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第十九幕
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脱出にはザハク殿の力が必要だった。ザハク殿の力で来たのだから、自然、帰りは彼女の力が必要だという至極当然の理由だった。
通常、神の力を人間が思うままに操るとなれば、云千万年もしくは云億年をかけて絶え間ない修行を積まねばならない。しかし人間の命数は極めて短い。ただでさえトキは体を酷使して寿命を削っているので、もってあと四十年がリミットであった。
とても時間が足りない。下界ではいつ諍いの火種が生まれてもおかしくはないのだ。トキはこのとき、己が人間であることを恨んだ。
他に方策がないわけではなかった。が、それは彼自身に多大な負担を強いる苦肉の策であった。一ヶ月の間、ある修練に耐え抜くことができた場合、最上神の膂力をそこそこ発揮できるという。
......修練の内容如何を問わず、トキは快諾した。
「どんな苦行でも構いません。僕にできることなら、なんでもおっしゃってください」
「本当に良いのだな? 後戻りはできぬぞ」
ザハク殿は凄むように言った。
トキは力強く肯いた。
「はい」
「よし、こっちに来い」
ザハク殿はトキの手を引き、波打ち際と出入り口の襖とのちょうど真ん中まで来ると、指をさして、「そこに寝るのじゃ」と命じた。
トキは言われた通り、仰向けに寝そべった。砂粒のあたたかい潜熱が背中に伝わる。亭々たる真夏の太陽が青空にさやかだ。心残りのありそうな細い雲が左へ流れていった。
「これでいいでしょうか」
「うむ」
ザハク殿はトキの隣に同様に寝そべると、もぞもぞと彼の体の側面にくっつくように蠢いた。
「わしも寝る」
トキはザハク殿に顔だけを向けて問うた。
「一ヶ月?」
「うむ、一ヶ月」
ザハク殿は答えた。
$
ザハク殿とトキが一ヶ月の同衾生活をしている間、閻魔大王様、カラクラ、ヴォルトラ、アイネ、金髪の男が常夜の国に訪れた。
開始から三日後のことだった。上級神たちは互いの再会を喜んだ。ことにミーネは滂沱の涙を流して欣喜したものだ。
シャルメラは一人ずつに慇懃に挨拶をして回った。しわしわの手で握手を求め、しわしわの笑顔で奇縁にたいしての祝辞を述べた。なお、金髪の男だけには若々しい姿だったので、彼はその雲鬢花顔に大興奮だった。
カラクラはビーチパラソルの下に添寝するザハク殿とトキを見て、「何なんだあれは」と思った。
「修練らしいよお」
チカが忖度して言った。
カラクラは眉をひそめる。
「修練? あれが?」
「そうだよお。一ヶ月あそこから動いちゃダメなんだってえ」
「大変そうね。いろんな意味で」
「そうだよお。だからそっとしておこうねえ」
手をつないで汗だくの二人は何やら楽しそうに話している。三日目だからまだ余裕があるのだろうか。
「あとで悪戯をしてやろう」
不敵な笑みを浮かべて眺めていると、色あせてボロボロになった大学ノートを凝視する閻魔大王様がぶつぶつと独り言を言いながら歩いてきた。
「どうしました?」
「ああ、カラクラちゃん。やはりダメだ」
彼女は大学ノートをバシバシと叩いた。
「これは読めない」
カラクラはノートを受け取ると、中を閲した。文字がところどころ擦れたり消えたりして、てんから文章の体を成していなかった。
はっきりと読めたのが、<......を送る。彼らならきっと、平和で、美しい世界を成し得てくれるだろう。どうか、その安寧が終わらぬことを切に願う>の部分のみであった。これ以降、更新はない。ノートの空白の頁は残り五枚だった。
「たしかに。最後の行だけは読めますが、あとは全然ですね。おそらく神と人と獣を他所の星に送る、といった旨なのでしょう。しかし、どうやって送ったのでしょうか」
「私にもわからない。シャルメラ氏に訊いてみたのだが、彼女さえ仕方を知らなかった。ただ、漠然と、あの山脈の施設が使われたのであろうという憶測でしかない」
「困りましたね」
カラクラは唸った。
「困ったねえ」
閻魔大王様も唸った。
ちょうどそのとき、カラクラの左肩にポンと手が置かれた。
「だから、創神の力が要るのさ」
ヴォルトラだった。彼女はザハク殿の創神の力でノートを復元するのだと言う。
「でも、『覗き穴』を創った方が早くないかしら?」
「あれは結構難しいんだってよ。ザハク殿でさえ、『覗き穴』を完璧に創造できるようになったのは、二千年くらい前だからな。一ヶ月やそこらで習得できる力なんて、ノートの復元が関の山だ」
かくして、神々と人間と魔王は一ヶ月の時を共に過ごした。
懸念されていた食料問題だが、シャルメラの才覚によって、めいめい食用と非食用の果物を見分けることができるようになったので、仔細なかった。しかし、おかげで皆果物に倦いてしまった。閻魔大王様は「はやくお菓子が食べたい」と託ちながら、渋々果物を齧った。
彼女たちは夜は車座になって、お互いのいろいろなことを話した。上級神の日々の過ごし方、下界の流行、地獄の観光スポット、天上界の美しさ、下級神の不満事、カラクラへの愛、魔改造ビールの楽しみ方、普段のザハク殿がいかに放恣であるか——などなど。
ミーネが箱に詰められていた由も明らかになった。
実行者は金髪の男である。彼がここにゆくりなくも招じられて間もない頃、彼は閻魔大王様とアイネに叢林にて便宜的結託をし、あの城の探索を命ぜられた際、骸骨たちがミーネを見つけた部屋で横寝する彼女に会ったのである。男は甚く困惑した。城主かと思ったらしい。然して、不躾な行為に勤しむ己の存在を知られてはならぬと考えた。叱咤を恐れたのだ。
折しも傍には物資運搬用の大きな箱、その中にはクリスマス用の包装紙が折りたたまれて入っていた。研究所から適当に見繕って持ち出したのである。ドアの外からアイネが進捗を問う。覚束ぬ返事をして、一気呵成にミーネを箱詰めにした。外へ出ると、彼はこう言った。
「何もなかったッス。え? 箱ッスか? 転けた拍子に潰れたんで、放置しました。はい」
......カラクラはその旁々、纏綿するジエンダの疑義を解くべく、彼女の赤心を開した。座は一瞬静まり、云い知れぬ空気が澱んだが、シャルメラは言下にそれを否定した。
シャルメラ曰く、すべてはけだしザハク殿がこの世界と接触した影響に依るイレギュラーで、ジエンダは何ら関係がないと言う。カラクラは汗顔の至りここに極まれりといった感じで、しばらくは自責の念に苛まれていた。
彼女の推理はまるで当てにならないのだった。しかし、飛ばされる寸前に見えた、紫色の袂のゆらめきが心に引っかかる。こればかりは本人に直接問う必要がある。疑念は完全には払拭されず、わずかに心の隅に残った。
......一ヶ月が経ち、ようようビーチパラソルの下からザハク殿とトキが出てきた。
「風呂。あと、水と食べ物をくれ」
劈頭、蒼白顔でザハク殿は言うと、砂浜にうつ伏せて倒れた。
しかしトキは元気であった。
$
ノートの復元にはさして手間取らなかった。
紙面に文字が浮かび上がり、あたかも書いたばかりのようにくっきりだった。
トキは手落ちのないよう、頁の隅々まで目を凝らして読んだ。しかしものの三分とかからなかった。人を超越した神の御技は、たしかに彼の身体に涵養されている。
筆者は『ルルル・ルル・ルルルルルルル・ルル・ルルル』である。『ル』が十七個もある。電話のベルの音みたいな名前だ。筆跡から推して、男性と思われる。
彼は或る国家に従属する、バイオ兵器の開発に携わっていた優秀な研究者であった。極寒の絶巓にて、あの天体望遠鏡の中でバイオ兵器の研究を続けていたのだが、しかし彼は元々バイオ兵器の開発には反対だった。反駁すれば命はないため、御無理最もな命令をしようことなしに呑んでいたのである。彼は缶詰で研究を続けた。外へ出ることは許されなかったのだ。
ある折に仲間のひとりがこっそりと抜け出し、外界の情報を持ち帰った。一冊の新聞。そこで、彼はいかに自らの研究が愚かであったかを知った。身を切り苛まれる思いで読んだ。終始手が震えて、頁を捲る際には手を切ったり、何度も床に落としたりした。
読み終えたとき、彼は決意をした。
——もう研究はやめよう。そして救おう。我々が最も愛した純潔を。
彼はウイルスを生成するガスタンクを放擲し、城に軟禁されていた神と人と動物を解き放ち、その中でも誠に清い精神を有する者を選び抜き、宇宙船にそれらを乗せ、ミサイルの発射台である塔を用いて送り出した。
彼はしかと目標を定めていた。豊潤な緑、広大な海、どだい生物の住むに適した、類似的惑星——
すなわち、地球である。
通常、神の力を人間が思うままに操るとなれば、云千万年もしくは云億年をかけて絶え間ない修行を積まねばならない。しかし人間の命数は極めて短い。ただでさえトキは体を酷使して寿命を削っているので、もってあと四十年がリミットであった。
とても時間が足りない。下界ではいつ諍いの火種が生まれてもおかしくはないのだ。トキはこのとき、己が人間であることを恨んだ。
他に方策がないわけではなかった。が、それは彼自身に多大な負担を強いる苦肉の策であった。一ヶ月の間、ある修練に耐え抜くことができた場合、最上神の膂力をそこそこ発揮できるという。
......修練の内容如何を問わず、トキは快諾した。
「どんな苦行でも構いません。僕にできることなら、なんでもおっしゃってください」
「本当に良いのだな? 後戻りはできぬぞ」
ザハク殿は凄むように言った。
トキは力強く肯いた。
「はい」
「よし、こっちに来い」
ザハク殿はトキの手を引き、波打ち際と出入り口の襖とのちょうど真ん中まで来ると、指をさして、「そこに寝るのじゃ」と命じた。
トキは言われた通り、仰向けに寝そべった。砂粒のあたたかい潜熱が背中に伝わる。亭々たる真夏の太陽が青空にさやかだ。心残りのありそうな細い雲が左へ流れていった。
「これでいいでしょうか」
「うむ」
ザハク殿はトキの隣に同様に寝そべると、もぞもぞと彼の体の側面にくっつくように蠢いた。
「わしも寝る」
トキはザハク殿に顔だけを向けて問うた。
「一ヶ月?」
「うむ、一ヶ月」
ザハク殿は答えた。
$
ザハク殿とトキが一ヶ月の同衾生活をしている間、閻魔大王様、カラクラ、ヴォルトラ、アイネ、金髪の男が常夜の国に訪れた。
開始から三日後のことだった。上級神たちは互いの再会を喜んだ。ことにミーネは滂沱の涙を流して欣喜したものだ。
シャルメラは一人ずつに慇懃に挨拶をして回った。しわしわの手で握手を求め、しわしわの笑顔で奇縁にたいしての祝辞を述べた。なお、金髪の男だけには若々しい姿だったので、彼はその雲鬢花顔に大興奮だった。
カラクラはビーチパラソルの下に添寝するザハク殿とトキを見て、「何なんだあれは」と思った。
「修練らしいよお」
チカが忖度して言った。
カラクラは眉をひそめる。
「修練? あれが?」
「そうだよお。一ヶ月あそこから動いちゃダメなんだってえ」
「大変そうね。いろんな意味で」
「そうだよお。だからそっとしておこうねえ」
手をつないで汗だくの二人は何やら楽しそうに話している。三日目だからまだ余裕があるのだろうか。
「あとで悪戯をしてやろう」
不敵な笑みを浮かべて眺めていると、色あせてボロボロになった大学ノートを凝視する閻魔大王様がぶつぶつと独り言を言いながら歩いてきた。
「どうしました?」
「ああ、カラクラちゃん。やはりダメだ」
彼女は大学ノートをバシバシと叩いた。
「これは読めない」
カラクラはノートを受け取ると、中を閲した。文字がところどころ擦れたり消えたりして、てんから文章の体を成していなかった。
はっきりと読めたのが、<......を送る。彼らならきっと、平和で、美しい世界を成し得てくれるだろう。どうか、その安寧が終わらぬことを切に願う>の部分のみであった。これ以降、更新はない。ノートの空白の頁は残り五枚だった。
「たしかに。最後の行だけは読めますが、あとは全然ですね。おそらく神と人と獣を他所の星に送る、といった旨なのでしょう。しかし、どうやって送ったのでしょうか」
「私にもわからない。シャルメラ氏に訊いてみたのだが、彼女さえ仕方を知らなかった。ただ、漠然と、あの山脈の施設が使われたのであろうという憶測でしかない」
「困りましたね」
カラクラは唸った。
「困ったねえ」
閻魔大王様も唸った。
ちょうどそのとき、カラクラの左肩にポンと手が置かれた。
「だから、創神の力が要るのさ」
ヴォルトラだった。彼女はザハク殿の創神の力でノートを復元するのだと言う。
「でも、『覗き穴』を創った方が早くないかしら?」
「あれは結構難しいんだってよ。ザハク殿でさえ、『覗き穴』を完璧に創造できるようになったのは、二千年くらい前だからな。一ヶ月やそこらで習得できる力なんて、ノートの復元が関の山だ」
かくして、神々と人間と魔王は一ヶ月の時を共に過ごした。
懸念されていた食料問題だが、シャルメラの才覚によって、めいめい食用と非食用の果物を見分けることができるようになったので、仔細なかった。しかし、おかげで皆果物に倦いてしまった。閻魔大王様は「はやくお菓子が食べたい」と託ちながら、渋々果物を齧った。
彼女たちは夜は車座になって、お互いのいろいろなことを話した。上級神の日々の過ごし方、下界の流行、地獄の観光スポット、天上界の美しさ、下級神の不満事、カラクラへの愛、魔改造ビールの楽しみ方、普段のザハク殿がいかに放恣であるか——などなど。
ミーネが箱に詰められていた由も明らかになった。
実行者は金髪の男である。彼がここにゆくりなくも招じられて間もない頃、彼は閻魔大王様とアイネに叢林にて便宜的結託をし、あの城の探索を命ぜられた際、骸骨たちがミーネを見つけた部屋で横寝する彼女に会ったのである。男は甚く困惑した。城主かと思ったらしい。然して、不躾な行為に勤しむ己の存在を知られてはならぬと考えた。叱咤を恐れたのだ。
折しも傍には物資運搬用の大きな箱、その中にはクリスマス用の包装紙が折りたたまれて入っていた。研究所から適当に見繕って持ち出したのである。ドアの外からアイネが進捗を問う。覚束ぬ返事をして、一気呵成にミーネを箱詰めにした。外へ出ると、彼はこう言った。
「何もなかったッス。え? 箱ッスか? 転けた拍子に潰れたんで、放置しました。はい」
......カラクラはその旁々、纏綿するジエンダの疑義を解くべく、彼女の赤心を開した。座は一瞬静まり、云い知れぬ空気が澱んだが、シャルメラは言下にそれを否定した。
シャルメラ曰く、すべてはけだしザハク殿がこの世界と接触した影響に依るイレギュラーで、ジエンダは何ら関係がないと言う。カラクラは汗顔の至りここに極まれりといった感じで、しばらくは自責の念に苛まれていた。
彼女の推理はまるで当てにならないのだった。しかし、飛ばされる寸前に見えた、紫色の袂のゆらめきが心に引っかかる。こればかりは本人に直接問う必要がある。疑念は完全には払拭されず、わずかに心の隅に残った。
......一ヶ月が経ち、ようようビーチパラソルの下からザハク殿とトキが出てきた。
「風呂。あと、水と食べ物をくれ」
劈頭、蒼白顔でザハク殿は言うと、砂浜にうつ伏せて倒れた。
しかしトキは元気であった。
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ノートの復元にはさして手間取らなかった。
紙面に文字が浮かび上がり、あたかも書いたばかりのようにくっきりだった。
トキは手落ちのないよう、頁の隅々まで目を凝らして読んだ。しかしものの三分とかからなかった。人を超越した神の御技は、たしかに彼の身体に涵養されている。
筆者は『ルルル・ルル・ルルルルルルル・ルル・ルルル』である。『ル』が十七個もある。電話のベルの音みたいな名前だ。筆跡から推して、男性と思われる。
彼は或る国家に従属する、バイオ兵器の開発に携わっていた優秀な研究者であった。極寒の絶巓にて、あの天体望遠鏡の中でバイオ兵器の研究を続けていたのだが、しかし彼は元々バイオ兵器の開発には反対だった。反駁すれば命はないため、御無理最もな命令をしようことなしに呑んでいたのである。彼は缶詰で研究を続けた。外へ出ることは許されなかったのだ。
ある折に仲間のひとりがこっそりと抜け出し、外界の情報を持ち帰った。一冊の新聞。そこで、彼はいかに自らの研究が愚かであったかを知った。身を切り苛まれる思いで読んだ。終始手が震えて、頁を捲る際には手を切ったり、何度も床に落としたりした。
読み終えたとき、彼は決意をした。
——もう研究はやめよう。そして救おう。我々が最も愛した純潔を。
彼はウイルスを生成するガスタンクを放擲し、城に軟禁されていた神と人と動物を解き放ち、その中でも誠に清い精神を有する者を選び抜き、宇宙船にそれらを乗せ、ミサイルの発射台である塔を用いて送り出した。
彼はしかと目標を定めていた。豊潤な緑、広大な海、どだい生物の住むに適した、類似的惑星——
すなわち、地球である。
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