無能と蔑まれ敵国に送られた私、故郷の料理を振る舞ったら『食の聖女』と呼ばれ皇帝陛下に溺愛されています~今さら返せと言われても、もう遅いです!

夏見ナイ

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第29話:帝国の秘密レストラン

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宰相エリオTット・ワイズマンが一杯のラーメンによって陥落した翌朝。月影の宮の厨房には、早くも異変が起きていた。

夜明けと共に私が厨房に立つと、そこにはすでに先客がいた。

「おはよう、アリア殿。昨夜はよく眠れたかな?」

いつもの隅の椅子に、帝国宰相エリオットがまるで我が家のようにくつろいで座っていた。彼は分厚い書物を読んでいたが、私の姿を認めると、ぱたんとそれを閉じて優雅に微笑んだ。

その顔色は昨日までの青白い幽霊のような姿が嘘のように、健康的な血色を取り戻している。目の下の深い隈も、心なしか薄くなっているようだ。

「え、エリオット様!? なぜここに…」

「決まっているだろう。世界で一番美味い朝食を食べに来たに決まっている」

彼はこともなげに言った。その変わり身の早さに、私はただ呆気に取られる。

そこに、いつものように厨房の扉が開いた。

「アリア、腹が…」

入ってきたレオン様は、エリオットの姿を認めぴたりと動きを止めた。彼の眉間に深い皺が刻まれる。

「宰相。貴様、なぜここにいる」

「おや、陛下。これは奇遇ですな。私も今、来たところですよ」

エリオTットはしれっと嘘をついた。レオン様の冷たい視線が、エリオットと私を交互に見る。その瞳には、「俺だけの秘密の場所だったのに」という子供のような独占欲と不満の色が浮かんでいた。

気まずい空気が厨房に流れ始める。

その空気を豪快に打ち破る新たな闖入者が現れた。

バァンッ!

「姫! おはようございます! 今朝のスイーツのご機嫌はいかがかな!」

鎧を鳴らし、満面の笑みで飛び込んできたのは帝国騎士団長ギルバートだった。彼は私の元へ駆け寄ろうとして、レオン様とエリオット様の姿に気づき、慌てて敬礼の姿勢を取る。

「へ、陛下! 宰相閣下まで! これはこれは、皆様お揃いで!」

レオン様とエリオット様は、この騒々しい男に揃って深いため息をついた。

こうして、私の小さな厨房に、ガルディナ帝国で最も権力を持つ三人の男たちが偶然にも一堂に会してしまった。皇帝、宰相、騎士団長。帝国の頭脳と心臓と剣が、全てこの場所に集結している。

侍女のマルタが厨房の入口から中の様子を窺い、顔面蒼白になって卒倒しかけていた。

「……とりあえず、皆様。朝食の準備をいたしますので、お席でお待ちください」

私がそう言うと、三人は何やらお互いを牽制し合いながらも、それぞれの椅子に腰を下ろした。レオン様はいつもの隅の席。エリオット様はその向かい。ギルバート様は、デザートがよく見えるであろう私の調理台の近く。

私は気持ちを切り替え、調理に集中した。

今日の献立は日本の朝食の定番だ。ふっくらと炊き上げた白米もどき。豆腐もどきと海藻の入った熱々のお味噌汁。そして、絶妙な火加減で焼き上げた、脂の乗った塩鮭もどき。最後に、出汁をたっぷり含ませて焼き上げた黄金色の卵焼き。

シンプルだが、一つ一つの工程に心を込めた、最高の朝ごはん。

私はお盆に一人前ずつ盛り付け、三人の前に順番に置いていった。

「「「……」」」

三人は目の前に置かれた質素だが完璧な朝食を前に、一瞬言葉を失っていた。そして、誰が言うでもなく、同時に手を合わせ、「いただきます」と小さな声で呟いた。

そこからの光景は圧巻だった。

レオン様はいつものように無言で、しかし至福の表情を浮かべて、一口一口をじっくりと味わっている。彼の食べる姿はまるで神聖な儀式のようだ。

エリオット様はまず味噌汁の香りを確かめ、スープを一口。そして目を閉じ、その味の構成要素を頭の中で分析しているようだったが、すぐにそんなことはどうでもよくなったとばかりに白米をかき込み始めた。昨日までの偏食家が嘘のようだ。

ギルバート様は一番豪快だった。「うまい! うまいぞ姫! この魚の塩加減、まさに神業!」と、いちいち大声で感想を述べながら猛烈な勢いで皿を空にしていく。しかし、その視線は時折、厨房の片隅に冷やしてあるデザート用のプリンに注がれていた。

三者三様の食べっぷり。それを見ているだけで、私の心は温かいもので満たされていく。

やがて、全員が綺麗に食事を平らげた頃だった。

「……それで、宰相」

食後のお茶を啜りながら、レオン様が静かに口火を切った。

「西の国境からの報告書、目を通したか。例の、鉱物資源を巡る小競り合いの件だ」

その一言で、厨房の空気が変わった。先程までの和やかな雰囲気は消え、ピリリとした緊張感が走る。

「はっ。すでに分析済みです」

エリオット様は懐から数枚の羊皮紙を取り出した。

「結論から申し上げますと、これは西の大国が仕掛けた、我々の反応を見るための探りです。ここで強硬な姿勢に出れば相手の思う壺。かといって弱腰を見せれば、彼らはさらに増長するでしょう」

「ならば、どうする」

「ここは一度、静観を。ただし、水面下で騎士団を動かし、国境付近の警備を倍に。いつでも動けるという姿勢を暗に相手に見せつけるのです。ギルバート殿、可能かな」

エリオット様が水を向けると、ギルバート様は力強く頷いた。

「お任せを。我が騎士団に抜かりはありません。それから兵士たちの士気を高めるために、アリア姫の差し入れがあればなお盤石かと!」

「……それは後で考えろ」

レオン様が呆れたようにギルバート様を窘める。

私は彼らが交わす会話の内容を半分も理解できていなかった。しかし、これが帝国の未来を決める重要な会議であることだけは分かった。

そして、その会議が今、この私の厨房で行われている。

その事実に私は少しだけ眩暈がした。

なぜ執務室ではなく、こんな場所で?

答えはすぐに分かった。彼らの表情を見れば一目瞭然だった。

美味しい食事で満たされた彼らの思考は、驚くほど冴え渡っていた。表情はリラックスしているがその瞳は鋭く、交わされる言葉には淀みがない。普段の書類の山に埋もれた殺伐とした会議室では決して生まれないであろう、柔軟で建設的な意見が次々と飛び出していく。

彼らは気づいてしまったのだ。

最高の食事は、最高の思考を生み出す最高の触媒であることを。

「……よし、その方針でいこう。宰相、細部を詰めろ。団長、準備にかかれ」

レオン様の鶴の一声で議論はまとまった。わずか十分ほどの会話で帝国の重要方針が決定されてしまった。

「はっ!」

エリオット様とギルバート様が力強く頷く。

そして会議が終わった途端、ギルバート様はぱあっと顔を輝かせた。

「では、陛下! 会議も終わったことですし、食後のスイーツを!」

「……貴様は、そればかりだな」

レオン様の呆れた声が響く。

私は苦笑しながら、冷やしておいた特製のプリンを三人の前に差し出した。卵と乳草の汁、そして果実の蜜だけで作った、素朴で優しい甘さのデザートだ。

ぷるぷると震える黄金色のプリンを前に、帝国のトップ三人は再び無垢な子供のような顔に戻っていた。

この日を境に、月影の宮の厨房は、その役割を大きく変えることになった。

毎朝、夜明けと共に帝国の最も重要な三人の男たちがここに集う。彼らはまず私の作る最高の朝食で腹と心を満たす。そしてそのままその場で、その日の政務について、最も効率的で最も創造的な議論を交わすのだ。

いつしか離宮の使用人たちの間では、こう囁かれるようになった。

月影の宮の厨房は、今や『帝国で最も重要な秘密の会議場所』なのだ、と。

もちろん、その後に小さな声でこう付け加えられることも忘れてはならない。

――という名の、帝国で一番美味しい秘密のレストラン、なのだと。
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