カクリヨ美容室の奇譚

泥水すする

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第四章 誰そ彼とき

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 憂鬱な朝だった。閉ざされたカーテンから、眩い光が差し込んでいる。どうやら良い天気のようだ。出勤するつむぎを見送って、わたしも学校へ行く準備を始める。そのときだった。ふと、テレビ向こうにいるお天気キャスターの甲高い声が、耳に入ってきた。

 ──みなさんこんにちわ、7月7日月曜日『七夕』、神奈川の天気予報をお伝え致します。午前中から日中にかけて、梅雨明けに相応しい素晴らしい天気模様のとなることでしょう。ただ西から前線が近付き、地域によって午後から天気は下り坂となるかもしれません。突然雨が降り出すこともありますので、傘を忘れずに。

 途端、全身に嫌な予感がなだれ込んでくる。首筋を伝う汗の粒を手で拭いながら、リビングのガラス戸向こうへと目線を移した──快晴。まさかね。

 その日、空は揺るぎない快晴模様だった。それこそ午前中は、雲一つない青空が広がっていた。そんなにも晴天の空を見れば、雨が降るわけはないと誰だって思う。なにより天気予報とは、これが実に曖昧なものだ。あたらない。おまじない程度。カバンに忍ばせた折り畳み傘は開かれることもない。その存在すらも忘れてしまう。だったら今日も、そんな一日となることだろう。

 それに今夜は七夕、不遇な運命によって引き裂かれた織姫さまと彦星さまが、年に一度だけの再会を許された神秘なる夜。天の川を越えて、二人は一夜の愛を深め合うのだ。だったらいいじゃない。今夜くらい。運命的な二人の再会を祝福したって、いいじゃないか──

「結衣にゃん、遅かったね。濡れてないか心配したよ」

 わたしの嫌な予感は、やはり的中した。

 学校帰り、モノレールに乗り込んだ直後だった。滝のような雨が、唐突に大地を濡らし始めた。そして、天童さんが店に姿を現した。

「夕立ってやつかな? 仕事行く前にやめばいいんだけど」

 いつものように、シャンプー台に背もたれ呑気そうにしている天童さん。普段ならば、今日という一日を穏やかに過ごしていたことだろう。だけど今日に限ってその余裕はなかった。平然と振る舞ってみせるが、自分で自分の表情が青ざめていくのが分かる。

「ほだか、いつものやつ? 顔、真っ青だけど」
「え? ええ……大丈夫ですよ」

 苦笑いを浮かべるほだか先生の一方で、天童さんは相変わらずだった。当然だ。彼は、なにも変わらない。これまでも、この先ずっと、ほだか先生と天童さんのこの関係は変わることなく続いていく。人からすれば、悲しい関係なのかもしれない。でもほだか先生は、それでも天童さんと過ごす日常を選択したのだ。だとすれば、わたしにできることはそんな二人を見守ることだけ。織姫さまと彦星さまを見守るように、彼らの幸せを願うだけなのである。

 わたしは決意を固めて、天童さんに本日を持ってこの場所を去る旨を伝えた。理由はなんだってよかったが、それっぽく前のバイト先に復帰すると言ってみる。人手が足りてないとか、あれこれ理由も付け加えておいた。

「……えっと、結衣にゃん。それマジ?」

 天童さんの顔色が変わった。信じられないと、その顔と声で語ってくる。その気持ちが嬉しい反面、遣る瀬無い気持ちを抱かされる。あれこれ嘘の弁明をする自分ってのが、堪らなく嫌だった。でも最後には納得してくれて、わたしはほっとしていた。ほだか先生は終始、俯き黙ったままだった。

「そっか、気持ちは固いんだね。でも、うん……結衣にゃんにも、いろいろと事情がある。そうだよね」
「はい……その、突然で申し訳ありません」
「結衣にゃんが謝ることじゃないよ。誰だって、人には言えない事情の一つや二つくらいはある。ね、ほだか?」

 目を細めた天童さんは、ぽりぽりと頭を掻きながら、俯き続けるほだか先生を見た。

「もういいんじゃない? 俺らが実は、兄弟だってことを隠さなくても。俺は、もう嘘なんかつきたくないよ」

 ゆっくりと顔を上げたほだか先生は、

「……」

 やはり、なにも答えなかった。顔面蒼白の、幽霊のような表情を浮かべて固まっている。天童さんは肩を竦めて、静かに語り始めた──それは二人の関係から、生い立ち、どういった経緯で今に至っているかまで。それら既知の事実を、余すことなく話してくれた。

「驚いたと思うけど、俺たちはそんな感じ。あんまり人に言えた過去じゃないから、兄弟だってことは話さないようにしてるんだけど」
「そうだったん、ですね」

 まるではじめて聞かされたかのように、嘘くさく驚くわたし。そして、やっと理解した。罪深い──この言葉が、どれだけの辛さを帯びていたのだろうかを。またこの先、何年何十年、この辛さを抱き続けなければならない、その苦しみを。

「ま、そういうだからさ。結衣にゃん、キミもたまには遊びに来てよ。髪を切りに来てくれてもいいしさ」

 そんな未来は、二度と訪れないけれど──

「はい、もちろん! わたし天童さんの練習台になりますから、そのときがきたらいつでも呼んでください」

 そう言ってやることが精一杯。わたしは、そそくさと逃げるように二階へと上がり、荷物をまとめた。ほだか先生のために自宅から持ってきた食器類や、お弁当箱を、カバンの中へ乱暴に詰めていく。泣きそうだった。でも、わたしなんかよりも、何倍も辛いだろうほだか先生の気持ちを考えれば、泣くことなんか許されない。

わたしにできることなんて、鼻から決まっている。無垢なJKを演じていればいい。このまま階段を降りて、何事もなかったみたく店を出る。なにも、難しいことなんてない。

「ねえ、ほだか。結衣にゃんのこと、やっぱり引き止めたら?」

 階段を降りている最中、天童さんがほだか先生へ言っているのだろう声が聞こえてくる。足が、自然と止まってしまう。

「ほだかと俺と結衣にゃん……三人で働くの、きっと楽しいと思うよ」

 足が、動かない。耳を塞ぎたかった。

「やっと繋がりができたじゃないか……ほだか。こんなこと、もうないかもしれないよ?」

 その瞬間、もう我慢の限界だった。わたしは階段に蹲り、声を押し殺して泣いていた。

 訪れるはずもない、ほだか先生と天童さん、そしてわたしの働くIFの未来──天童さんがふざけたことをして、それを眺めてほだか先生が微笑んでいて、そしてわたしが天童さんを叱る──そんな訪れるかもしれなかった未来を思い浮かべれば、涙が溢れ出して止まらなかった。

 ──人は亡くなった時点で既にこの世のものではありませんから。故人がいくら生者を偲ぼうが、生者が故人をどう思おうが、交わることはもう二度とない。

 いつかのほだか先生の言葉が、走馬灯のように脳裏を駆け過ぎる。

 ──故人と生者の誤解を紐解き、わだかまりを断ち切ってあげるのが僕のお仕事です。もちろん、全てではありませんが。僕の手が届く範囲……それこそ美容師である自分にできることを、僕はただ実行するまでです。

 絶対におかしい、こんなの。報われない人たちを救い続けているほだか先生が、報われないなんて、そんなの悲し過ぎる──

「薫」

 そこでようやく、ほだか先生は口を開いたようだった。その顔を見ていなくても、今どんな表情をしているのか、よく分かった。

 分からないのは、その後のこと、全てであった。

「薫……あなたは、もう既に亡くなっています」
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