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第70話:湖畔の告白
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グレイヘム村での奇跡から一夜が明けた。
村の空気は昨日までとはまるで別物だった。灰色の絶望は消え去り、代わりに穏やかで、しかし確かな希望の光が村全体を包んでいる。村人たちの顔には笑顔が戻り、広場では子供たちの元気な声が響いていた。
「聖女様、ありがとう! ありがとう!」
私たちが村を立つ時、村中の人々が涙ながらに私たちの馬車を見送ってくれた。その手には村に僅かに残っていた素朴な花の冠や、手作りの木彫りの人形が握られている。彼らの精一杯の感謝の気持ちだった。
馬車に揺られながら、私は自分の足元で緑の双葉が芽吹いたあの光景を思い出していた。
私の力は私が思うよりもずっと強大なのかもしれない。その事実が、誇らしさとともにほんの少しの重圧となって私の心にのしかかっていた。
その日の夜。私たちは旅の行程の途中にある静かな湖のほとりで野営をすることになった。
騎士たちが手際よく野営の準備を進める中、私は一人湖の岸辺に座り込み、きらきらと月光を反射する湖面をぼんやりと眺めていた。
水の音だけが静かに響く。その静寂が、私の心を少しだけ感傷的にさせていた。
「一人で何を考えている」
背後から低く優しい声がした。振り返ると、そこにいたのはレオン様だった。彼はいつの間にか私の隣に音もなく腰を下ろした。
「……少し、自分の力のことが怖くなったんです」
私は正直な気持ちをぽつりと打ち明けた。
「私が本当に皆さんの期待に応えられるのか。聖女だなんて大それたものに、私なんかがなってしまっていいのか、と」
私の弱音に、彼は何も言わずにただ静かに耳を傾けてくれていた。
「君は聖女に『なった』のではない」
しばらくして、彼はゆっくりと口を開いた。
「君は最初からそうだったんだ。ただ君自身も、周りの誰もそのことに気づかなかっただけだ」
彼の言葉は、すとんと私の心の中に落ちてきた。
「俺は感謝している」
「え?」
「君の力があんな風に目に見える形で現れてくれたことに。これで俺もようやく大義名分を得ることができた」
「大義名分、ですか?」
「ああ」
彼は湖の向こう岸の暗い森を見つめながら言った。
「君を俺のそばに置き、生涯守り抜くための、誰にも文句を言わせない絶対的な理由だ」
その言葉に、私の心臓が大きく音を立てた。
彼の横顔は月明かりに照らされ、彫刻のように美しく、そしてどこか儚げに見えた。
「俺は、ずっと孤独だった」
彼の声は静かな湖面に響く独白のようだった。
「皇帝とはそういうものだ。誰にも本心を見せることはできない。誰をも心から信じることはできない。玉座とは世界で最も華やかで、そして最も孤独な場所だ」
彼の言葉の端々から、彼が一人で抱え込んできた想像を絶するほどの重圧と孤独が、痛いほどに伝わってくる。
「食事さえも俺にとっては安らぎの時間ではなかった。いつ毒を盛られるか分からない。味などどうでもよかった。ただ生きるために無機質な燃料を体に取り込むだけの作業だった」
私は初めて出会った日の彼の姿を思い出していた。疲弊しきって、飢えた獣のような目をしていたあの日の彼を。
「だが、君が全てを変えた」
彼はゆっくりと私の方を向き直った。その蒼い瞳が月光を宿してきらきらと揺らめいている。
「君のスープは俺の凍てついた体を温めてくれた。君の料理は俺が忘れていた食べる喜びを思い出させてくれた。そして、君の笑顔は……」
彼はそこで一度言葉を切った。そして、まるで大切な宝物でも扱うかのように私の頬にそっと触れた。
彼の指先は少しだけ冷たかった。でもその奥から伝わってくる熱は、私の心を溶かしてしまいそうなくらい熱かった。
「君の笑顔は俺の孤独な世界に光を灯してくれた。君といる時間だけが、俺が皇帝ではなく、ただの『レオンハルト』に戻れる唯一の瞬間なんだ」
彼のあまりにも切実な告白。
私は息をすることも忘れ、ただ彼の瞳に見入っていた。
「アリア」
彼の声が愛おしそうに私の名前を呼ぶ。
「俺は君を愛している」
それは今まで聞いたどの言葉よりもシンプルで、ストレートで、そして私の魂の一番深い場所まで響き渡る愛の言葉だった。
「君が人質だろうと聖女だろうと関係ない。俺はただ君という一人の女性を心から愛している。俺の人生の全てをかけて君を幸せにしたいと、そう願っている」
もう涙をこらえることはできなかった。
私の瞳から大粒の涙が次から次へと溢れ落ちていく。
でも、それはもう悔し涙でも悲しい涙でもない。
ただひたすらに幸せで、愛おしくて、胸がいっぱいで。
「私も……」
私はしゃくり上げながら、やっとのことで声を絞り出した。
「私もあなたをお慕いしておりました。レオン様」
それが私の精一杯の答えだった。
その答えに彼の顔がふっと綻んだ。それは私が今まで見た中で一番優しくて幸せそうな笑顔だった。
彼はゆっくりとその顔を私に近づけてきた。
私は目を閉じた。
唇に柔らかく、そして温かいものがそっと触れた。
それは生まれて初めての口づけだった。
湖のほとり、月明かりの下で。
皇帝と聖女は、ようやくその想いを一つに重ねた。
私たちの周りをまるで祝福するかのように、小さな光の粒――【生命賛歌】の力の残滓――がきらきらと舞い始めていた。
二つの国の亀裂も帝国の呪いも、まだ何も解決していない。
これから私たちを待つ道は、決して平坦ではないだろう。
しかし、もう何も怖くはない。
この人の愛がそばにある限り。
私たちはどんな困難も乗り越えていける。
そう固く信じることができた。
湖畔の夜は静かに、そして甘く更けていった。
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村の空気は昨日までとはまるで別物だった。灰色の絶望は消え去り、代わりに穏やかで、しかし確かな希望の光が村全体を包んでいる。村人たちの顔には笑顔が戻り、広場では子供たちの元気な声が響いていた。
「聖女様、ありがとう! ありがとう!」
私たちが村を立つ時、村中の人々が涙ながらに私たちの馬車を見送ってくれた。その手には村に僅かに残っていた素朴な花の冠や、手作りの木彫りの人形が握られている。彼らの精一杯の感謝の気持ちだった。
馬車に揺られながら、私は自分の足元で緑の双葉が芽吹いたあの光景を思い出していた。
私の力は私が思うよりもずっと強大なのかもしれない。その事実が、誇らしさとともにほんの少しの重圧となって私の心にのしかかっていた。
その日の夜。私たちは旅の行程の途中にある静かな湖のほとりで野営をすることになった。
騎士たちが手際よく野営の準備を進める中、私は一人湖の岸辺に座り込み、きらきらと月光を反射する湖面をぼんやりと眺めていた。
水の音だけが静かに響く。その静寂が、私の心を少しだけ感傷的にさせていた。
「一人で何を考えている」
背後から低く優しい声がした。振り返ると、そこにいたのはレオン様だった。彼はいつの間にか私の隣に音もなく腰を下ろした。
「……少し、自分の力のことが怖くなったんです」
私は正直な気持ちをぽつりと打ち明けた。
「私が本当に皆さんの期待に応えられるのか。聖女だなんて大それたものに、私なんかがなってしまっていいのか、と」
私の弱音に、彼は何も言わずにただ静かに耳を傾けてくれていた。
「君は聖女に『なった』のではない」
しばらくして、彼はゆっくりと口を開いた。
「君は最初からそうだったんだ。ただ君自身も、周りの誰もそのことに気づかなかっただけだ」
彼の言葉は、すとんと私の心の中に落ちてきた。
「俺は感謝している」
「え?」
「君の力があんな風に目に見える形で現れてくれたことに。これで俺もようやく大義名分を得ることができた」
「大義名分、ですか?」
「ああ」
彼は湖の向こう岸の暗い森を見つめながら言った。
「君を俺のそばに置き、生涯守り抜くための、誰にも文句を言わせない絶対的な理由だ」
その言葉に、私の心臓が大きく音を立てた。
彼の横顔は月明かりに照らされ、彫刻のように美しく、そしてどこか儚げに見えた。
「俺は、ずっと孤独だった」
彼の声は静かな湖面に響く独白のようだった。
「皇帝とはそういうものだ。誰にも本心を見せることはできない。誰をも心から信じることはできない。玉座とは世界で最も華やかで、そして最も孤独な場所だ」
彼の言葉の端々から、彼が一人で抱え込んできた想像を絶するほどの重圧と孤独が、痛いほどに伝わってくる。
「食事さえも俺にとっては安らぎの時間ではなかった。いつ毒を盛られるか分からない。味などどうでもよかった。ただ生きるために無機質な燃料を体に取り込むだけの作業だった」
私は初めて出会った日の彼の姿を思い出していた。疲弊しきって、飢えた獣のような目をしていたあの日の彼を。
「だが、君が全てを変えた」
彼はゆっくりと私の方を向き直った。その蒼い瞳が月光を宿してきらきらと揺らめいている。
「君のスープは俺の凍てついた体を温めてくれた。君の料理は俺が忘れていた食べる喜びを思い出させてくれた。そして、君の笑顔は……」
彼はそこで一度言葉を切った。そして、まるで大切な宝物でも扱うかのように私の頬にそっと触れた。
彼の指先は少しだけ冷たかった。でもその奥から伝わってくる熱は、私の心を溶かしてしまいそうなくらい熱かった。
「君の笑顔は俺の孤独な世界に光を灯してくれた。君といる時間だけが、俺が皇帝ではなく、ただの『レオンハルト』に戻れる唯一の瞬間なんだ」
彼のあまりにも切実な告白。
私は息をすることも忘れ、ただ彼の瞳に見入っていた。
「アリア」
彼の声が愛おしそうに私の名前を呼ぶ。
「俺は君を愛している」
それは今まで聞いたどの言葉よりもシンプルで、ストレートで、そして私の魂の一番深い場所まで響き渡る愛の言葉だった。
「君が人質だろうと聖女だろうと関係ない。俺はただ君という一人の女性を心から愛している。俺の人生の全てをかけて君を幸せにしたいと、そう願っている」
もう涙をこらえることはできなかった。
私の瞳から大粒の涙が次から次へと溢れ落ちていく。
でも、それはもう悔し涙でも悲しい涙でもない。
ただひたすらに幸せで、愛おしくて、胸がいっぱいで。
「私も……」
私はしゃくり上げながら、やっとのことで声を絞り出した。
「私もあなたをお慕いしておりました。レオン様」
それが私の精一杯の答えだった。
その答えに彼の顔がふっと綻んだ。それは私が今まで見た中で一番優しくて幸せそうな笑顔だった。
彼はゆっくりとその顔を私に近づけてきた。
私は目を閉じた。
唇に柔らかく、そして温かいものがそっと触れた。
それは生まれて初めての口づけだった。
湖のほとり、月明かりの下で。
皇帝と聖女は、ようやくその想いを一つに重ねた。
私たちの周りをまるで祝福するかのように、小さな光の粒――【生命賛歌】の力の残滓――がきらきらと舞い始めていた。
二つの国の亀裂も帝国の呪いも、まだ何も解決していない。
これから私たちを待つ道は、決して平坦ではないだろう。
しかし、もう何も怖くはない。
この人の愛がそばにある限り。
私たちはどんな困難も乗り越えていける。
そう固く信じることができた。
湖畔の夜は静かに、そして甘く更けていった。
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