カクリヨ美容室の奇譚

泥水すする

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第四章 誰そ彼とき

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 その後、ほだか先生と手を繋いで、階段の段差に並んで腰を下ろした。ほだか先生は俯いたまま、なにも言わなかった。わたしも、黙っていることにした。手は、ずっと繋いだまま。この手を離したくなかった。時間がこのまま、永遠に止まればいいのになって、そんなわがままを神さまに祈りたくもある。

 いつかのあの日、突然始まったのだ。今いる、この場所から──

「ほだか先生、見てください。綺麗ですよ」

 朧な赤焼けの空が、次第に夜の黒と親和を深めていく。赤と黒が重なり合う、不思議の空が広がっていた。太陽が、落ちてゆく。

「……誰そ彼、時」

 いつの間にか顔を上げたほだか先生が、空を仰ぎながら、消え入るような声で言った。

「夕陽が沈みゆく日没を、そう呼びます……昔の人たちが、薄暗くなり顔が見えなくなったこの時間帯に、『誰そ彼?』と、そう言っていたことに由来しているそうです」
「へえ、知りませんでした。ほだか先生は、物知りですねえ」
「そんなこと、ありませんよ。結衣くんが、いつもそうやって褒めてくれるから、つい余計に話してしまいます」
「ははは、そうでしたか。じゃあ、余計についでに。ほだか先生の名前も、『黄昏』ですよね。これも、夕方って意味なんですか?」
「はい。そういう意味でも、あります。ですが、もう一つだけ、違う意味もあるんですよ」

 わたしの手を握るほだか先生の手に、力が篭った。どきっと、心臓が高鳴る。また、ほだか先生に見つめられる──ドクン、ドクン、ドクン──恋の音が、鳴り出す。そのとき、温いそよ風が舞って、ほだか先生の髪がふわりと踊る。

 ほだか先生は、静かに言った。

「黄昏のもう一つの意味は、盛りが終わる頃。今この瞬間、僕と結衣くんの関係、みたいなことです。なんの因果でしょうか、薫が亡くなる前日も、ここで二人、並んで夕陽を眺めていたんです。薫は、この場所を気に入っていましたから」

 ああ、そうか……。

「──始まりと終わりの場所……ここは、そういった土地なのかもしれませんね」
 もう、終わっちゃうんだ。

「結衣くん、あなたと過ごしたこの一ヶ月は……僕にとって、かけがえのないもので、」
「……」
「……」
「……ほだか先生?」
「結衣くん。僕は、やはり……」
「……?」

 それから数秒ほど待ってみるが、ほだか先生はじっとわたしを見つめたまま、なにも言わない数秒が流れた。なにか言いづらいことを話そうとしているのだろうか──

「……いえ、なんでもありません。そろそろ帰りましょうか、結衣くん」

 結局、ほだか先生はなにも言わなかった。後腐れなく終わりたかったのか、どうなのか。ほだか先生の気持ちは、わたしには分からない。

 それでもいい──店までの帰り道、手を繋いでいる。ほだか先生の温もりを感じられるだけで、わたしは充分幸せだ。

 店に置いた荷物はまた明日取りに行くということになり、ほだか先生は駅前まで見送りに来てくれた。

「ではほだか先生、また明日」
「ええ、また明日」

 ほだか先生が、笑って手を振ってくる。わたしも、笑って手を振り返す。そのうちモノレールがやってきて、扉が開かれる──扉が閉まる。その明日が最後であることはおくびにも出さず、わたしたちはそのまま別れた。

 そして、ほだか先生の姿が完全に見えなくなったあたりで。わたしは車内に誰もいないことを確認、その場にうずくまる。嗚咽を漏らし、泣いた。

 いつかは、終わると思っていた。この片思いは、きっと実らない。そんなことも分かっていた。でも、そのいつかが、今日でなくてもいい。それが明日になって、明後日になって、明々後日になって、それがわたしの日常となった。そんなわたしのキラキラとした日常が、突然始まり、突然終わった。その嬉しさから悲しさへの反動で、涙が永遠に止まらなかった。

 でも、仕方がない。これも全て天童さんのため、ほだか先生のためだ。この秘密はなにがあったとしても、決して暴かれてはならない。辞めたあとは、二度とカクリヨ美容室へ立ち寄ってはならない。懸念は全て、排除しなければならないのだ。

 だから明日が、本当の最後。噛み締めて過ごそう、最後の一日を──死ぬまで一生、この一ヶ月間に起きた不思議な出来事を忘れないように。大事に、大切に……。

 そして、悲しみに暮れた夜が明ける。
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