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第67話 王子の疑念
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アストライア王国の王城。
エリオット王子は自室の窓から、日に日にその輝きを増していく聖女リリアの姿と、彼女に熱狂する民衆の姿を複雑な思いで見つめていた。
彼の心は二つの相反する感情の間で激しく揺れ動いていた。
一つはリリアという存在への純粋な信頼と愛情。
彼女の起こす奇跡は本物だ。病に苦しむ者を癒やし、絶望に沈む者に希望を与える。彼女こそこの国を、いや、この世界を救う光。そう信じたい。彼女の純粋な笑顔を守りたい。
しかし、もう一つの感情がその純粋な信頼に暗い影を落としていた。
それは疑念だった。
彼の元には宰相を通じて選別された報告だけでなく、彼直属の密偵からも極秘の報告が届けられていた。
そして、その内容は宰相の報告とは全く異なる不吉なものばかりだった。
『大穀倉地帯、原因不明の凶作。民の間に深刻な飢餓の懸念広がる』
『沿岸諸国、相次ぐ大嵐と海面上昇により複数の港湾都市が壊滅的被害』
『大陸各地の地脈、異常な魔力枯渇を観測。このままでは大規模な地殻変動の引き金となる可能性も』
そして、それらの報告書には必ず一つの共通した注釈が添えられていた。
『これらの異常現象は、聖女リリアによる奇跡の行使と奇妙なまでに時期と場所が連動している』
偶然。
最初はそう思おうとした。
悪意ある者たちが聖女の名声を貶めるために流した悪質なデマだと。
だが、報告は一つや二つではなかった。大陸の各地から全く異なるルートで、同じ内容の情報が彼の元へと集まってきていたのだ。
そして何より、彼自身の目もその違和感を捉えていた。
リリアが癒やしたはずの街で、なぜか人々は活力を失っていく。
リリアが恵みをもたらしたはずの土地で、なぜか草木は輝きを失っていく。
彼女の奇跡はまるで、周囲の生命力を無理やり吸い上げて一点に集めているかのような、そんな危うさを孕んでいた。
(……まさか)
エリオットの脳裏に最悪の可能性がよぎる。
あの日、卒業パーティでアシュリーを断罪したあの光景。
『余計なことを……』
リリアが慈悲を見せた時、アシュリーは確かにそう呟いた。そして、彼女を冷たい目で見つめた。
あの時のアシュリーの態度は、単なる嫉妬や怒りではなかったのではないか。
もしかしたら彼女は何かを知っていたのではないか。
リリアの力の本当の危険性を。
そして、自分の行いが世界を破滅へと導く愚かな道化の役割でしかないということを。
だとしたら。
自分はとんでもない過ちを犯したことになる。
真実を見抜いていた唯一の人間を、自らの手で断罪し追放してしまったのだ。
「……うっ……!」
エリオットは激しい頭痛に襲われ、こめかみを押さえた。
考えれば考えるほど、思考は袋小路に迷い込んでいく。
リリアを信じたい。彼女の純粋さを疑いたくない。
だが、目の前に積み上げられた『世界の悲鳴』を無視することもできない。
自分の信じる『正義』が音を立てて崩れていく感覚。
彼は生まれて初めて自分が何を信じ、何を為すべきなのか分からなくなっていた。
「エリオット様、どうかなさいましたか?」
彼の苦悩を見透かしたかのように、宰相がいつの間にか彼の背後に立っていた。その手には新たな報告書と思わしき羊皮紙が握られている。
「……宰相か。いや、何でもない」
エリオットは動揺を悟られぬよう、努めて冷静に答えた。
この男の前で弱みを見せるわけにはいかない。最近、彼の言動にはどこか違和感を覚えることが多くなっていた。彼はあまりにもリリアの力を過信し、そしてアシュリーの討伐を急ぎすぎている。その姿は忠実な臣下というよりは、何か別の目的のために自分を扇動しているかのようにも見えた。
「そうですか。ならばよろしいのですが」
宰相は意味ありげに微笑むと、手にした羊皮紙をエリオットに差し出した。
「北の魔女に関する新たな報告です。どうやら本格的に動き出す兆候が」
「何!?」
エリオTットは思考を中断され、慌ててその羊皮紙を受け取った。
そこに書かれていたのは、ヴァルハイト領の軍備が急速に増強されているという内容だった。
エルフの古代魔法を応用した結界術の研究。
ドワーフの秘伝の技術を用いた対魔法兵器の開発。
そして、ヴァルハイト騎士団による大規模な軍事演習。
そのどれもが明らかに『戦争』を想定した動きだった。
「……やはり、奴は攻めてくるつもりか」
エリオットは苦々しく呟いた。
個人的な疑念や苦悩とは別に、王子として彼は目の前の脅威に対処しなければならない。
「もはや一刻の猶予もございません、殿下」
宰相が追い打ちをかけるように囁いた。
「魔女が牙を剥く前に、こちらから仕掛けるのです。聖女リリア様の名の下に、正義の鉄槌を下すのです」
その言葉は悪魔の囁きのように、甘く、そして抗いがたい響きを持っていた。
そうだ。迷っている暇はない。
目の前の脅威を排除することが王子としての自分の務めだ。
リリアに関する疑念は、その後に考えればいい。
「……分かった。大陸諸国への使者を直ちに派遣せよ」
エリオットはついに決断を下した。
「『魔王アシュリー討伐』のための大陸連合軍を結成する、と」
「ははっ! 英断でございます、殿下!」
宰相は深く、そして満足げに頭を下げた。
その顔に浮かんだ一瞬の昏い笑みを、苦悩に沈む王子が気づくことはなかった。
エリオットは自らが下した決断によって、もはや後戻りのできない道へと足を踏み入れてしまった。
彼の疑念はこれから始まるであろう大きな争乱の中で、さらに深く、そして確信へと変わっていくことになる。
だが、その時彼が何か行動を起こすには、あまりにも多くのものが動き出しすぎていた。
彼は自らが信じた『正義』によって自らの首を絞めていくことになる。
その悲劇的な運命の歯車は今、静かに、そして確実に回り始めていた。
エリオット王子は自室の窓から、日に日にその輝きを増していく聖女リリアの姿と、彼女に熱狂する民衆の姿を複雑な思いで見つめていた。
彼の心は二つの相反する感情の間で激しく揺れ動いていた。
一つはリリアという存在への純粋な信頼と愛情。
彼女の起こす奇跡は本物だ。病に苦しむ者を癒やし、絶望に沈む者に希望を与える。彼女こそこの国を、いや、この世界を救う光。そう信じたい。彼女の純粋な笑顔を守りたい。
しかし、もう一つの感情がその純粋な信頼に暗い影を落としていた。
それは疑念だった。
彼の元には宰相を通じて選別された報告だけでなく、彼直属の密偵からも極秘の報告が届けられていた。
そして、その内容は宰相の報告とは全く異なる不吉なものばかりだった。
『大穀倉地帯、原因不明の凶作。民の間に深刻な飢餓の懸念広がる』
『沿岸諸国、相次ぐ大嵐と海面上昇により複数の港湾都市が壊滅的被害』
『大陸各地の地脈、異常な魔力枯渇を観測。このままでは大規模な地殻変動の引き金となる可能性も』
そして、それらの報告書には必ず一つの共通した注釈が添えられていた。
『これらの異常現象は、聖女リリアによる奇跡の行使と奇妙なまでに時期と場所が連動している』
偶然。
最初はそう思おうとした。
悪意ある者たちが聖女の名声を貶めるために流した悪質なデマだと。
だが、報告は一つや二つではなかった。大陸の各地から全く異なるルートで、同じ内容の情報が彼の元へと集まってきていたのだ。
そして何より、彼自身の目もその違和感を捉えていた。
リリアが癒やしたはずの街で、なぜか人々は活力を失っていく。
リリアが恵みをもたらしたはずの土地で、なぜか草木は輝きを失っていく。
彼女の奇跡はまるで、周囲の生命力を無理やり吸い上げて一点に集めているかのような、そんな危うさを孕んでいた。
(……まさか)
エリオットの脳裏に最悪の可能性がよぎる。
あの日、卒業パーティでアシュリーを断罪したあの光景。
『余計なことを……』
リリアが慈悲を見せた時、アシュリーは確かにそう呟いた。そして、彼女を冷たい目で見つめた。
あの時のアシュリーの態度は、単なる嫉妬や怒りではなかったのではないか。
もしかしたら彼女は何かを知っていたのではないか。
リリアの力の本当の危険性を。
そして、自分の行いが世界を破滅へと導く愚かな道化の役割でしかないということを。
だとしたら。
自分はとんでもない過ちを犯したことになる。
真実を見抜いていた唯一の人間を、自らの手で断罪し追放してしまったのだ。
「……うっ……!」
エリオットは激しい頭痛に襲われ、こめかみを押さえた。
考えれば考えるほど、思考は袋小路に迷い込んでいく。
リリアを信じたい。彼女の純粋さを疑いたくない。
だが、目の前に積み上げられた『世界の悲鳴』を無視することもできない。
自分の信じる『正義』が音を立てて崩れていく感覚。
彼は生まれて初めて自分が何を信じ、何を為すべきなのか分からなくなっていた。
「エリオット様、どうかなさいましたか?」
彼の苦悩を見透かしたかのように、宰相がいつの間にか彼の背後に立っていた。その手には新たな報告書と思わしき羊皮紙が握られている。
「……宰相か。いや、何でもない」
エリオットは動揺を悟られぬよう、努めて冷静に答えた。
この男の前で弱みを見せるわけにはいかない。最近、彼の言動にはどこか違和感を覚えることが多くなっていた。彼はあまりにもリリアの力を過信し、そしてアシュリーの討伐を急ぎすぎている。その姿は忠実な臣下というよりは、何か別の目的のために自分を扇動しているかのようにも見えた。
「そうですか。ならばよろしいのですが」
宰相は意味ありげに微笑むと、手にした羊皮紙をエリオットに差し出した。
「北の魔女に関する新たな報告です。どうやら本格的に動き出す兆候が」
「何!?」
エリオTットは思考を中断され、慌ててその羊皮紙を受け取った。
そこに書かれていたのは、ヴァルハイト領の軍備が急速に増強されているという内容だった。
エルフの古代魔法を応用した結界術の研究。
ドワーフの秘伝の技術を用いた対魔法兵器の開発。
そして、ヴァルハイト騎士団による大規模な軍事演習。
そのどれもが明らかに『戦争』を想定した動きだった。
「……やはり、奴は攻めてくるつもりか」
エリオットは苦々しく呟いた。
個人的な疑念や苦悩とは別に、王子として彼は目の前の脅威に対処しなければならない。
「もはや一刻の猶予もございません、殿下」
宰相が追い打ちをかけるように囁いた。
「魔女が牙を剥く前に、こちらから仕掛けるのです。聖女リリア様の名の下に、正義の鉄槌を下すのです」
その言葉は悪魔の囁きのように、甘く、そして抗いがたい響きを持っていた。
そうだ。迷っている暇はない。
目の前の脅威を排除することが王子としての自分の務めだ。
リリアに関する疑念は、その後に考えればいい。
「……分かった。大陸諸国への使者を直ちに派遣せよ」
エリオットはついに決断を下した。
「『魔王アシュリー討伐』のための大陸連合軍を結成する、と」
「ははっ! 英断でございます、殿下!」
宰相は深く、そして満足げに頭を下げた。
その顔に浮かんだ一瞬の昏い笑みを、苦悩に沈む王子が気づくことはなかった。
エリオットは自らが下した決断によって、もはや後戻りのできない道へと足を踏み入れてしまった。
彼の疑念はこれから始まるであろう大きな争乱の中で、さらに深く、そして確信へと変わっていくことになる。
だが、その時彼が何か行動を起こすには、あまりにも多くのものが動き出しすぎていた。
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