追放された”お荷物”の俺がいないと、聖女も賢者も剣聖も役立たずらしい

夏見ナイ

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第39話 失われた叡智

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記憶を失った女性は、俺たちの村で保護されることになった。

彼女は自分の名前すら思い出せなかったため、俺たちは便宜上、彼女の髪の色から「ヴィオラ」と呼ぶことにした。彼女は、その名前を呼ばれるたびに少しだけ寂しそうに、しかし静かに頷いた。

ヴィオラは驚くほど早く村の生活に溶け込んでいった。彼女は物静かで常に控えめだったが、その佇まいには隠しきれない気品があった。セレスティアやアイリスとはすぐに打ち解け、三人の女性が教会の庭で楽しそうにハーブを摘んでいる光景は、村の新しい日常となった。

だが、穏やかな日々の中で、俺たちは彼女の持つ異常性の片鱗を何度も目の当たりにすることになる。

ある日、村の水車が壊れた。湖の水を引き込むための重要な設備だが、その構造は古く複雑だった。村の誰もが修理方法が分からず頭を抱えていた。その時、遠巻きに見ていたヴィオラが、ぽつりと呟いた。

「……逆回転防止用のラチェット機構。その爪が摩耗しているだけです。同じ硬度の金属で代用品を作り、角度を三度ずらして設置すれば、トルクはむしろ向上するはず……」

その言葉はまるで教科書を読み上げるかのように淀みがなかった。村人たちがきょとんとした顔で彼女を見る。彼女自身も自分が何を言ったのか分からず、はっとしたように口元を押さえた。

「ご、ごめんなさい……。なぜか、そう思ってしまって……」

だが、試しに彼女の言う通りに修理してみると、水車は以前よりもスムーズに力強く回り始めたのだ。

またある時には、俺が教会の書庫で見つけた誰も読めない古代文字で書かれた羊皮紙を、彼女が何気なく手に取った。

「……これは第五王朝時代の錬金術に関する記述ですね。『賢者の石』の生成プロセスの、初期段階の……」

彼女はそこに書かれている内容をすらすらと読み解いてみせた。そして、またすぐに自分の言動に混乱し、怯えたように黙り込んでしまう。

彼女の中には本人さえも把握できない膨大な知識が眠っている。それはもはや疑いようのない事実だった。そして、その知識に触れようとするたびに彼女はひどい頭痛に襲われ、記憶の混濁がさらに深まるようだった。

その夜、俺とルナリエル、セレスティアは教会の談話室でヴィオラについて話し合っていた。

「やはり、間違いないわ」

ルナリエルが確信に満ちた声で切り出した。

「彼女は『大賢者の塔』の一族。それも、おそらくは禁忌とされるほどの古代魔法にまで通じている最高位の賢者よ。彼女が時折口にする言葉は、エルフの国の王立書庫でもごく一部の者しか閲覧を許されない秘術に関するものばかりだわ」

「では、なぜ彼女は記憶を……?」

セレスティアが悲しそうに尋ねる。

「それこそが、彼女にかけられた『呪い』の本質なのよ」

ルナリエルは暖炉の炎を見つめながら、一つの仮説を語り始めた。

「強力な魔法には必ず『代償』が伴う。それは魔力であったり、生命力であったり様々だわ。もし、彼女が扱う魔法の代償が……『記憶』そのものだったとしたら?」

その言葉に、俺とセレスティアは息を呑んだ。

「魔法を使うたびに、あるいはその膨大な知識にアクセスするたびに、代償として自分に関する記憶が少しずつ削られていく。家族の顔を忘れ、友人の名前を忘れ、そして最後には自分が誰であるかさえも忘れてしまう。これほど残酷な呪いがあるかしら」

ルナリエルの言葉は、ヴィオラのこれまでの言動の全てに恐ろしいほどの説得力を持たせていた。

彼女は、その類まれなる才能ゆえに、自らの存在そのものを失い続けるという終わりのない地獄を彷徨っていたのだ。

「そんな……。あまりにも酷すぎますわ……」

セレスティアは自分のことのように胸を痛め、目に涙を浮かべていた。

俺は唇を固く結んだ。彼女を救わなければならない。その思いが腹の底から湧き上がってくる。

翌日、俺たちはヴィオラ本人と直接向き合うことにした。

俺たちの仮説を聞かされた彼女は、最初はひどく混乱していた。だが、話を聞くうちに彼女の脳裏で、閉ざされていた記憶の扉が軋む音を立てて開き始めたようだった。

「……塔……」

彼女は頭を押さえながら、うわ言のように呟いた。

「……そうだわ……。わたしは塔にいた……。たくさんの本に囲まれて……。魔法の研究を……」

断片的な映像が彼女の脳裏にフラッシュバックしているのだろう。その瞳の焦点が、過去のどこか一点を見つめている。

「……新しい魔法を完成させたかった……。世界をもっと良くするための……。でも、その魔法は禁忌だった……。発動させるには、何かとても大切なものを……捧げなければ……」

彼女の呼吸が徐々に荒くなっていく。

「……試したの……。一度だけ……。そして、わたしは……失った……。お父様と、お母様の顔を……。一番大切な記憶を……。その時から、わたしは……わたしでなくなっていった……」

彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは失われた過去への、そして失われ続ける現在への、悲痛な叫びだった。

「……逃げたの……。塔から……。このままではわたしの全てが消えてしまうから……。そんな時、噂を聞いた……。『呪いを癒す聖地』の噂を……。そこに行けば、わたしはまたわたしに戻れるかもしれないって……」

彼女は嗚咽を漏らしながら、俺たちに必死に訴えかけた。

「お願い……。助けて……。わたしは知識だけの、空っぽの器になりたくない……。わたしは……」

彼女は最後の力を振り絞るように叫んだ。

「わたしは、ソフィア……! わたしの名前は……きっと、ソフィア、なの……!」

ソフィア。

それが彼女がようやく思い出した自分自身の名前だった。その一言を絞り出した彼女は、まるで燃え尽きたかのようにその場で意識を失い、俺の腕の中へと倒れ込んだ。

俺は、その軽すぎる身体を強く抱きしめた。

知識と引き換えに自己を失う呪い。そのあまりにも過酷な運命に、俺は静かな怒りを覚えていた。

「……大丈夫だ、ソフィア」

俺は意識のない彼女に向かって固く誓った。

「君が失ったもの、俺が必ず取り戻してみせる。君のその苦しみも悲しみも、全部……俺が引き受けてやる」

その言葉はもはやただの慰めではなかった。俺のスキル【代償転嫁】が、彼女という新たな『呪い』を前にして、静かに、しかし力強くその力を解放する準備を始めていた。
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