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第98話:皇帝夫妻の日常
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皇帝執務室の重厚な樫の扉が控えめにノックされた。
「入れ」
書類の山から顔を上げたレオンハルトの前に現れたのは、銀のお盆を手ににこやかに微笑む彼の愛する妻、アリアだった。
「レオン様。少し休憩にしませんか? 甘いものをお持ちしました」
その声を聞いた瞬間、執務室の張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。
隣で難しい顔をして地図を広げていた宰相エリオットも、アリアの姿を認めるとその口元を微かに綻ばせた。
「これはこれは、皇后陛下。いつも陛下の健康管理、感謝いたします」
「まあ、エリオット様。あなた様もあまり根を詰めすぎてはいけませんよ。はい、これはあなた様の分です」
アリアはエリオットの前に湯気の立つカップと小さな皿を置いた。皿の上には焼き立てのマドレーヌが二つ。バターの芳醇な香りが漂う。
エリオットは、普段の彼なら決して口にしないであろう「甘いものは思考を鈍らせる」という持論を、アリアの前では綺麗さっぱり忘れてしまっていた。彼はまるでおやつを与えられたかのように嬉しそうにそのマドレーヌを頬張った。
そして、レオンの前には。
彼のためだけの特別な一皿。
ガラスの器に盛られたふるふると震える黄金色のプリン。その上にはほろ苦いカラメルソースがたっぷりと掛かっている。
「……アリア」
レオンの声は甘くとろけるようだった。彼の大好物だ。
彼は皇帝としての威厳も忘れ、目をきらきらと輝かせながらスプーンを手に取った。そしてプリンを一口、口に運ぶ。
卵の濃厚な味わい。カラメルのほろ苦さと甘さ。その完璧なハーモニー。
彼の執務で疲れ切った脳と体に、優しい甘さが染み渡っていく。
「……美味い」
その心の底からの一言。
アリアは、その言葉と彼の幸せそうな顔が見れただけで、自分の存在価値の全てを肯定されたような温かい気持ちになるのだった。
これが皇帝夫妻の日常だった。
皇后となっても、アリアはただ玉座の隣で微笑んでいるだけのお飾りではなかった。
彼女は彼女のやり方で、この国を、そしてこの国の最も重要な人物を支えていた。
時には夜食の差し入れという形で皇帝の執務を陰から支え。
時には『食の聖女』として、その知識と力を使い国の食文化そのものを豊かにし。
そして時にはただ一人の妻として、皇帝レオンハルトの唯一の安らぎの場所となる。
ある日の午後。アリアはエリオットと共に王城の一室で、数人の役人たちと向き合っていた。
テーブルの上に広げられているのは一枚の巨大な地図。それはガルディナ帝国の農産物の分布を示した地図だった。
「北部のこの地域は寒冷で、作物が育ちにくいとされています。ですが、この土地の土壌は実は芋によく似た『雪の下芋』の栽培に非常に適しているのです」
アリアは地図の一点を指差し、自信に満ちた声で語り始めた。
「この芋は寒さに当たることでその甘みを増すという特性があります。これを新しい特産品としてブランド化するのです。そして、その芋を使った新しい郷土料理を開発し、食文化ごと輸出するのです」
彼女の言葉に、役人たちは目から鱗が落ちる思いだった。
今までただの『不毛の地』としか見ていなかった土地に、そんな可能性が眠っていたとは。
「南のこの沿岸部では塩作りが盛んですが、その質はあまり良くありません。ですが、海流を上手く利用し天日干しの時間を調整すれば、ミネラルを豊富に含んだまろやかな味わいの塩が作れるはずです」
「東の森では様々な種類の茸が採れます。これらを乾燥させ粉末にすることで、一年中使える天然の『うま味調味料』として商品化できるかもしれません」
次から次へと溢れ出してくる彼女のアイデア。
それは前世の豊かな食文化の記憶と、この世界の食材に対する深い知識と愛情が結びついた、まさに『聖女』ならではの神託だった。
エリオットは、その光景を腕を組み、満足げに眺めていた。
アリア・フォン・ガルディナ。彼女はもはや、ただ料理が上手いだけの聖女ではない。
彼女は、食という観点からこの国の経済を、未来をデザインする卓越した『プロデューサー』でもあったのだ。
その日の夜。
皇帝の寝室で、レオンはベッドの上で一冊の本を読んでいた。
そこに湯浴みを終えたアリアが、寝間着姿で入ってくる。
「お待たせしました、レオン様」
「ああ」
彼は本を閉じると彼女を手招きした。アリアが彼の隣に腰を下ろすと、彼はその体を優しく抱き寄せた。
「今日も疲れただろう」
「いいえ。とても楽しかったです。この国の美味しいものが、もっともっと増えていく。そう思うとわくわくします」
彼女は子供のように目を輝かせて言った。
その純粋な情熱がレオンにはたまらなく愛おしかった。
「……君は本当にすごいな」
彼は彼女の髪に顔を埋め、その香りを深く吸い込んだ。
「俺は君と出会うまで、この国を力だけで支配しようとしていた。だが君は教えてくれた。真の豊かさとは、人の腹と心を満たすことから始まるのだと」
「そんな……。私にはもったいないお言葉です」
「事実だ」
彼は彼女の体をさらに強く抱きしめた。
「俺は君という最高の皇后を手に入れた。これ以上何を望むことがあろうか」
その甘い囁き。
アリアは彼の胸の中で、幸せに目を閉じた。
皇帝夫妻の穏やかで、愛に満ちた日常。
それはこの国が真の平和と豊かさを手に入れたことの、何よりの証だった。
そして、その幸せな日常は、これからもずっとずっと続いていく。
彼が彼女の料理を愛し続ける限り。
彼女が彼のために料理を作り続ける限り。
その温かい食卓がある限り。
「入れ」
書類の山から顔を上げたレオンハルトの前に現れたのは、銀のお盆を手ににこやかに微笑む彼の愛する妻、アリアだった。
「レオン様。少し休憩にしませんか? 甘いものをお持ちしました」
その声を聞いた瞬間、執務室の張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。
隣で難しい顔をして地図を広げていた宰相エリオットも、アリアの姿を認めるとその口元を微かに綻ばせた。
「これはこれは、皇后陛下。いつも陛下の健康管理、感謝いたします」
「まあ、エリオット様。あなた様もあまり根を詰めすぎてはいけませんよ。はい、これはあなた様の分です」
アリアはエリオットの前に湯気の立つカップと小さな皿を置いた。皿の上には焼き立てのマドレーヌが二つ。バターの芳醇な香りが漂う。
エリオットは、普段の彼なら決して口にしないであろう「甘いものは思考を鈍らせる」という持論を、アリアの前では綺麗さっぱり忘れてしまっていた。彼はまるでおやつを与えられたかのように嬉しそうにそのマドレーヌを頬張った。
そして、レオンの前には。
彼のためだけの特別な一皿。
ガラスの器に盛られたふるふると震える黄金色のプリン。その上にはほろ苦いカラメルソースがたっぷりと掛かっている。
「……アリア」
レオンの声は甘くとろけるようだった。彼の大好物だ。
彼は皇帝としての威厳も忘れ、目をきらきらと輝かせながらスプーンを手に取った。そしてプリンを一口、口に運ぶ。
卵の濃厚な味わい。カラメルのほろ苦さと甘さ。その完璧なハーモニー。
彼の執務で疲れ切った脳と体に、優しい甘さが染み渡っていく。
「……美味い」
その心の底からの一言。
アリアは、その言葉と彼の幸せそうな顔が見れただけで、自分の存在価値の全てを肯定されたような温かい気持ちになるのだった。
これが皇帝夫妻の日常だった。
皇后となっても、アリアはただ玉座の隣で微笑んでいるだけのお飾りではなかった。
彼女は彼女のやり方で、この国を、そしてこの国の最も重要な人物を支えていた。
時には夜食の差し入れという形で皇帝の執務を陰から支え。
時には『食の聖女』として、その知識と力を使い国の食文化そのものを豊かにし。
そして時にはただ一人の妻として、皇帝レオンハルトの唯一の安らぎの場所となる。
ある日の午後。アリアはエリオットと共に王城の一室で、数人の役人たちと向き合っていた。
テーブルの上に広げられているのは一枚の巨大な地図。それはガルディナ帝国の農産物の分布を示した地図だった。
「北部のこの地域は寒冷で、作物が育ちにくいとされています。ですが、この土地の土壌は実は芋によく似た『雪の下芋』の栽培に非常に適しているのです」
アリアは地図の一点を指差し、自信に満ちた声で語り始めた。
「この芋は寒さに当たることでその甘みを増すという特性があります。これを新しい特産品としてブランド化するのです。そして、その芋を使った新しい郷土料理を開発し、食文化ごと輸出するのです」
彼女の言葉に、役人たちは目から鱗が落ちる思いだった。
今までただの『不毛の地』としか見ていなかった土地に、そんな可能性が眠っていたとは。
「南のこの沿岸部では塩作りが盛んですが、その質はあまり良くありません。ですが、海流を上手く利用し天日干しの時間を調整すれば、ミネラルを豊富に含んだまろやかな味わいの塩が作れるはずです」
「東の森では様々な種類の茸が採れます。これらを乾燥させ粉末にすることで、一年中使える天然の『うま味調味料』として商品化できるかもしれません」
次から次へと溢れ出してくる彼女のアイデア。
それは前世の豊かな食文化の記憶と、この世界の食材に対する深い知識と愛情が結びついた、まさに『聖女』ならではの神託だった。
エリオットは、その光景を腕を組み、満足げに眺めていた。
アリア・フォン・ガルディナ。彼女はもはや、ただ料理が上手いだけの聖女ではない。
彼女は、食という観点からこの国の経済を、未来をデザインする卓越した『プロデューサー』でもあったのだ。
その日の夜。
皇帝の寝室で、レオンはベッドの上で一冊の本を読んでいた。
そこに湯浴みを終えたアリアが、寝間着姿で入ってくる。
「お待たせしました、レオン様」
「ああ」
彼は本を閉じると彼女を手招きした。アリアが彼の隣に腰を下ろすと、彼はその体を優しく抱き寄せた。
「今日も疲れただろう」
「いいえ。とても楽しかったです。この国の美味しいものが、もっともっと増えていく。そう思うとわくわくします」
彼女は子供のように目を輝かせて言った。
その純粋な情熱がレオンにはたまらなく愛おしかった。
「……君は本当にすごいな」
彼は彼女の髪に顔を埋め、その香りを深く吸い込んだ。
「俺は君と出会うまで、この国を力だけで支配しようとしていた。だが君は教えてくれた。真の豊かさとは、人の腹と心を満たすことから始まるのだと」
「そんな……。私にはもったいないお言葉です」
「事実だ」
彼は彼女の体をさらに強く抱きしめた。
「俺は君という最高の皇后を手に入れた。これ以上何を望むことがあろうか」
その甘い囁き。
アリアは彼の胸の中で、幸せに目を閉じた。
皇帝夫妻の穏やかで、愛に満ちた日常。
それはこの国が真の平和と豊かさを手に入れたことの、何よりの証だった。
そして、その幸せな日常は、これからもずっとずっと続いていく。
彼が彼女の料理を愛し続ける限り。
彼女が彼のために料理を作り続ける限り。
その温かい食卓がある限り。
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