悪役令嬢レベル100

夏見ナイ

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第5話 勘違いのオーラ

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私の口から漏れた、かすかな笑い声。
それは静まり返ったホールに不気味に響き渡り、全ての者の耳に届いた。
壇上のエリオット王子が、信じられないものを見る目で私を見つめている。彼の顔から、正義の執行者としての高揚感は消え失せ、純粋な困惑と、じわじゆわと広がる恐怖が浮かんでいた。
「……な、ぜ笑う」
絞り出すような声だった。
無理もないだろう。彼にしてみれば、完璧なシナリオだったはずだ。
悪逆非道な婚約者の罪を暴き、可憐なヒロインを守り、正義を示す。聴衆は彼を称賛し、悪役令嬢は涙ながらに罪を認めるか、せめて怒りに顔を歪める。それが彼の思い描いた舞台だったに違いない。
まさか、断罪された本人が、心の底から嬉しそうに微笑むなどとは、想像の埒外だっただろう。

もちろん、私が感じているのは純度百パーセントの歓喜だ。
(やった、やったぞー!)
心の中では、チアリーダー姿の私がポンポンを振って踊り狂っている。
婚約破棄!
これで私も自由の身だ。面倒な王妃教育も、息の詰まる社交界も、全てさようなら。これからは、私だけの時間が待っている。
北の領地で、のんびりと暮らすのだ。
春には山菜を採り、夏には川で魚を釣る。秋には自分で育てた野菜を収穫し、冬は暖炉の前で編み物でもしながら過ごす。ああ、なんて完璧な計画だろう。
想像しただけで、幸せで胸がいっぱいになる。
自然と、私の表情はさらに緩んでいった。目は喜びに細められ、口角は幸福感に持ち上がる。傍から見れば、それは恍惚とした表情だったかもしれない。

だが、その表情が周囲に与えた影響は、私の想像とは全く異なるものだった。
私の喜びが、幸福感が、内側から溢れ出すエネルギーが、このレベル100の身体を通して周囲に放出される時。
それは、恐るべきものへと変質していた。
「……寒い」
誰かがぽつりと呟いた。
それを皮切りに、ホール内のあちこちで同じような声が上がり始める。
『なんだ?急に冷え込んできたぞ』
『窓が開いているのか?いや、そんなはずは……』
貴婦人たちが、むき出しの肩をさすり始めた。屈強な騎士たちでさえ、不可解な悪寒に眉をひそめている。
ホールの空気が、物理的に冷えていた。
高い天井で輝いていたシャンデリアの無数の炎が、まるで巨大な何かに怯えるように、一斉に揺らめき、その光を弱める。壁に掛けられたタペストリーが、風もないのに微かに震えた。
それは、私が無意識に放つ覇気だった。
本人の内心は、春の陽だまりのようにポカポカしている。だが、その規格外の魔力が周囲に与える影響は、絶対零度の冷気にも等しい威圧感そのものだった。
空気は鉛のように重くなり、呼吸すら億劫になる。
それはまるで、食物連鎖の頂点に立つ捕食者を前にした、草食動物の絶望的な感覚。
ホールにいる誰もが、その得体の知れないプレッシャーの発生源が、静かに微笑む赤髪の少女であることに気づいていた。

彼女は、笑っている。
婚約を破棄され、全ての罪を糾弾されるこの状況で。
まるで、この茶番劇そのものを。ここにいる人間全てを。
この世界そのものを、嘲笑うかのように。
その絶対的な余裕。その底知れぬ威圧感。
貴族たちの脳裏に、彼女の異名が蘇る。

――五国の破壊者。
――歩く天災。
――虐殺の紅姫。

それらが単なる噂や誇張ではないことを、彼らは今、肌で理解していた。
これは、人間の領域にいる者ではない。
自分たちが今対峙しているのは、人の形をした、抗いようのない『厄災』そのものなのだと。

「う……あ……」
気の弱い令嬢が、白目を剥いて倒れそうになるのを、隣にいた父親が必死で支えている。歴戦の騎士であるはずの王宮警備兵たちが、柄を握る手に力を込め、冷や汗を流しながらも、一歩も動けずにいた。
彼らの本能が、警鐘を乱れ打っていた。
動くな。目を合わせるな。敵意を見せるな。
さもなくば、死ぬ。

壇上のエリオットは、その異常事態の中心にいた。
彼は私から放たれるプレッシャーを、誰よりも強く感じていた。それは彼に向けられた、明確な『殺意』だと誤解していた。
(なんだ、これは……この威圧感は……!)
足が震える。喉が渇く。心臓が嫌な音を立てて脈打っていた。
目の前の少女は、ただそこに立って微笑んでいるだけだ。だが、エリオットには見えていた。彼女の背後に、血と骸で築かれた屍の山が。絶望と怨嗟の渦巻く、地獄の光景が。
彼は、自分がとんでもない過ちを犯したのではないかと、今更ながらに思い始めていた。
自分は、眠れる竜の髭を、無造作に引き抜いてしまったのではないか。
いや、違う。
エリオットはかぶりを振った。
恐怖に屈してはならない。自分は王子だ。正義を為す者だ。
これは、彼女の脅しだ。無言の恫喝だ。
そうだ。彼女は、王家に対して反逆の意思を示しているのだ。この場で私を屈服させ、その力を誇示するつもりなのだ。
「くっ……!」
エリオットは恐怖を怒りに塗り替え、必死に虚勢を張った。
彼の隣で、ヒロインのリリアは顔を真っ青にして震えていた。彼女の聖なる力は、邪悪な気配に敏感だ。そして今、彼女が感じているのは、これまで感じたことのないほど強大で、冷たく、そしてどこまでも純粋な『力』の奔流だった。
それは邪悪とは少し違う。だが、あまりにも異質で、神聖な彼女の力とは決して相容れない、絶対的な何か。
彼女はエリオットの腕に必死にしがみつき、か細い声で囁いた。
「王子様……もう、やめましょう……アシュリー様を、これ以上怒らせては……」
その言葉が、エリオットの最後のプライドを刺激した。
ここで引くわけにはいかない。
大勢の前で断罪を始め、婚約破棄まで宣言したのだ。今更、怖気付いて引き下がることなど、王子として許されない。
「黙れ! 私は屈しない!」
エリオットは自らを鼓舞するように叫んだ。
そして、凍りついた会場を見渡し、次の告発者を指名するために声を張り上げた。
「次だ! 騎士団長の息子、アレクセイ・ブライアント! 前へ!」
彼の声は、わずかに震えていた。
その声に弾かれたように、攻略対象の一人である赤毛の青年が、硬い表情で一歩前に進み出た。
彼は王国騎士団長の息子であり、自身も次期騎士団長と目される剣の達人だ。その顔には恐怖の色が浮かんでいたが、王子からの命令に逆らうことはできない。
アレクセイはごくりと唾を飲み込み、震える足で私の方へと向き直った。
ホールを支配する、氷のような沈黙。
その中で、誰もが息を殺して、次の言葉を待っていた。
私のスローライフ計画は、最高の形で第二幕へと進もうとしていた。
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