30 / 33
第四章 誰そ彼とき
6
しおりを挟む
憂鬱な朝だった。閉ざされたカーテンから、眩い光が差し込んでいる。どうやら良い天気のようだ。出勤するつむぎを見送って、わたしも学校へ行く準備を始める。そのときだった。ふと、テレビ向こうにいるお天気キャスターの甲高い声が、耳に入ってきた。
──みなさんこんにちわ、7月7日月曜日『七夕』、神奈川の天気予報をお伝え致します。午前中から日中にかけて、梅雨明けに相応しい素晴らしい天気模様のとなることでしょう。ただ西から前線が近付き、地域によって午後から天気は下り坂となるかもしれません。突然雨が降り出すこともありますので、傘を忘れずに。
途端、全身に嫌な予感がなだれ込んでくる。首筋を伝う汗の粒を手で拭いながら、リビングのガラス戸向こうへと目線を移した──快晴。まさかね。
その日、空は揺るぎない快晴模様だった。それこそ午前中は、雲一つない青空が広がっていた。そんなにも晴天の空を見れば、雨が降るわけはないと誰だって思う。なにより天気予報とは、これが実に曖昧なものだ。あたらない。おまじない程度。カバンに忍ばせた折り畳み傘は開かれることもない。その存在すらも忘れてしまう。だったら今日も、そんな一日となることだろう。
それに今夜は七夕、不遇な運命によって引き裂かれた織姫さまと彦星さまが、年に一度だけの再会を許された神秘なる夜。天の川を越えて、二人は一夜の愛を深め合うのだ。だったらいいじゃない。今夜くらい。運命的な二人の再会を祝福したって、いいじゃないか──
「結衣にゃん、遅かったね。濡れてないか心配したよ」
わたしの嫌な予感は、やはり的中した。
学校帰り、モノレールに乗り込んだ直後だった。滝のような雨が、唐突に大地を濡らし始めた。そして、天童さんが店に姿を現した。
「夕立ってやつかな? 仕事行く前にやめばいいんだけど」
いつものように、シャンプー台に背もたれ呑気そうにしている天童さん。普段ならば、今日という一日を穏やかに過ごしていたことだろう。だけど今日に限ってその余裕はなかった。平然と振る舞ってみせるが、自分で自分の表情が青ざめていくのが分かる。
「ほだか、いつものやつ? 顔、真っ青だけど」
「え? ええ……大丈夫ですよ」
苦笑いを浮かべるほだか先生の一方で、天童さんは相変わらずだった。当然だ。彼は、なにも変わらない。これまでも、この先ずっと、ほだか先生と天童さんのこの関係は変わることなく続いていく。人からすれば、悲しい関係なのかもしれない。でもほだか先生は、それでも天童さんと過ごす日常を選択したのだ。だとすれば、わたしにできることはそんな二人を見守ることだけ。織姫さまと彦星さまを見守るように、彼らの幸せを願うだけなのである。
わたしは決意を固めて、天童さんに本日を持ってこの場所を去る旨を伝えた。理由はなんだってよかったが、それっぽく前のバイト先に復帰すると言ってみる。人手が足りてないとか、あれこれ理由も付け加えておいた。
「……えっと、結衣にゃん。それマジ?」
天童さんの顔色が変わった。信じられないと、その顔と声で語ってくる。その気持ちが嬉しい反面、遣る瀬無い気持ちを抱かされる。あれこれ嘘の弁明をする自分ってのが、堪らなく嫌だった。でも最後には納得してくれて、わたしはほっとしていた。ほだか先生は終始、俯き黙ったままだった。
「そっか、気持ちは固いんだね。でも、うん……結衣にゃんにも、いろいろと事情がある。そうだよね」
「はい……その、突然で申し訳ありません」
「結衣にゃんが謝ることじゃないよ。誰だって、人には言えない事情の一つや二つくらいはある。ね、ほだか?」
目を細めた天童さんは、ぽりぽりと頭を掻きながら、俯き続けるほだか先生を見た。
「もういいんじゃない? 俺らが実は、兄弟だってことを隠さなくても。俺は、もう嘘なんかつきたくないよ」
ゆっくりと顔を上げたほだか先生は、
「……」
やはり、なにも答えなかった。顔面蒼白の、幽霊のような表情を浮かべて固まっている。天童さんは肩を竦めて、静かに語り始めた──それは二人の関係から、生い立ち、どういった経緯で今に至っているかまで。それら既知の事実を、余すことなく話してくれた。
「驚いたと思うけど、俺たちはそんな感じ。あんまり人に言えた過去じゃないから、兄弟だってことは話さないようにしてるんだけど」
「そうだったん、ですね」
まるではじめて聞かされたかのように、嘘くさく驚くわたし。そして、やっと理解した。罪深い──この言葉が、どれだけの辛さを帯びていたのだろうかを。またこの先、何年何十年、この辛さを抱き続けなければならない、その苦しみを。
「ま、そういうだからさ。結衣にゃん、キミもたまには遊びに来てよ。髪を切りに来てくれてもいいしさ」
そんな未来は、二度と訪れないけれど──
「はい、もちろん! わたし天童さんの練習台になりますから、そのときがきたらいつでも呼んでください」
そう言ってやることが精一杯。わたしは、そそくさと逃げるように二階へと上がり、荷物をまとめた。ほだか先生のために自宅から持ってきた食器類や、お弁当箱を、カバンの中へ乱暴に詰めていく。泣きそうだった。でも、わたしなんかよりも、何倍も辛いだろうほだか先生の気持ちを考えれば、泣くことなんか許されない。
わたしにできることなんて、鼻から決まっている。無垢なJKを演じていればいい。このまま階段を降りて、何事もなかったみたく店を出る。なにも、難しいことなんてない。
「ねえ、ほだか。結衣にゃんのこと、やっぱり引き止めたら?」
階段を降りている最中、天童さんがほだか先生へ言っているのだろう声が聞こえてくる。足が、自然と止まってしまう。
「ほだかと俺と結衣にゃん……三人で働くの、きっと楽しいと思うよ」
足が、動かない。耳を塞ぎたかった。
「やっと繋がりができたじゃないか……ほだか。こんなこと、もうないかもしれないよ?」
その瞬間、もう我慢の限界だった。わたしは階段に蹲り、声を押し殺して泣いていた。
訪れるはずもない、ほだか先生と天童さん、そしてわたしの働くIFの未来──天童さんがふざけたことをして、それを眺めてほだか先生が微笑んでいて、そしてわたしが天童さんを叱る──そんな訪れるかもしれなかった未来を思い浮かべれば、涙が溢れ出して止まらなかった。
──人は亡くなった時点で既にこの世のものではありませんから。故人がいくら生者を偲ぼうが、生者が故人をどう思おうが、交わることはもう二度とない。
いつかのほだか先生の言葉が、走馬灯のように脳裏を駆け過ぎる。
──故人と生者の誤解を紐解き、わだかまりを断ち切ってあげるのが僕のお仕事です。もちろん、全てではありませんが。僕の手が届く範囲……それこそ美容師である自分にできることを、僕はただ実行するまでです。
絶対におかしい、こんなの。報われない人たちを救い続けているほだか先生が、報われないなんて、そんなの悲し過ぎる──
「薫」
そこでようやく、ほだか先生は口を開いたようだった。その顔を見ていなくても、今どんな表情をしているのか、よく分かった。
分からないのは、その後のこと、全てであった。
「薫……あなたは、もう既に亡くなっています」
──みなさんこんにちわ、7月7日月曜日『七夕』、神奈川の天気予報をお伝え致します。午前中から日中にかけて、梅雨明けに相応しい素晴らしい天気模様のとなることでしょう。ただ西から前線が近付き、地域によって午後から天気は下り坂となるかもしれません。突然雨が降り出すこともありますので、傘を忘れずに。
途端、全身に嫌な予感がなだれ込んでくる。首筋を伝う汗の粒を手で拭いながら、リビングのガラス戸向こうへと目線を移した──快晴。まさかね。
その日、空は揺るぎない快晴模様だった。それこそ午前中は、雲一つない青空が広がっていた。そんなにも晴天の空を見れば、雨が降るわけはないと誰だって思う。なにより天気予報とは、これが実に曖昧なものだ。あたらない。おまじない程度。カバンに忍ばせた折り畳み傘は開かれることもない。その存在すらも忘れてしまう。だったら今日も、そんな一日となることだろう。
それに今夜は七夕、不遇な運命によって引き裂かれた織姫さまと彦星さまが、年に一度だけの再会を許された神秘なる夜。天の川を越えて、二人は一夜の愛を深め合うのだ。だったらいいじゃない。今夜くらい。運命的な二人の再会を祝福したって、いいじゃないか──
「結衣にゃん、遅かったね。濡れてないか心配したよ」
わたしの嫌な予感は、やはり的中した。
学校帰り、モノレールに乗り込んだ直後だった。滝のような雨が、唐突に大地を濡らし始めた。そして、天童さんが店に姿を現した。
「夕立ってやつかな? 仕事行く前にやめばいいんだけど」
いつものように、シャンプー台に背もたれ呑気そうにしている天童さん。普段ならば、今日という一日を穏やかに過ごしていたことだろう。だけど今日に限ってその余裕はなかった。平然と振る舞ってみせるが、自分で自分の表情が青ざめていくのが分かる。
「ほだか、いつものやつ? 顔、真っ青だけど」
「え? ええ……大丈夫ですよ」
苦笑いを浮かべるほだか先生の一方で、天童さんは相変わらずだった。当然だ。彼は、なにも変わらない。これまでも、この先ずっと、ほだか先生と天童さんのこの関係は変わることなく続いていく。人からすれば、悲しい関係なのかもしれない。でもほだか先生は、それでも天童さんと過ごす日常を選択したのだ。だとすれば、わたしにできることはそんな二人を見守ることだけ。織姫さまと彦星さまを見守るように、彼らの幸せを願うだけなのである。
わたしは決意を固めて、天童さんに本日を持ってこの場所を去る旨を伝えた。理由はなんだってよかったが、それっぽく前のバイト先に復帰すると言ってみる。人手が足りてないとか、あれこれ理由も付け加えておいた。
「……えっと、結衣にゃん。それマジ?」
天童さんの顔色が変わった。信じられないと、その顔と声で語ってくる。その気持ちが嬉しい反面、遣る瀬無い気持ちを抱かされる。あれこれ嘘の弁明をする自分ってのが、堪らなく嫌だった。でも最後には納得してくれて、わたしはほっとしていた。ほだか先生は終始、俯き黙ったままだった。
「そっか、気持ちは固いんだね。でも、うん……結衣にゃんにも、いろいろと事情がある。そうだよね」
「はい……その、突然で申し訳ありません」
「結衣にゃんが謝ることじゃないよ。誰だって、人には言えない事情の一つや二つくらいはある。ね、ほだか?」
目を細めた天童さんは、ぽりぽりと頭を掻きながら、俯き続けるほだか先生を見た。
「もういいんじゃない? 俺らが実は、兄弟だってことを隠さなくても。俺は、もう嘘なんかつきたくないよ」
ゆっくりと顔を上げたほだか先生は、
「……」
やはり、なにも答えなかった。顔面蒼白の、幽霊のような表情を浮かべて固まっている。天童さんは肩を竦めて、静かに語り始めた──それは二人の関係から、生い立ち、どういった経緯で今に至っているかまで。それら既知の事実を、余すことなく話してくれた。
「驚いたと思うけど、俺たちはそんな感じ。あんまり人に言えた過去じゃないから、兄弟だってことは話さないようにしてるんだけど」
「そうだったん、ですね」
まるではじめて聞かされたかのように、嘘くさく驚くわたし。そして、やっと理解した。罪深い──この言葉が、どれだけの辛さを帯びていたのだろうかを。またこの先、何年何十年、この辛さを抱き続けなければならない、その苦しみを。
「ま、そういうだからさ。結衣にゃん、キミもたまには遊びに来てよ。髪を切りに来てくれてもいいしさ」
そんな未来は、二度と訪れないけれど──
「はい、もちろん! わたし天童さんの練習台になりますから、そのときがきたらいつでも呼んでください」
そう言ってやることが精一杯。わたしは、そそくさと逃げるように二階へと上がり、荷物をまとめた。ほだか先生のために自宅から持ってきた食器類や、お弁当箱を、カバンの中へ乱暴に詰めていく。泣きそうだった。でも、わたしなんかよりも、何倍も辛いだろうほだか先生の気持ちを考えれば、泣くことなんか許されない。
わたしにできることなんて、鼻から決まっている。無垢なJKを演じていればいい。このまま階段を降りて、何事もなかったみたく店を出る。なにも、難しいことなんてない。
「ねえ、ほだか。結衣にゃんのこと、やっぱり引き止めたら?」
階段を降りている最中、天童さんがほだか先生へ言っているのだろう声が聞こえてくる。足が、自然と止まってしまう。
「ほだかと俺と結衣にゃん……三人で働くの、きっと楽しいと思うよ」
足が、動かない。耳を塞ぎたかった。
「やっと繋がりができたじゃないか……ほだか。こんなこと、もうないかもしれないよ?」
その瞬間、もう我慢の限界だった。わたしは階段に蹲り、声を押し殺して泣いていた。
訪れるはずもない、ほだか先生と天童さん、そしてわたしの働くIFの未来──天童さんがふざけたことをして、それを眺めてほだか先生が微笑んでいて、そしてわたしが天童さんを叱る──そんな訪れるかもしれなかった未来を思い浮かべれば、涙が溢れ出して止まらなかった。
──人は亡くなった時点で既にこの世のものではありませんから。故人がいくら生者を偲ぼうが、生者が故人をどう思おうが、交わることはもう二度とない。
いつかのほだか先生の言葉が、走馬灯のように脳裏を駆け過ぎる。
──故人と生者の誤解を紐解き、わだかまりを断ち切ってあげるのが僕のお仕事です。もちろん、全てではありませんが。僕の手が届く範囲……それこそ美容師である自分にできることを、僕はただ実行するまでです。
絶対におかしい、こんなの。報われない人たちを救い続けているほだか先生が、報われないなんて、そんなの悲し過ぎる──
「薫」
そこでようやく、ほだか先生は口を開いたようだった。その顔を見ていなくても、今どんな表情をしているのか、よく分かった。
分からないのは、その後のこと、全てであった。
「薫……あなたは、もう既に亡くなっています」
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる