底へと落ちていってしまいそうで、可哀想だった。抱きしめてあげたい。支えてあげたい。わたしの体は、そこまで出かけていたけれど──前に出たのは。
「ほだか先生、大丈夫。この秘密は、わたしが墓場まで持っていきます」
小指だった。
「結衣くん……」
「だから、指切りげんまん! 天童さんの秘密を守り抜く……そんな約束を、結びましょう」
「……」
「まあでも、仮にその約束を破って針千本飲むのは、わたしなんでしょうけどね」
「……」
「あ、今のはもちろん冗談ですよ? ははは、やっぱり、天童さんみたいな気さくなジョークは難しいですね」
「……」
「安心してください。もう二度、二人の前には姿を見せないことを誓います。口外もしません。これは、そんな約束です」
「結衣くん」
「……はい」
「申し訳、ありませんでした……」
呟いて、頭を下げるほだか先生。ゆっくりと指切を伸ばしてきて、力なくわたしの指と絡めてくる。なんだか、怒られて泣きべそをかいている子供みたいで、不遜にも、可愛いと思ってしまう。そんな状況ではないのにね。でもやはり、うん……わたし、本当に、ほだか先生のことが好きなんだ。大好きだったんだ。
「いえいえ、とんでもない。大体、ほだか先生のもとに押し掛けたのは、わたしの方なんですから」
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突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
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