追放された”お荷物”の俺がいないと、聖女も賢者も剣聖も役立たずらしい

夏見ナイ

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第69話 「辺境の聖人」の噂

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王都から英雄の輝きが失われて久しい。
かつて吟遊詩人たちが競ってその武勇伝を歌い上げたSランクパーティー『光の剣』の名は、今や人々の記憶の片隅へと追いやられ、代わりに新たな噂がまるで春先の若草のようにあちこちで芽吹き始めていた。

それは、辺境の地に生まれた一つの奇跡の物語。

「聞いたか? 西の果てに『エデン』っていう楽園があるらしい」
「ああ、知ってるぜ。どんな呪いも癒やすっていう『聖人』がいるんだろ?」
「それだけじゃない。その村には本物の聖女様やエルフの剣聖様、竜を駆るお姫様までいるって話だ!」

酒場の与太話として始まったその噂は、しかしそれを裏付けるかのような『物』の出現によって急速に真実味を帯びていった。

行商人ギデオンが王都の市場に持ち込む驚異的な薬効を持つ薬草『エデンの聖薬』。貴族の食卓を飾り、食べた者の活力を蘇らせるという魔法の野菜『太陽の恵み』。それらは実際にエデンが存在する動かぬ証拠として、人々の羨望と好奇心を掻き立てていた。

噂は、様々な人々の耳にそれぞれの形で届いていた。



スラム街のゴミが散乱する路地裏。
聖女イリーナは汚れた壁に背を預け、虚ろな目で道行く人々を眺めていた。物乞いで手に入れた硬くなったパンの欠片を力なくかじる。それが彼女の今日の唯一の食事だった。

そんな彼女の耳に、すぐそばを通り過ぎる主婦たちの会話が嫌でも入ってきた。

「まあ、奥様。聞きました? エデンの聖女様のお話」
「ええ、もちろん! あの方の祈りは本当に奇跡を起こすそうですわ。それも、少しもお苦しみになることなく、ただ微笑まれるだけでどんな病も癒やしてしまうとか」
「なんて慈悲深いお方なのでしょう。それに比べて、王都にいたあの『偽の聖女』は、人を癒やすたびに苦しそうな顔をして周りを不快にさせていたそうですわね」
「ええ、ええ。奇跡をひけらかすだけの傲慢な女だったと聞きますわ。神罰が下ったのも当然ですわね」

主婦たちの声は悪意なく、ただの世間話としてイリーナの心を抉っていく。

(……偽物……)

その言葉が頭の中で何度も反響する。
代償もなく奇跡を起こす聖女。そんなものがいるはずがない。奇跡には必ず苦痛が伴うのだ。自分があれほど苦しんだのだから。

(……嘘よ。そんなの、全部嘘に決まっているわ。わたくしこそが神に選ばれた聖女だったのに……。なぜ、わたくしがこんな目に……)

彼女は噂の聖女に激しい嫉妬と憎しみを覚えた。だが、同時に心のどこかでその奇跡にすがりたいと願う弱い自分もいた。

もし、本当にそんな聖女がいるのなら。
この、全てを失った自分を救ってはくれないだろうか。

だが、彼女は首を振った。プライドがそれを許さない。
『偽物』と罵られた自分が今更『本物』に助けを乞うなど、死んだ方がましだ。

彼女は噂の楽園が自分が見下していた辺境にあることにも、そこにいるという『聖人』の正体にも思いを馳せることはなかった。ただ、自分以外の誰かが『本物』として賞賛されているという事実だけが、彼女の心を絶望の闇へとさらに深く沈めていくだけだった。



外界から隔絶された廃墟の塔。
賢者マルスは散らかった書物の山の中で、一人終わりのない研究に没頭していた。暴走した魔法によって歪められた空間は、彼をこの塔に閉じ込めたままだ。

だが、彼の知性は完全に外界との繋がりを断ったわけではなかった。彼は風の精霊に命じ、世界の情報を運ばせていた。それは彼の狂った精神をかろうじて繋ぎ止める唯一の娯楽だった。

その日、風が運んできたのはやはり『エデン』の噂だった。

『……その村には、古代魔法を自在に操る大賢者がいるらしい。彼女の知識は、この世の全てを見通しているかのようだ……』
『……彼女は、その魔法を人々の暮らしを豊かにするために使っている。魔法の水道、夜を照らす灯り……。まさに魔法の理想郷だ……』

マルスは、その言葉にぴたりと動きを止めた。

(……古代魔法を、自在に操る……。そして、人々のために使うだと……?)

彼の胸に黒い炎が灯った。嫉妬だ。
自分こそがこの時代で最も神の叡智に近い存在のはずだった。だが、自分以外の誰かが『大賢者』と呼ばれ民に慕われている。その事実が彼の歪んだ自尊心を刺激した。

(……面白い。実に面白い。その『大賢者』とやらがどれほどのものか。いつか、この俺がその知恵の深さを試してやろうではないか……)

彼は狂気の中でまだ見ぬ好敵手の存在に愉悦を感じていた。
その大賢者がリアムという存在を得て初めてその真価を発揮しているという事実には思い至らない。彼にとってリアムはとうに記憶の片隅に追いやられた、取るに足らない変数でしかなかったからだ。

彼は自分が作り出した牢獄の中で、来るはずのない決闘の日を夢見ながら、再び終わりのない数式の海へと沈んでいった。



王都のスラム街の最深部。
悪臭漂うゴミの山に埋もれるように、勇者アレクは横たわっていた。その瞳は虚ろで、もはや何も映してはいない。ただ時折、何かに怯えるようにその身体を震わせるだけだった。

彼の壊れかけた耳にも、断片的に噂は届いていた。

「……せいじん……さま……」
「……えでん……いけば……すくわれる……」

施しを求める人々が希望のように口にする言葉。

聖人。エデン。救い。

その言葉だけが彼の意識の暗闇に、小さな灯りのように揺らめいた。

(……せい、じん……)

彼は無意識にその名を呟いた。

(……たすけて、くれ……)

かつて王国中の希望を背負い誰よりも傲慢だった男が、今はただひたすらに誰かの救いを求めていた。助けなど不要だと切り捨てたはずのものを渇望していた。

彼は朦朧とする意識の中で、その聖人に会うために辺境を目指そうとした。だが、彼の痩せ衰えた身体は指一本動かすことさえ叶わない。

希望の光はあまりにも遠く、彼の絶望はあまりにも深かった。
勇者の物語は、救いを求める声さえ誰にも届かず、静かに闇へと飲まれていった。
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