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第30話:皇帝の告白
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帝国の秘密レストラン。
私の小さな厨房がそう呼ばれるようになってから、一月が過ぎた。季節はすっかり秋めいて、朝の空気は肌寒いくらいだ。
毎朝繰り広げられる光景は、もはや日常となっていた。皇帝陛下、宰相閣下、騎士団長閣下。帝国を動かす三人の巨頭が、小さなテーブルを囲んで私の朝食に舌鼓を打ち、そのまま帝国の方針を決める朝議を始める。
侍女のマルタは最初こそ毎回卒倒しかけていたが、今では慣れたもので、三人が帰った後に「今日の議論は白熱しておりましたな」などと冷静に分析するまでになっていた。
私自身もこの奇妙な日常にすっかり慣れていた。彼らがどんなに偉い人たちでも、私の前ではただの「お腹を空かせたお客さん」だ。私はただ彼らのために心を込めて、美味しい料理を作るだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
三人の好みも、すっかり把握していた。
レオン様は基本的に何でも美味しそうに食べてくださるが、特に白米もどきへの執着が強い。生姜焼きや親子丼のようなご飯が進む料理の日は、いつもより少しだけ機嫌が良い。
エリオット様はあれだけ嫌っていた野菜を、今では好んで食べるようになった。特に野菜の甘みや旨味を活かしたポタージュや、温野菜のサラダがお好みのようだ。彼の顔色は日に日に良くなり、以前の不健康な面影はほとんどない。
ギルバート様は言うまでもなく甘いものに目がない。朝食の後のデザートが彼の最大の楽しみだった。最近は私が作る和菓子――あんこもどきを使ったおはぎや大福――に夢中で、その巨体に似合わず、ちまちまと幸せそうに食べる姿は、離宮の侍女たちの間で密かな癒やしとなっていた。
穏やかで、満ち足りた日々。
私はこの日常がずっと続けばいいと、心の底から願っていた。
しかし、私は忘れていたのだ。
この関係が、あまりにも歪で危ういバランスの上に成り立っているということを。
そして、私が毎日「レオン様」と呼んでいる青年が、本当は誰なのかという根本的な事実を。
その日の朝は、いつもと少しだけ違っていた。厨房にやってきたのはレオン様ただ一人だった。
「おはようございます。エリオット様とギルバート様は?」
私が尋ねると、彼は「二人には別の仕事を言いつけてある」とだけ短く答えた。その声は、いつもより少しだけ硬いように聞こえた。
今日の朝食は、秋の味覚をふんだんに使った炊き込みご飯だ。茸の豊かな香りと鶏肉の旨味が染み込んだご飯は、最高の出来だった。
レオン様はいつものように無言で、しかし一口一口を噛みしめるように、ゆっくりとそれを味わっていた。だが、その表情はどこか遠くを見ているようで、心ここにあらずといった様子だった。
食事が終わっても、彼はお茶を啜りながら何も言わずに窓の外を眺めていた。秋の柔らかな日差しが、彼の美しい銀髪をきらきらと照らしている。その横顔は、まるで一枚の絵画のように完璧で、そしてどこか寂しげだった。
いつもと違う彼の雰囲気に、私は少しだけ不安になった。
「レオン様…? 何か、お悩みでも…?」
おそるおそる声をかけると、彼はゆっくりと私の方を振り返った。その蒼い瞳が、真っ直ぐに私の心を射抜く。
その瞳の奥に宿る、深い、深い感情の渦。それは今まで私が見たことのない複雑な色をしていた。
「アリア」
彼の声は静かだった。しかし、その響きには何か重い決意のようなものが感じられた。
「俺は君に嘘をついていた」
「え……?」
嘘。その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。
彼はゆっくりと立ち上がると、私の目の前まで歩み寄ってきた。彼の影が私を完全に覆い隠す。私は後ずさることもできず、ただ彼を見上げることしかできなかった。
「俺の本当の名は、レオンハルト・フォン・ガルディナ」
彼は一言一言を、確かめるように口にした。
「このガルディナ帝国を治める、皇帝だ」
………。
………。
時が止まった。
彼の言葉が、私の頭の中で意味をなさずに反響する。
レオンハルト……フォン……ガルディナ?
皇帝?
私の目の前にいる、この毎日私の作った朝ごはんを子供のように美味しそうに食べてくれるレオン様が?
あの、冷酷非情と噂される『氷の皇帝』?
「……ご、ご冗談を」
私の唇から、か細い引きつった笑いが漏れた。
「そんな……だって、レオン様は、騎士様では…」
「それは君が勝手に勘違いしていただけだ。俺は一度も自分の身分を偽ったことはない。ただ、言わなかっただけだ」
彼の言葉は冷たい事実となって、私の心を容赦なく突き刺した。
そうだ。思い返せばそうだった。彼は一度も自分のことを騎士だとは名乗っていない。私が勝手にそう思い込んでいただけなのだ。
頭の中が真っ白になった。
今まで積み上げてきた温かくて幸せな日常が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
毎日、厨房にやってきていたのは身分を隠した騎士様ではなかった。この国の最高権力者。私の命を、指一本でどうとでもできる絶対的な支配者。
そんな方に、私は今までどんな態度で接してきた?
馴れ馴れしく名前で呼び、残り物を振る舞い、時には子供扱いさえしてしまった。
それは、万死に値する不敬罪。
血の気がさあっと引いていくのが分かった。手足の先から感覚がなくなり、立っていることさえままならない。
「君とのこの関係を、これ以上偽ったまま続けることはできん。それは君に対して不誠実だと思った」
彼の声がどこか遠くで聞こえる。
「俺は、君に……」
彼が何かを続けようとした。しかし、その言葉が私の耳に届くことはなかった。
私の視界は急速に白んでいく。
皇帝陛下。氷の皇帝。処刑。死。
断片的な単語が頭の中を駆け巡る。
そして。
「……っ」
私の意識は、ぷつりとそこで途切れた。
最後に見たのは、私の名前を呼びながら焦ったように手を伸ばしてくる、皇帝陛下の姿だった。
私の小さな厨房がそう呼ばれるようになってから、一月が過ぎた。季節はすっかり秋めいて、朝の空気は肌寒いくらいだ。
毎朝繰り広げられる光景は、もはや日常となっていた。皇帝陛下、宰相閣下、騎士団長閣下。帝国を動かす三人の巨頭が、小さなテーブルを囲んで私の朝食に舌鼓を打ち、そのまま帝国の方針を決める朝議を始める。
侍女のマルタは最初こそ毎回卒倒しかけていたが、今では慣れたもので、三人が帰った後に「今日の議論は白熱しておりましたな」などと冷静に分析するまでになっていた。
私自身もこの奇妙な日常にすっかり慣れていた。彼らがどんなに偉い人たちでも、私の前ではただの「お腹を空かせたお客さん」だ。私はただ彼らのために心を込めて、美味しい料理を作るだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
三人の好みも、すっかり把握していた。
レオン様は基本的に何でも美味しそうに食べてくださるが、特に白米もどきへの執着が強い。生姜焼きや親子丼のようなご飯が進む料理の日は、いつもより少しだけ機嫌が良い。
エリオット様はあれだけ嫌っていた野菜を、今では好んで食べるようになった。特に野菜の甘みや旨味を活かしたポタージュや、温野菜のサラダがお好みのようだ。彼の顔色は日に日に良くなり、以前の不健康な面影はほとんどない。
ギルバート様は言うまでもなく甘いものに目がない。朝食の後のデザートが彼の最大の楽しみだった。最近は私が作る和菓子――あんこもどきを使ったおはぎや大福――に夢中で、その巨体に似合わず、ちまちまと幸せそうに食べる姿は、離宮の侍女たちの間で密かな癒やしとなっていた。
穏やかで、満ち足りた日々。
私はこの日常がずっと続けばいいと、心の底から願っていた。
しかし、私は忘れていたのだ。
この関係が、あまりにも歪で危ういバランスの上に成り立っているということを。
そして、私が毎日「レオン様」と呼んでいる青年が、本当は誰なのかという根本的な事実を。
その日の朝は、いつもと少しだけ違っていた。厨房にやってきたのはレオン様ただ一人だった。
「おはようございます。エリオット様とギルバート様は?」
私が尋ねると、彼は「二人には別の仕事を言いつけてある」とだけ短く答えた。その声は、いつもより少しだけ硬いように聞こえた。
今日の朝食は、秋の味覚をふんだんに使った炊き込みご飯だ。茸の豊かな香りと鶏肉の旨味が染み込んだご飯は、最高の出来だった。
レオン様はいつものように無言で、しかし一口一口を噛みしめるように、ゆっくりとそれを味わっていた。だが、その表情はどこか遠くを見ているようで、心ここにあらずといった様子だった。
食事が終わっても、彼はお茶を啜りながら何も言わずに窓の外を眺めていた。秋の柔らかな日差しが、彼の美しい銀髪をきらきらと照らしている。その横顔は、まるで一枚の絵画のように完璧で、そしてどこか寂しげだった。
いつもと違う彼の雰囲気に、私は少しだけ不安になった。
「レオン様…? 何か、お悩みでも…?」
おそるおそる声をかけると、彼はゆっくりと私の方を振り返った。その蒼い瞳が、真っ直ぐに私の心を射抜く。
その瞳の奥に宿る、深い、深い感情の渦。それは今まで私が見たことのない複雑な色をしていた。
「アリア」
彼の声は静かだった。しかし、その響きには何か重い決意のようなものが感じられた。
「俺は君に嘘をついていた」
「え……?」
嘘。その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。
彼はゆっくりと立ち上がると、私の目の前まで歩み寄ってきた。彼の影が私を完全に覆い隠す。私は後ずさることもできず、ただ彼を見上げることしかできなかった。
「俺の本当の名は、レオンハルト・フォン・ガルディナ」
彼は一言一言を、確かめるように口にした。
「このガルディナ帝国を治める、皇帝だ」
………。
………。
時が止まった。
彼の言葉が、私の頭の中で意味をなさずに反響する。
レオンハルト……フォン……ガルディナ?
皇帝?
私の目の前にいる、この毎日私の作った朝ごはんを子供のように美味しそうに食べてくれるレオン様が?
あの、冷酷非情と噂される『氷の皇帝』?
「……ご、ご冗談を」
私の唇から、か細い引きつった笑いが漏れた。
「そんな……だって、レオン様は、騎士様では…」
「それは君が勝手に勘違いしていただけだ。俺は一度も自分の身分を偽ったことはない。ただ、言わなかっただけだ」
彼の言葉は冷たい事実となって、私の心を容赦なく突き刺した。
そうだ。思い返せばそうだった。彼は一度も自分のことを騎士だとは名乗っていない。私が勝手にそう思い込んでいただけなのだ。
頭の中が真っ白になった。
今まで積み上げてきた温かくて幸せな日常が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
毎日、厨房にやってきていたのは身分を隠した騎士様ではなかった。この国の最高権力者。私の命を、指一本でどうとでもできる絶対的な支配者。
そんな方に、私は今までどんな態度で接してきた?
馴れ馴れしく名前で呼び、残り物を振る舞い、時には子供扱いさえしてしまった。
それは、万死に値する不敬罪。
血の気がさあっと引いていくのが分かった。手足の先から感覚がなくなり、立っていることさえままならない。
「君とのこの関係を、これ以上偽ったまま続けることはできん。それは君に対して不誠実だと思った」
彼の声がどこか遠くで聞こえる。
「俺は、君に……」
彼が何かを続けようとした。しかし、その言葉が私の耳に届くことはなかった。
私の視界は急速に白んでいく。
皇帝陛下。氷の皇帝。処刑。死。
断片的な単語が頭の中を駆け巡る。
そして。
「……っ」
私の意識は、ぷつりとそこで途切れた。
最後に見たのは、私の名前を呼びながら焦ったように手を伸ばしてくる、皇帝陛下の姿だった。
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