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4章 訳あり人妻さんとたいへんなお使いのお話
59:朝
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そんな「眠れる海竜亭」で特別な夜を求める客たちが、決まって注文するものがある。アストリナの郊外、ドワーフたちが暮らす岩山の集落でのみ醸造される特別な酒精。それは「深き脈動」と呼ばれ、人の理性を麻痺させ、本能を剥き出しにすると言われる希少な酒だった。その醸造法は門外不出であり、太陽の光が届かぬ洞窟の奥深く、地熱によって常に温かく湿った環境で育つ古代の地衣類と、地下水脈から稀に採れる微量の魔力を含んだ鉱石を触媒とすることで、独特の風味と魔術的な効能を生み出すという。アストリナの市場には決して出回らないその酒は、ドワーフの醸造家と直接取引する他に、手に入れる術はなかった。
普段、その買い出しは夫であるトーマスの役目だった。しかし、その日に限っては事情が違った。
「すまねえ、アリア。見ての通り、今日は東方の商人組合の一行が貸し切りでな。とてもじゃないが手が離せねえんだ。今日の客には例の酒はあきらめてもらうしかねぇな」
厨房で、トーマスが山と積まれた野菜を凄まじい速さで刻みながら、申し訳なさそうな顔で言った。
「あたいが行ってくるよ。道は分かってるし、大した距離じゃない」
快活にそう答えるアリアに、トーマスはまな板に包丁を突き立て、眉をひそめた。
「駄目だ。一人で行くなんてとんでもない。最近、街道筋にゴブリンの斥候が出たって話だ。金はかかるが、ギルドで護衛を雇っていきなさい。それが俺との約束だ」
夫の心配はもっともだった。アストリナの強固な城壁の外は、一歩間違えば命の保証がない無法地帯である。元船乗りで腕っぷしには自信のある彼ですら、一人で街道を歩く際には常に警戒を怠らない。ましてや、非力な女一人となれば、その危険は計り知れない。
「……分かったよ。あんたの言う通りにする」
アリアは頷いた。夫の純粋な愛情が、温かくも、少しだけ息苦しく感じられた。
彼女は汚れたエプロンを外し、外出用の少しだけ上等なモスグリーンのローブを羽織ると、玄関の扉に手をかけた。
「気をつけてな、アリア」
「ああ。すぐ戻るさ」
振り返らずに手を振り、アリアは「眠れる海竜亭」を後にした。目指すは、一攫千金の夢と野心が渦巻く場所。港湾要塞都市アストリナの心臓部、冒険者ギルドである。石畳の道を行き交う人々の喧騒が、急に遠くに聞こえるような気がした。
***
港湾要塞都市アストリナの心臓部への道は、富と野心、そして鉄と血の匂いが渦を巻く巨大な血管だ。アリアが普段暮らす「眠れる海竜亭」周辺の、魚醤の香りが染みついた静かな路地裏とはまるで別世界であった。一歩大通りに出れば、石畳の道を埋め尽くす人々の往来が、巨大な生き物の脈動のように絶え間なく続いていた。
天を突く城壁から睨みを利かせる巨大な弩砲の威容。その城壁に守られるようにしてひしめき合う家々の屋根は、帝国風の優雅な赤瓦と、ドワーフたちが切り出した無骨な石板葺きがまだら模様を描き、この都市が多様な文化の交差点であることを示している。荷を満載したリザードマンの牽く荷車が地響きを立てて通り過ぎ、その脇を、高価な香辛料や絹織物を扱う東方の商人が、用心棒を連れて足早に駆けていく。辻々からは、串焼き肉の脂が焼ける香ばしい匂いや、吟遊詩人が爪弾くリュートの物悲しい音色が漂い、それら全てが混然一体となって、アストリナという都市の生命力を形作っていた。
アリアは、人々の波を巧みにかわしながら、目的地である冒険者ギルドへと足を速める。モスグリーンのローブのフードを目深に被ってはいるが、その淑やかな物腰と、隠しきれない豊満な身体の曲線は、自ずと周囲の視線を集めた。すれ違う傭兵や船乗りたちの無遠慮な視線が、まるで粘つく舌のように肌を舐めるのを感じる。だが、アリアはそんな視線を意に介する様子もなく、ただまっすぐに前を見据えていた。彼女にとって、この程度の視線はそよ風にすら感じられない。
やがて、ひときわ大きく、威圧的な建物が姿を現した。冒険者ギルド・アストリナ支部。かつては敵対勢力からの攻撃を迎え撃つための砦だったというその建物は、黒ずんだ巨石を無骨に積み上げた、まさに要塞と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。分厚い樫の木で作られた巨大な扉には、このギルドの紋章である「剣と竜」が、見事な浮き彫りで刻まれていた。
アリアがその重い扉を押し開けると、むわりとした熱気と共に、凄まじい喧騒が彼女を包み込んだ。エールと汗、鉄と革、そして微かに漂う血の匂い。それらが混じり合った、男たちの匂い。広大なホールでは、何人もの冒険者たちが、あるいは酒を酌み交わし、あるいは武具の手入れをし、あるいは大声で自らの武勇伝を語らっていた。壁一面に設置された巨大な依頼掲示板には、ゴブリンの討伐から古代遺跡の探索、さらには貴婦人の愛猫探しに至るまで、大小様々な依頼書が所狭しと貼られている。その一枚一枚が、誰かの希望であり、誰かの絶望であり、そして誰かにとっての一攫千金の夢であった。
普段、その買い出しは夫であるトーマスの役目だった。しかし、その日に限っては事情が違った。
「すまねえ、アリア。見ての通り、今日は東方の商人組合の一行が貸し切りでな。とてもじゃないが手が離せねえんだ。今日の客には例の酒はあきらめてもらうしかねぇな」
厨房で、トーマスが山と積まれた野菜を凄まじい速さで刻みながら、申し訳なさそうな顔で言った。
「あたいが行ってくるよ。道は分かってるし、大した距離じゃない」
快活にそう答えるアリアに、トーマスはまな板に包丁を突き立て、眉をひそめた。
「駄目だ。一人で行くなんてとんでもない。最近、街道筋にゴブリンの斥候が出たって話だ。金はかかるが、ギルドで護衛を雇っていきなさい。それが俺との約束だ」
夫の心配はもっともだった。アストリナの強固な城壁の外は、一歩間違えば命の保証がない無法地帯である。元船乗りで腕っぷしには自信のある彼ですら、一人で街道を歩く際には常に警戒を怠らない。ましてや、非力な女一人となれば、その危険は計り知れない。
「……分かったよ。あんたの言う通りにする」
アリアは頷いた。夫の純粋な愛情が、温かくも、少しだけ息苦しく感じられた。
彼女は汚れたエプロンを外し、外出用の少しだけ上等なモスグリーンのローブを羽織ると、玄関の扉に手をかけた。
「気をつけてな、アリア」
「ああ。すぐ戻るさ」
振り返らずに手を振り、アリアは「眠れる海竜亭」を後にした。目指すは、一攫千金の夢と野心が渦巻く場所。港湾要塞都市アストリナの心臓部、冒険者ギルドである。石畳の道を行き交う人々の喧騒が、急に遠くに聞こえるような気がした。
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港湾要塞都市アストリナの心臓部への道は、富と野心、そして鉄と血の匂いが渦を巻く巨大な血管だ。アリアが普段暮らす「眠れる海竜亭」周辺の、魚醤の香りが染みついた静かな路地裏とはまるで別世界であった。一歩大通りに出れば、石畳の道を埋め尽くす人々の往来が、巨大な生き物の脈動のように絶え間なく続いていた。
天を突く城壁から睨みを利かせる巨大な弩砲の威容。その城壁に守られるようにしてひしめき合う家々の屋根は、帝国風の優雅な赤瓦と、ドワーフたちが切り出した無骨な石板葺きがまだら模様を描き、この都市が多様な文化の交差点であることを示している。荷を満載したリザードマンの牽く荷車が地響きを立てて通り過ぎ、その脇を、高価な香辛料や絹織物を扱う東方の商人が、用心棒を連れて足早に駆けていく。辻々からは、串焼き肉の脂が焼ける香ばしい匂いや、吟遊詩人が爪弾くリュートの物悲しい音色が漂い、それら全てが混然一体となって、アストリナという都市の生命力を形作っていた。
アリアは、人々の波を巧みにかわしながら、目的地である冒険者ギルドへと足を速める。モスグリーンのローブのフードを目深に被ってはいるが、その淑やかな物腰と、隠しきれない豊満な身体の曲線は、自ずと周囲の視線を集めた。すれ違う傭兵や船乗りたちの無遠慮な視線が、まるで粘つく舌のように肌を舐めるのを感じる。だが、アリアはそんな視線を意に介する様子もなく、ただまっすぐに前を見据えていた。彼女にとって、この程度の視線はそよ風にすら感じられない。
やがて、ひときわ大きく、威圧的な建物が姿を現した。冒険者ギルド・アストリナ支部。かつては敵対勢力からの攻撃を迎え撃つための砦だったというその建物は、黒ずんだ巨石を無骨に積み上げた、まさに要塞と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。分厚い樫の木で作られた巨大な扉には、このギルドの紋章である「剣と竜」が、見事な浮き彫りで刻まれていた。
アリアがその重い扉を押し開けると、むわりとした熱気と共に、凄まじい喧騒が彼女を包み込んだ。エールと汗、鉄と革、そして微かに漂う血の匂い。それらが混じり合った、男たちの匂い。広大なホールでは、何人もの冒険者たちが、あるいは酒を酌み交わし、あるいは武具の手入れをし、あるいは大声で自らの武勇伝を語らっていた。壁一面に設置された巨大な依頼掲示板には、ゴブリンの討伐から古代遺跡の探索、さらには貴婦人の愛猫探しに至るまで、大小様々な依頼書が所狭しと貼られている。その一枚一枚が、誰かの希望であり、誰かの絶望であり、そして誰かにとっての一攫千金の夢であった。
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