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第97話:皇后様の厨房
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ガルディナ帝国皇后、アリア・フォン・ガルディナ。
それが私の新しい名前になった。
結婚式の熱狂から数ヶ月。帝都はすっかり落ち着きを取り戻し、人々は呪いから解放された新しい日常を謳歌していた。
そして私もまた、皇后としての新しい日常に少しずつ慣れ始めていた。
朝は皇太后様とのお茶会から始まる。最初は緊張でガチガチだったが、ヴィクトリア様は本当の娘のように私に優しく接してくれた。帝国の歴史、貴族たちの複雑な関係、そして皇后としての心構え。彼女から学ぶことはあまりにも多かった。
昼は様々な公務に追われた。孤児院や施療院への慰問、貴婦人たちとの慈善活動の打ち合わせ、時には諸外国の使節との会談にレオン様の隣で同席することもあった。
最初は戸惑うことばかりだった。リンドブルムの片隅で誰にも知られずに生きてきた私にとって、それはあまりにも華やかで責任の重い世界だった。
しかし、私には最強の味方がいた。
「アリア殿、その書類仕事は私が半分引き受けよう。君は君にしかできない仕事に集中すべきだ」
宰相エリオット様は私が苦手な事務仕事をさりげなく手伝ってくれた。
「皇后陛下! 城下の警備はこのギルバートにお任せを! 陛下に近づく不埒な輩は、たとえ蟻一匹たりとも許しはしませんぞ!」
騎士団長ギルバート様は私が城下に出るたびに、過剰なほど厳重な警備体制を敷いて私を呆れさせ、そして安心させてくれた。
そして何よりも。
「疲れた顔をしているな、アリア。今日はもう休め」
レオン様がいつも私のことを見ていてくれた。私が皇后という重圧に潰されてしまわないように、そっと陰から支えてくれていた。
周りの人々の温かい支えのおかげで、私は不器用ながらも少しずつ皇后としての役割を果たせるようになっていった。
民衆はそんな私のことを、敬愛と親しみを込めて「皇后様」、あるいは愛情を込めて昔のまま「聖女様」と呼んでくれた。
しかし、そんな華やかで忙しい日々の中で。
私には決して誰にも譲れない、一つの大切な『仕事』があった。
それは皇后としてではなく、ただの『料理人アリア』としての仕事。
その日の夕方。私は公務を終えると侍女たちの制止を振り切り、一人ある場所へと向かった。
そこは王城の中央厨房ではない。
私がこの国に来て初めて自分の居場所を見つけた、あの月影の宮の小さな厨房。
今ではすっかり使われなくなったその場所を、私はレオン様に頼んで私だけの特別な厨房として残してもらっていたのだ。
扉を開けると懐かしい木の香りとスパイスの匂いがした。
私は皇后の豪奢なドレスを脱ぎ捨て、慣れ親しんだシンプルな麻のエプロンを身につける。
その瞬間、私はガルディナ帝国皇后から、ただの料理人アリアへと戻るのだ。
私は鼻歌交じりで調理を始めた。
職人さんたちが作ってくれた魂の宿るダマスカス包丁が、心地よい音を立てて野菜を刻んでいく。魔導コンロの自在に操れる炎が、鍋の底を優しく温める。
私が作っていたのは特別な料理ではない。
ただの家庭料理。
じっくりと炒めた玉ねぎの甘みが溶け込んだポトフ。
新鮮な卵をふわふわに焼き上げたオムレツ。
そして彼が何よりも愛する、炊き立ての白米もどき。
私が料理に集中していると。
背後で静かに扉が開く音がした。
振り返らなくても誰だか分かっていた。
「……いい匂いだ」
低い、愛おしそうな声。
そこに立っていたのは、皇帝としての全ての鎧を脱ぎ捨てた、ただの『レオンハルト』だった。
彼は私の後ろからそっと私の腰を抱きしめた。そして私の肩に顎を乗せる。
「ただいま、アリア」
「おかえりなさい、レオン様」
その何気ない挨拶。それが私たちにとって何よりも幸せな瞬間だった。
「今日はポトフですか?」
「ああ。冷えた体にはこれが一番だ」
彼は子供のように鍋の中を覗き込み、くんくんと幸せそうに匂いを嗅いでいる。
私はそんな彼の姿にくすりと笑いながら調理を続けた。
皇后になっても。
私は時折こうして厨房に立つ。
中央厨房の立派な料理人たちがどんなに素晴らしい料理を作ってくれても。
レオン様のための食事だけは。
決して人任せにはしなかった。
なぜなら、それは。
私と彼とを結びつけた原点であり。
そして妻として、私が愛する夫に捧げることのできる、最高の愛情表現だと信じていたから。
「さあ、できましたよ。温かいうちに召し上がれ」
「ああ。……いただきます」
私たちは小さな古びたテーブルで向かい合って座る。
豪華な宴のフルコースではない。ただ温かい家庭料理。
しかし、それを世界で一番幸せそうな顔で頬張る、愛しい人。
その顔を見ているだけで、私の一日の疲れは全て吹き飛んでしまうのだ。
皇后様の厨房。
そこは、この帝国で一番小さくて。
そして、世界で一番温かくて幸せな、愛に満ちたレストランだった。
それが私の新しい名前になった。
結婚式の熱狂から数ヶ月。帝都はすっかり落ち着きを取り戻し、人々は呪いから解放された新しい日常を謳歌していた。
そして私もまた、皇后としての新しい日常に少しずつ慣れ始めていた。
朝は皇太后様とのお茶会から始まる。最初は緊張でガチガチだったが、ヴィクトリア様は本当の娘のように私に優しく接してくれた。帝国の歴史、貴族たちの複雑な関係、そして皇后としての心構え。彼女から学ぶことはあまりにも多かった。
昼は様々な公務に追われた。孤児院や施療院への慰問、貴婦人たちとの慈善活動の打ち合わせ、時には諸外国の使節との会談にレオン様の隣で同席することもあった。
最初は戸惑うことばかりだった。リンドブルムの片隅で誰にも知られずに生きてきた私にとって、それはあまりにも華やかで責任の重い世界だった。
しかし、私には最強の味方がいた。
「アリア殿、その書類仕事は私が半分引き受けよう。君は君にしかできない仕事に集中すべきだ」
宰相エリオット様は私が苦手な事務仕事をさりげなく手伝ってくれた。
「皇后陛下! 城下の警備はこのギルバートにお任せを! 陛下に近づく不埒な輩は、たとえ蟻一匹たりとも許しはしませんぞ!」
騎士団長ギルバート様は私が城下に出るたびに、過剰なほど厳重な警備体制を敷いて私を呆れさせ、そして安心させてくれた。
そして何よりも。
「疲れた顔をしているな、アリア。今日はもう休め」
レオン様がいつも私のことを見ていてくれた。私が皇后という重圧に潰されてしまわないように、そっと陰から支えてくれていた。
周りの人々の温かい支えのおかげで、私は不器用ながらも少しずつ皇后としての役割を果たせるようになっていった。
民衆はそんな私のことを、敬愛と親しみを込めて「皇后様」、あるいは愛情を込めて昔のまま「聖女様」と呼んでくれた。
しかし、そんな華やかで忙しい日々の中で。
私には決して誰にも譲れない、一つの大切な『仕事』があった。
それは皇后としてではなく、ただの『料理人アリア』としての仕事。
その日の夕方。私は公務を終えると侍女たちの制止を振り切り、一人ある場所へと向かった。
そこは王城の中央厨房ではない。
私がこの国に来て初めて自分の居場所を見つけた、あの月影の宮の小さな厨房。
今ではすっかり使われなくなったその場所を、私はレオン様に頼んで私だけの特別な厨房として残してもらっていたのだ。
扉を開けると懐かしい木の香りとスパイスの匂いがした。
私は皇后の豪奢なドレスを脱ぎ捨て、慣れ親しんだシンプルな麻のエプロンを身につける。
その瞬間、私はガルディナ帝国皇后から、ただの料理人アリアへと戻るのだ。
私は鼻歌交じりで調理を始めた。
職人さんたちが作ってくれた魂の宿るダマスカス包丁が、心地よい音を立てて野菜を刻んでいく。魔導コンロの自在に操れる炎が、鍋の底を優しく温める。
私が作っていたのは特別な料理ではない。
ただの家庭料理。
じっくりと炒めた玉ねぎの甘みが溶け込んだポトフ。
新鮮な卵をふわふわに焼き上げたオムレツ。
そして彼が何よりも愛する、炊き立ての白米もどき。
私が料理に集中していると。
背後で静かに扉が開く音がした。
振り返らなくても誰だか分かっていた。
「……いい匂いだ」
低い、愛おしそうな声。
そこに立っていたのは、皇帝としての全ての鎧を脱ぎ捨てた、ただの『レオンハルト』だった。
彼は私の後ろからそっと私の腰を抱きしめた。そして私の肩に顎を乗せる。
「ただいま、アリア」
「おかえりなさい、レオン様」
その何気ない挨拶。それが私たちにとって何よりも幸せな瞬間だった。
「今日はポトフですか?」
「ああ。冷えた体にはこれが一番だ」
彼は子供のように鍋の中を覗き込み、くんくんと幸せそうに匂いを嗅いでいる。
私はそんな彼の姿にくすりと笑いながら調理を続けた。
皇后になっても。
私は時折こうして厨房に立つ。
中央厨房の立派な料理人たちがどんなに素晴らしい料理を作ってくれても。
レオン様のための食事だけは。
決して人任せにはしなかった。
なぜなら、それは。
私と彼とを結びつけた原点であり。
そして妻として、私が愛する夫に捧げることのできる、最高の愛情表現だと信じていたから。
「さあ、できましたよ。温かいうちに召し上がれ」
「ああ。……いただきます」
私たちは小さな古びたテーブルで向かい合って座る。
豪華な宴のフルコースではない。ただ温かい家庭料理。
しかし、それを世界で一番幸せそうな顔で頬張る、愛しい人。
その顔を見ているだけで、私の一日の疲れは全て吹き飛んでしまうのだ。
皇后様の厨房。
そこは、この帝国で一番小さくて。
そして、世界で一番温かくて幸せな、愛に満ちたレストランだった。
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