カミのアダゴト

葦元狐雪

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第十五幕

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 大狼の毛はふかふかで羊毛筆のように柔らかく、それでいてしなやかな性質をそなえていた。黄金の毛の一本一本が美しい。根元から毛先までの濃淡のうつろいが明分に見て取れる。片頬を毛並みに這わせてみると、天日干しした、しかも取りこんだばかりの布団に頬を埋める際の、言おうようない心地よさの追憶に触れることができる。あたたかい。幸せな気分だ。上下の瞼がくっつきそうになる。慈愛の抱擁に似たそれは、永遠に続くことをトキに願わせた。

 まどろんだまなこに映る景色は、車窓の外を刹那的に過ぎゆく自然の青さの追想だった。
 夏の田舎道を気随にはしる車内の後部座席。幼い彼は窓を開けて、窓辺に指をそろえて顔をちょっとだけ出した。蒸すような熱気が顔をおおい、車内に入り込んだ熱気がクーラーの冷気と揉み合って生ぬるくなったのを背に感じられた。助手席の女性が彼をたしなめるが、今彼は目の前に漫々として横たわる青田の、陽光を受けて輝く水稲のゆらめきに陶酔しているので、生返事すらしなかった。

 思えば、これが運送業にたずさわるきっかけだったかもしれない。いろいろな景色の見れる仕事がしたい。様々な場所を訪れたい——。鬱勃たる希望が去来する八歳のトキ少年には、二十年後の自分が窓越しの風景に不感動になることや、摩訶不思議な体験をすることになるは想像の範囲外であった。

 かかり少年時代の夢の一幕だった。いくばくもなくして夢から覚めると、メロウのような年輪を閉じた、格天井の升目を明快な意識が認めた。パイプ枕がある。敷布団がある。掛け布団と毛布がある。

 トキは軽々と上体を起こし、あちこちを見回してみると、ここが十畳ほどの和室であることがわかった。前後はうぐいす色の壁であり、左右は障子の白い和紙の向こうが暗かった。さだめし夜であろう。どうりで部屋がほの暗い。

 灯りは部屋の四隅に、竹灯籠が夕陽のごとき按配を薄闇に溶かしているのみである。ちゃんと中に火が点けられているらしかった。電灯の類は見当たらない。ザハク殿の邸宅もあんな風にすればいいのに、とトキは思った。

 ふと、プスプスと可愛らしくも奇特な音が聞こえる。何かがいる。
 ——どこにいる?
 トキは耳を澄ませた。ややあって、股間に猛烈な熱を帯びていることに気づいた。

 掛け布団をそっと捲った。すると、狐色の毛をした仔犬が股座に挟まっていた。幸せそうに目を閉じている。ときたまサンドイッチ状の小さい耳が機敏に動く。
 ——こいつめ。
 黒い鼻を優しくつついてやると、それは「プスッ」と短い音を出した。プスプスという音の正体は、仔犬の寝息だったのだ。あまりの愛らしさに、自然と頬が緩んだ。

「おまえ、あの狼に似ているね」

 トキはしばし仔犬の背中や頭を撫でるに夢中になった。ゆえに、障子に映る人影がゆくりなく彼に話しかけてきたとき、彼が非常に驚いて悲鳴を上げてしまったのは理である。その際、仔犬の両頬をぎゅっと強めに押してしまったので、仔犬は「プグッ」と苦しそうに呻いた。

「もし、大神の御仁」
 と影が尋ねた。

 岩を湿らす青時雨の雨滴もかくやという、情趣のある奥ゆかしげな女性の声音だった。か黒い影は人が端然と正座をしている姿を白い和紙に描いた。

 トキは首を傾げた。『狼の御仁』とは何ぞ。けだしトキを指しているには違いないが、しかし彼は彼がその通り名的呼称に適っているとは到底思い難く、一寸返答に迷うた。迷うてから、今更ながらここはどこなのか、大狼はどこへ失せたのか、障子越しに問いかけてくる人物は誰なのか、ザハク殿と双子はどうしているのか、果たして向後の成り行きは如何になど、諸種の憂い事が波涛のように押し寄せた。それらはとこしえの泡沫となって、トキの心にわだかまった。

 とまれこうまれ、某の女性の声に答えてやらねばならぬ。 
 彼はすっかり起きてしまった仔犬を胸に抱き、布団から出て、立ち上がってから返事をした。

「はい。なんでしょう」

「ああ、よかった、お目覚めでしたか。お加減はいかがですか」

「おかげさまで、良い気分です。あの、僕はどうしてここに?」

「覚えていらっしゃらないのですね......。わかりました。簡単にではございますが、経緯をお伝えしましょう」

 言うと、影は簡潔に経緯を話した。
 それを詳らかにしたのが下である。

 あるとき、実体を持たぬ影の民の成す常夜の小国に、やにわに背にひとりの男を背負う一匹の大狼が現れた。門戸を乱離に打ち壊し、夜の此処彼処に浮かぶ灯火の橙に千々たる木っ端の陰影が差し込み、その金色が闇に隠見されたそうな。影の民はおしなべておののいた。干戈に長けておらず、ましてやいさかいを一等嫌う気風があるため、ただ竦然と咽喉を天鼓のごとく唸らす大狼の威に伏すばかりであった。
 
 大狼は冷然と言った。

「我々に害意はない。この男に寝屋を施してやってくれ。頼んだぞ」

 貞潔な姫君を思わせる貴し声音。あまりの傍若無人っぷりに、影たちは開いた口が塞がらなかった(尤も、影たちに口はないのだが)。

 大狼は身を屈めると、たちまちその巨躯から一変して、こぢんまりとした子狼の姿になり、よちよちと土道に腹這う男の背中によじ登り丸くなるや、大きく欠伸をかいて眠りについた——

 トキは両腕に抱き留めた、仔犬と思っていた小狼の頭に目を落とした。

「おまえ、喋れたの?」

 問うたが、しかし子狼は「クゥン......」と切なげに鳴いただけである。そのうち短い尻尾をチョロチョロ、イヌ科特有の「ハッハ」という荒い息遣いを始めた。

 喋る積もりはないらしい。あるいは、今はその手段を有しておらぬゆえに、回答を一連の仕草に事寄せたのではあるまいか。鳴き声の意味するところは『黙っていてごめんなさい』、尻尾の動きは『まあいいじゃないか』、息遣いは『なんとかなるさ』と云うように......。

 トキは障子に映る影に顔をやった。

「お聞きしたい事がいくつかあるのです。障子を開けて、僕のそばまで来てくださいませんか」

 影は頭をわずかに下げる諾う所作を見せた。が、障子は一寸も開く気配がなかった。影の形もなかった。
 どうしたのだろう。トキはどこぞに消えた影に勧めた。

「どうぞ、お入りください」

「いいえ、もう入っていますよ」

 背後から声がした。トキは振り返った。
 左隅の竹灯篭の暖かな光が、周囲のうぐいす色の壁と表畳に暈を描いており、その輪の内に体を置いて影は佇んでいた。幽鬼に近しい存在を感じる。然れども、かくのごときに準ずる、云い知れぬ畏怖がないのが不思議である。

 まるでホログラムだ。実体はない。しかしたしかな不分明の中に、おぼろげな生命を感じてならない。彼女は話せる。声に人の熱がある。人柄が良さそうで、気品にも溢れている。獣の突然の来襲と理不尽な命令を咎める事なく、あまつさえ招かれざる客を丁重に扱う。なんと素晴らしい人だ!

 ——人?

 果たして彼女は何だ。トキは黙したまま、漫ろに影の縁を目でなぞった。

「いかがなさいました?」

 影は訊ねた。彼女の首を斜めに傾ぐ動きに、トキの双眸は奇しきも艶然と微笑むアマユリの面輪を見出した。
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