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9章 狩人も冒険ではちゃめちゃになってしまうお話
150:宿
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旅に出てから、七日目の夕暮れ。
二人はついに、旧修道院廃墟に最も近いとされる、小さな集落にたどり着きました。山肌に張り付くようにして点在するその家々は、まるで世界から忘れ去られたかのように静まり返っています。しかし、シャイラさんの獣人族ならではの鋭敏な嗅覚は、忌まわしく淀んだ『瘴気』の匂いが、まだこの場所までは届いていないことを正確に捉えていました。
「今夜はここで休もう。明日に備えて、万全を期す」
おじさんの言葉に、シャイラさんもこくりと頷きます。二人が選んだのは、集落で唯一の宿屋でした。黒ずんだ木材で建てられた古びた建物ですが、窓辺に飾られた素朴な花や、丁寧に掃き清められた入り口から、主人の実直な人柄が窺えます。
「おお、これはこれは! ギルドからお見えになった冒険者様ですな!」
にこやかな笑顔で二人を迎えたのは、深く腰の曲がった宿の主人でした。その皺だらけの顔には人の良さが滲み出ており、シャイラさんの張り詰めていた警戒心も少しだけ和らぎます。主人は、二人があの山岳廃墟の依頼で来たことを知ると、ことさらに歓迎し、ぱちぱちと火の粉が爆ぜる暖炉のそばの、一番暖かい席へと案内しました。
「ささ、長旅でお疲れでしょう。今夜は私からのささやかなもてなしです。腹の足しになるものを、すぐに用意させますのでな」
そう言って主人が運んできたのは、この地方の郷土料理だという、心のこもったごちそうでした。年季の入った大きな陶器の皿に盛られていたのは、この地方に生息する猪に似た獣「ロックボア」の肉を、たっぷりの木の実や乾燥させた果実と共に、この土地で醸造された赤ワインで煮込んだシチュー。湯気と共に立ち上る、肉の焼ける香ばしい匂いと、果実の甘酸っぱい匂い、そして様々な香辛料が混じり合った複雑で濃厚な香りが、シャイラさんの鼻腔をたまらなくくすぐります。添えられているのは、ずっしりと重く、ライ麦の香りが豊かな黒パンと、この地方特産の、塩気の強いヤギのチーズ。そして、琥珀色に輝き、きめ細やかな泡を立てるエール酒でした。
「うわぁ……!」
シャイラさんの金色の瞳が、まるで子供のようにきらきらと輝きます。故郷を離れて以来、これほど豪勢で、そして温かいごちそうを目にするのは初めてでした。獣人族の血が騒ぐのか、彼女の胃袋はきゅう、と可愛らしい音を立て、尻尾が期待にぱたりぱたりと床を打ちます。
彼女は、ほとんど無我夢中で料理にがっつきました。丁寧に煮込まれたロックボアの肉は、スプーンを入れるだけでほろりと崩れるほど柔らかく、噛むほどに濃厚な旨味が口の中に広がります。木の実の香ばしさと果実のほのかな酸味がアクセントとなり、それらすべてをまとめるソースの、深く複雑な味わい。一口食べるごとに、長い旅で蓄積した疲労が、じんわりと癒えていくようです。シャイラさんは、あっという間に自分の分を平らげると、名残惜しそうに皿を舐め、ちらり、とおじさんの方を見ました。
おじさんは、ほとんど手をつけていません。その視線に気づいた彼は、何も言わずに、すっ、と自分の皿をシャイラさんの前に押し出しました。
「……いいの?」
「ああ。食え。お前は、食わないと仕事が難しくなるだろ」
ぶっきらぼうな、しかし不思議な優しさを感じさせる響き。シャイラさんは、頬を少しだけ赤らめながら、「……ありがと」と蚊の鳴くような声で呟くと、再び夢中でごちそうを頬張り始めたのでした。
この時、二人は気づいていませんでした。この滋味深いシチューに、人の良さそうな宿の主人が――その精神は既に廃墟の魔物の影響下にあり、ただの操り人形と化している彼が――こっそりと混ぜ込んだ、特殊な薬剤の存在に。それは、対象の精神防御を司る魔術的な障壁を著しく低下させ、心の奥底に封印された潜在的な欲望を強制的に増幅させる効果を持つ、古代の禁忌薬物『精神感応薬』。その、舌の奥に微かに残る、まるで熟れた花弁を噛んだかのような甘い後味と、身体の芯からじんわりと温まっていく不思議な感覚を、シャイアさんはただ、この土地ならではの珍しい香辛料によるものだと、そう信じて疑わなかったのです。
◇◇◇
満腹になったシャイラさんは、明日からの過酷な戦いに備え、宿の風呂を借りて早めに休むことにしました。裏庭にある小さな湯小屋の、年季の入った木製の湯船に張られた湯は、この地方で採れるという薬草がたっぷりと混ぜられているのか、鼻を抜ける清涼な森の匂いがします。
ざぶり、と身体を沈めると、ふぅ、と心の底からの安堵のため息が漏れました。湯の熱が、長旅と緊張で石のように凝り固まった筋肉を、ゆっくりと、丁寧にほぐしていきます。しかし、どうしたことでしょう。身体が温まるにつれて、その内側から、経験したことのない奇妙な感覚が湧き上がってくるのです。
まるで、血の一滴一滴が沸騰しているかのような、熱い、熱い疼き。肌の表面がやけに敏感になり、湯が肌を撫でる微かな感触や、湯気の匂い、壁の向こうで鳴く虫の声さえもが、いちいちシャイラさんの神経をぞくぞくと甘く震わせます。特に、下腹部の奥が、きゅう、と締め付けられるような、それでいて蜜がとろりとにじみ出るような、甘美な疼きに、シャイラさんは戸惑いを隠せませんでした。
(……なに、これ。武者震い……?)
そうです。きっと、そうなのです。これほどの大仕事を前にして、興奮しない方がおかしい。シャイラさんは、自らの身体に起きた不可解で淫らな反応を、優秀な狩人としての闘争本能の発露なのだと、無理やり自分に言い聞かせました。高鳴る鼓動も、火照る頬も、すべては明日の戦いに勝利するための準備。そう思うことで、彼女はかろうじて平静を保とうとしたのです。
二人はついに、旧修道院廃墟に最も近いとされる、小さな集落にたどり着きました。山肌に張り付くようにして点在するその家々は、まるで世界から忘れ去られたかのように静まり返っています。しかし、シャイラさんの獣人族ならではの鋭敏な嗅覚は、忌まわしく淀んだ『瘴気』の匂いが、まだこの場所までは届いていないことを正確に捉えていました。
「今夜はここで休もう。明日に備えて、万全を期す」
おじさんの言葉に、シャイラさんもこくりと頷きます。二人が選んだのは、集落で唯一の宿屋でした。黒ずんだ木材で建てられた古びた建物ですが、窓辺に飾られた素朴な花や、丁寧に掃き清められた入り口から、主人の実直な人柄が窺えます。
「おお、これはこれは! ギルドからお見えになった冒険者様ですな!」
にこやかな笑顔で二人を迎えたのは、深く腰の曲がった宿の主人でした。その皺だらけの顔には人の良さが滲み出ており、シャイラさんの張り詰めていた警戒心も少しだけ和らぎます。主人は、二人があの山岳廃墟の依頼で来たことを知ると、ことさらに歓迎し、ぱちぱちと火の粉が爆ぜる暖炉のそばの、一番暖かい席へと案内しました。
「ささ、長旅でお疲れでしょう。今夜は私からのささやかなもてなしです。腹の足しになるものを、すぐに用意させますのでな」
そう言って主人が運んできたのは、この地方の郷土料理だという、心のこもったごちそうでした。年季の入った大きな陶器の皿に盛られていたのは、この地方に生息する猪に似た獣「ロックボア」の肉を、たっぷりの木の実や乾燥させた果実と共に、この土地で醸造された赤ワインで煮込んだシチュー。湯気と共に立ち上る、肉の焼ける香ばしい匂いと、果実の甘酸っぱい匂い、そして様々な香辛料が混じり合った複雑で濃厚な香りが、シャイラさんの鼻腔をたまらなくくすぐります。添えられているのは、ずっしりと重く、ライ麦の香りが豊かな黒パンと、この地方特産の、塩気の強いヤギのチーズ。そして、琥珀色に輝き、きめ細やかな泡を立てるエール酒でした。
「うわぁ……!」
シャイラさんの金色の瞳が、まるで子供のようにきらきらと輝きます。故郷を離れて以来、これほど豪勢で、そして温かいごちそうを目にするのは初めてでした。獣人族の血が騒ぐのか、彼女の胃袋はきゅう、と可愛らしい音を立て、尻尾が期待にぱたりぱたりと床を打ちます。
彼女は、ほとんど無我夢中で料理にがっつきました。丁寧に煮込まれたロックボアの肉は、スプーンを入れるだけでほろりと崩れるほど柔らかく、噛むほどに濃厚な旨味が口の中に広がります。木の実の香ばしさと果実のほのかな酸味がアクセントとなり、それらすべてをまとめるソースの、深く複雑な味わい。一口食べるごとに、長い旅で蓄積した疲労が、じんわりと癒えていくようです。シャイラさんは、あっという間に自分の分を平らげると、名残惜しそうに皿を舐め、ちらり、とおじさんの方を見ました。
おじさんは、ほとんど手をつけていません。その視線に気づいた彼は、何も言わずに、すっ、と自分の皿をシャイラさんの前に押し出しました。
「……いいの?」
「ああ。食え。お前は、食わないと仕事が難しくなるだろ」
ぶっきらぼうな、しかし不思議な優しさを感じさせる響き。シャイラさんは、頬を少しだけ赤らめながら、「……ありがと」と蚊の鳴くような声で呟くと、再び夢中でごちそうを頬張り始めたのでした。
この時、二人は気づいていませんでした。この滋味深いシチューに、人の良さそうな宿の主人が――その精神は既に廃墟の魔物の影響下にあり、ただの操り人形と化している彼が――こっそりと混ぜ込んだ、特殊な薬剤の存在に。それは、対象の精神防御を司る魔術的な障壁を著しく低下させ、心の奥底に封印された潜在的な欲望を強制的に増幅させる効果を持つ、古代の禁忌薬物『精神感応薬』。その、舌の奥に微かに残る、まるで熟れた花弁を噛んだかのような甘い後味と、身体の芯からじんわりと温まっていく不思議な感覚を、シャイアさんはただ、この土地ならではの珍しい香辛料によるものだと、そう信じて疑わなかったのです。
◇◇◇
満腹になったシャイラさんは、明日からの過酷な戦いに備え、宿の風呂を借りて早めに休むことにしました。裏庭にある小さな湯小屋の、年季の入った木製の湯船に張られた湯は、この地方で採れるという薬草がたっぷりと混ぜられているのか、鼻を抜ける清涼な森の匂いがします。
ざぶり、と身体を沈めると、ふぅ、と心の底からの安堵のため息が漏れました。湯の熱が、長旅と緊張で石のように凝り固まった筋肉を、ゆっくりと、丁寧にほぐしていきます。しかし、どうしたことでしょう。身体が温まるにつれて、その内側から、経験したことのない奇妙な感覚が湧き上がってくるのです。
まるで、血の一滴一滴が沸騰しているかのような、熱い、熱い疼き。肌の表面がやけに敏感になり、湯が肌を撫でる微かな感触や、湯気の匂い、壁の向こうで鳴く虫の声さえもが、いちいちシャイラさんの神経をぞくぞくと甘く震わせます。特に、下腹部の奥が、きゅう、と締め付けられるような、それでいて蜜がとろりとにじみ出るような、甘美な疼きに、シャイラさんは戸惑いを隠せませんでした。
(……なに、これ。武者震い……?)
そうです。きっと、そうなのです。これほどの大仕事を前にして、興奮しない方がおかしい。シャイラさんは、自らの身体に起きた不可解で淫らな反応を、優秀な狩人としての闘争本能の発露なのだと、無理やり自分に言い聞かせました。高鳴る鼓動も、火照る頬も、すべては明日の戦いに勝利するための準備。そう思うことで、彼女はかろうじて平静を保とうとしたのです。
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