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001. 晴天の霹靂、婚約破棄
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きらびやかなシャンデリアが目も眩むほどの光を放ち、磨き上げられた大理石の床に招待客たちの華やかな姿を映し出している。ここは王国の中心、王城の大広間。今宵は国王陛下の誕生日を祝う盛大な夜会が開かれていた。軽やかなワルツの調べに乗り、着飾った貴族たちが優雅に語らい、あるいは踊りに興じている。甘い花の香りと高級な香水、そして微かな料理の匂いが混ざり合い、祝祭の空気を醸し出していた。
そんな華やかな空間の片隅で、壁の花と化している令嬢が一人。リリアーナ・フォン・クラインフェルト。侯爵家の長女であり、この国の王太子、エドガー殿下の婚約者であるはずの彼女は、しかし、その場の誰よりも控えめな装いをしていた。流行の最先端を行く豪奢なドレスではなく、上品ではあるが数年前に仕立てたと思われる落ち着いた水色のドレス。華美な宝飾品は一切身につけず、亜麻色の髪は飾り気なくまとめられている。翠の瞳は穏やかだが、どこか自信なさげに伏せられがちで、彼女の周りだけが夜会の喧騒から切り離されたように静かだった。
「リリアーナ様、こちらにいらっしゃいましたか」
声をかけてきたのは、数少ない彼女の友人である伯爵令嬢だった。心配そうな表情を浮かべている。
「ええ、少し休憩を、と思って」
リリアーナは力なく微笑んで見せる。本当は、休憩というよりは、居場所のなさに耐えかねて人目を避けるように隅に来ただけだった。婚約者であるはずのエドガー王太子は、今宵もリリアーナに見向きもせず、別の令嬢に夢中なのだから。
「……また、エドガー殿下はマリア様のところに?」
友人の声がわずかに顰められる。リリアーナはこくりと頷くしかなかった。
マリア・フォン・ベルンシュタイン。半年ほど前に突如として社交界に現れた子爵令嬢。自らを「異世界からの知識を持つ聖女」と称し、その可憐な容姿と、これまでの常識とは少し違う、しかし人々の心を掴む言動で、瞬く間に王都の話題の中心となった。特に、王太子エドガーは彼女に完全に心酔しており、公の場でも常にマリアを傍らに侍らせ、婚約者であるリリアーナをないがしろにする日々が続いていた。
リリアーナも、マリアの語る「異世界の知識」とやらに興味がないわけではなかった。時折、彼女の話の中に、まるで自分の失われた記憶の断片に触れるような、奇妙な既視感を覚えることがあったからだ。たとえば、料理の話。マリアが「異世界では、もっと手軽で美味しいものがたくさんあるのよ!」と語る時、リリアーナの脳裏にも、温かな湯気を立てる白いご飯や、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂い、複雑なスパイスが織りなす異国の味といった、朧げなイメージが浮かぶことがあった。だが、それはあくまで断片的な感覚で、確かな知識として認識できるものではない。そして、その感覚が何なのか、リリアーナ自身にも分からなかった。ただ、自分の中に、今の自分とは違う誰かの記憶、あるいは知識のようなものが眠っているような、そんな漠然とした感覚だけがあった。
「リリアーナ様は、本当にお心が広いわ。私だったら、あんな……」
友人が言い淀む。その気持ちは有り難いが、リリアーナにできることなど何もない。侯爵家という家格はあっても、王家の決定に口を出せるほどの力はない。そして何より、エドガーの心は完全にマリアへと向いてしまっている。
「わたくしは、殿下がお決めになったことに従うまでですわ」
力なく呟くリリアーナ。それは本心からの諦めであり、同時に、そう言い聞かせることでかろうじて自尊心を保とうとする、か細い抵抗でもあった。彼女は幼い頃から、王太子妃となるべく教育を受けてきた。淑女としての嗜み、歴史、政治、魔術理論。そのどれもが平均以上にできたが、突出した才能はなかった。特に「聖女」としての力――この国では、王族や一部の高位貴族の女性に、治癒や浄化といった聖なる力が発現することがある――に関しては、リリアーナにはその兆候すら見られなかった。ただひたすらに真面目に、誠実に、未来の王太子妃としての務めを果たそうと努力してきただけだ。地味で、面白みのない令嬢。それが、エドガーや周囲の評価なのだろう。
そんなことを考えていると、広間の中心がにわかに騒がしくなった。人々の視線が一斉に集まる先には、金髪碧眼の美貌の王太子エドガーと、彼に寄り添うように立つ桜色の髪の可憐な令嬢、マリアの姿があった。マリアは今日も、流行を取り入れつつも清楚さを演出した純白のドレスに身を包み、計算された上目遣いでエドガーを見上げている。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように完璧で、しかしどこか作り物めいた印象も与えた。
「皆、静粛に! これより、エドガー王太子殿下よりお言葉がある!」
侍従の声が響き渡り、ざわめきが収まる。エドガーは満足げに頷くと、マリアの手を取り、一歩前に進み出た。その表情は自信に満ち溢れ、輝いている。しかし、リリアーナには、その輝きがどこか空虚なものに感じられた。
「我が臣民、そして招待された貴族諸君! 今日は、国王陛下の誕生日を祝う喜ばしい日である。だが、それと同時に、この国の未来にとって、極めて重要な決断を皆に報告せねばならない」
エドガーの声が朗々と響く。広間にいる誰もが固唾を飲んで彼の言葉を待った。リリアーナもまた、嫌な予感を胸に感じながら、その場に立ち尽くしていた。心臓が早鐘のように打ち、冷たい汗が背筋を伝う。
「長年、私はリリアーナ・フォン・クラインフェルト侯爵令嬢と婚約を結んでいた。クラインフェルト家は王家に古くから仕える名家であり、彼女自身も淑女としての務めを果たそうと努力してきたことは認めよう」
エドガーは一度言葉を切り、ちらりとリリアーナの方へ視線を向けた。その目に宿るのは、侮蔑と憐憫が入り混じったような、冷たい光だった。
「だがしかし! 我が国の王太子妃、ひいては未来の国母たるべき女性に必要なものは、ただ真面目であることだけではない! 民を導き、国を照らす輝き! そして何より、聖女としての聖なる力だ!」
エドガーは、傍らに立つマリアの肩を抱き寄せた。マリアはうっとりとした表情で彼を見上げている。
「そして、私はついに見つけたのだ! この国を、いや、この世界を救う真の聖女を! それが、ここにいるマリア・フォン・ベルンシュタインである!」
高らかに宣言するエドガー。会場の一部からは、驚嘆とも感嘆ともつかない声が上がった。マリアはエドガーの言葉に応えるように、胸の前でそっと手を組み、慈愛に満ちた(ように見える)微笑みを浮かべた。
「マリアこそ、天が我々に遣わした奇跡! 彼女の持つ『異世界の知識』は、我が国に新たな繁栄をもたらすだろう! そして彼女の内に秘めた聖なる力は、年々脅威を増す魔物や、原因不明の病から民を救う希望の光となる!」
エドガーの言葉は熱を帯びていく。まるで独りよがりの演劇を見ているかのようだ。リリアーナは唇を噛み締めた。マリアが本当に聖女としての力を持っているのか、それは疑問だった。彼女が行ったとされるいくつかの「奇跡」――たとえば、流行り病に効くという薬草の知識や、簡単な生活魔術の応用――は、確かに目新しいものではあったが、古来より伝わる聖女の御業とは比べ物にならないほどささやかなものだった。少なくとも、リリアーナが書物で学んだ知識によれば。
だが、エドガーは完全にマリアを信じ込んでいる。そして、その思い込みが、今、リリアーナにとって最悪の事態を引き起こそうとしていた。
「それに比べて、リリアーナよ」
エドガーの声が、再びリリアーナに向けられた。今度は明確な、突き放すような響きを伴って。
「お前はなんだ? 地味で、華やかさもなく、何の力も持たない。ただ家柄が良いというだけで私の隣に立とうなど、おこがましいにも程がある! お前のような女が、真の聖女であるマリアの輝きを曇らせることは、断じて許されない!」
会場がしんと静まり返る。誰もが息を止め、この前代未聞の事態の成り行きを見守っていた。リリアーナは全身の血の気が引くのを感じた。頭が真っ白になり、立っているのがやっとだった。
「よって、私はここに宣言する! リリアーナ・フォン・クラインフェルトとの婚約を、本日をもって破棄する!」
晴天の霹靂。いや、予想していなかったわけではない。心のどこかで、いつかこうなるのではないかと怯えていた。だが、これほどまでに公衆の面前で、侮辱的な言葉と共に叩きつけられるとは。
「そして、新たに、マリア・フォン・ベルンシュタインを私の正式な婚約者として迎えることを決定した!」
わあっ、と歓声が上がる。それは主に、マリアに取り入ろうとする新興貴族や、エドガーの決定を盲信する者たちからのものだった。古くからの貴族たちの中には、眉を顰めたり、リリアーナへ同情的な視線を送ったりする者もいたが、王太子の決定に異を唱える者は誰もいない。
「お待ちください、エドガー殿下!」
かろうじて、リリアーナは声を絞り出した。震える声だったが、それでも彼女なりの精一杯の抵抗だった。
「わたくしが至らない点は認めます。ですが、婚約は家と家との約束。このような形で一方的に……!」
「黙れ!」
エドガーはリリアーナの言葉を鋭く遮った。その瞳には、もはや一片の情けもなかった。
「お前のような『偽物』に、私の決定を覆す権利などない! それとも何か? お前にもマリアのような聖女の力があるとでも言うのか?」
嘲るような問いかけ。リリアーナは言葉に詰まる。彼女に、マリアが喧伝するような「奇跡」を起こす力はない。ただ、胸の奥に燻る、あの朧げな記憶の断片――温かな料理、それを食べた人々の笑顔、満たされた心――それらが、もしかしたら何かの力になり得るのかもしれない、という淡い予感のようなものはあった。だが、それを今、この場で証明することなどできはしない。
リリアーナが口ごもるのを見て、エドガーは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「見ろ、何も言えまい。やはりお前はただの役立たずだ。それに比べてマリアは……マリア、皆に君の素晴らしい力の一端を示してあげなさい」
促され、マリアは一歩前に進み出た。彼女はそっと両手を掲げると、瞳を閉じて何事か呟き始めた。すると、彼女の手のひらから、淡い、本当に淡い桜色の光が放たれた。光は蛍のようにふわりと宙を舞い、すぐに消えてしまった。
「おお……!」
「なんと、聖なる光だ!」
一部の者たちが、大げさに感嘆の声を上げる。だが、リリアーナには、それが魔術の心得がある者なら誰にでもできる、簡単な光の魔法の応用であることを見抜けた。しかも、その光はあまりにも弱々しく、聖女の力と呼ぶには程遠いものだった。おそらく、魔力の乏しいマリアが、見栄えだけを考えて無理やり放ったのだろう。案の定、マリアの額にはうっすらと汗が浮かび、顔色も少し悪いように見えた。
(これが……真の聖女の力……?)
リリアーナは愕然とした。こんな見え透いた虚飾に、王太子も、周りの多くの貴族たちも騙されているというのか。あるいは、騙されているフリをしているのか。王国の未来を思うと、暗澹たる気持ちになった。
だが、そんなリリアーナの内心を知る由もないエドガーは、マリアの「奇跡」に満足し、さらに言葉を続けた。その言葉は、リリアーナを更なる奈落へと突き落とすものだった。
「さて、リリアーナ。婚約を破棄されたお前を、これ以上王城に留め置くわけにはいかぬ。クラインフェルト侯爵家には、後日正式な通達を送るが、お前自身には、即刻、王都から立ち去ってもらわねばならぬ」
「……立ち去る、と申しますと?」
震える声で問い返すリリアーナ。まさか、と思った。
「お前のような『偽りの聖女』がいるべき場所は、ここではない。お前には、王国で最も貧しく、穢れた土地……ヴァルテンベルク辺境領へ行ってもらう」
ヴァルテンベルク辺境領。その名を聞いて、会場の空気が一変した。同情的な視線は消え、恐怖と侮蔑の色が濃くなる。そこは、王国の北東の果て、年中厳しい寒さと雪に閉ざされ、痩せた土地では作物がほとんど育たず、凶暴な魔物の巣窟となっている、まさに「捨てられた地」。罪人や厄介者が送られる流刑地同然の場所だった。
「辺境の痩せた土地と頑迷な民、そして魔物の脅威がお前には相応しいだろう。そこで己の無力さを噛み締め、生涯を終えるがいい!」
エドガーの言葉は、死刑宣告にも等しかった。貴族令嬢として生きてきたリリアーナが、そんな過酷な土地で生きていけるはずがない。事実上の、緩やかな死を意味していた。
「そ、そんな……あんまりです……!」
リリアーナの瞳から、ついに涙が溢れ落ちた。体から力が抜け、崩れ落ちそうになる。周囲の貴族たちは、もはや誰も彼女を助けようとはしなかった。王太子の決定は絶対であり、彼に見限られた者に手を差し伸べることは、自らの破滅を意味するからだ。
広間の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。エドガーの勝ち誇った顔、マリアの偽りの微笑み、周りの人々の冷たい視線。全てが歪んで、溶けていくような感覚。
リリアーナは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。足元から崩れ落ちていくような絶望感の中で、彼女の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
何故、こんなことになったのだろう。
ただ、真面目に、誠実に生きてきただけなのに。
これから、私はどうなるのだろう。
辺境の地で、ただ死を待つだけなのだろうか。
暗転していく視界の片隅で、温かな湯気を立てるスープの幻影が、一瞬だけ、揺らめいた気がした。
そんな華やかな空間の片隅で、壁の花と化している令嬢が一人。リリアーナ・フォン・クラインフェルト。侯爵家の長女であり、この国の王太子、エドガー殿下の婚約者であるはずの彼女は、しかし、その場の誰よりも控えめな装いをしていた。流行の最先端を行く豪奢なドレスではなく、上品ではあるが数年前に仕立てたと思われる落ち着いた水色のドレス。華美な宝飾品は一切身につけず、亜麻色の髪は飾り気なくまとめられている。翠の瞳は穏やかだが、どこか自信なさげに伏せられがちで、彼女の周りだけが夜会の喧騒から切り離されたように静かだった。
「リリアーナ様、こちらにいらっしゃいましたか」
声をかけてきたのは、数少ない彼女の友人である伯爵令嬢だった。心配そうな表情を浮かべている。
「ええ、少し休憩を、と思って」
リリアーナは力なく微笑んで見せる。本当は、休憩というよりは、居場所のなさに耐えかねて人目を避けるように隅に来ただけだった。婚約者であるはずのエドガー王太子は、今宵もリリアーナに見向きもせず、別の令嬢に夢中なのだから。
「……また、エドガー殿下はマリア様のところに?」
友人の声がわずかに顰められる。リリアーナはこくりと頷くしかなかった。
マリア・フォン・ベルンシュタイン。半年ほど前に突如として社交界に現れた子爵令嬢。自らを「異世界からの知識を持つ聖女」と称し、その可憐な容姿と、これまでの常識とは少し違う、しかし人々の心を掴む言動で、瞬く間に王都の話題の中心となった。特に、王太子エドガーは彼女に完全に心酔しており、公の場でも常にマリアを傍らに侍らせ、婚約者であるリリアーナをないがしろにする日々が続いていた。
リリアーナも、マリアの語る「異世界の知識」とやらに興味がないわけではなかった。時折、彼女の話の中に、まるで自分の失われた記憶の断片に触れるような、奇妙な既視感を覚えることがあったからだ。たとえば、料理の話。マリアが「異世界では、もっと手軽で美味しいものがたくさんあるのよ!」と語る時、リリアーナの脳裏にも、温かな湯気を立てる白いご飯や、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂い、複雑なスパイスが織りなす異国の味といった、朧げなイメージが浮かぶことがあった。だが、それはあくまで断片的な感覚で、確かな知識として認識できるものではない。そして、その感覚が何なのか、リリアーナ自身にも分からなかった。ただ、自分の中に、今の自分とは違う誰かの記憶、あるいは知識のようなものが眠っているような、そんな漠然とした感覚だけがあった。
「リリアーナ様は、本当にお心が広いわ。私だったら、あんな……」
友人が言い淀む。その気持ちは有り難いが、リリアーナにできることなど何もない。侯爵家という家格はあっても、王家の決定に口を出せるほどの力はない。そして何より、エドガーの心は完全にマリアへと向いてしまっている。
「わたくしは、殿下がお決めになったことに従うまでですわ」
力なく呟くリリアーナ。それは本心からの諦めであり、同時に、そう言い聞かせることでかろうじて自尊心を保とうとする、か細い抵抗でもあった。彼女は幼い頃から、王太子妃となるべく教育を受けてきた。淑女としての嗜み、歴史、政治、魔術理論。そのどれもが平均以上にできたが、突出した才能はなかった。特に「聖女」としての力――この国では、王族や一部の高位貴族の女性に、治癒や浄化といった聖なる力が発現することがある――に関しては、リリアーナにはその兆候すら見られなかった。ただひたすらに真面目に、誠実に、未来の王太子妃としての務めを果たそうと努力してきただけだ。地味で、面白みのない令嬢。それが、エドガーや周囲の評価なのだろう。
そんなことを考えていると、広間の中心がにわかに騒がしくなった。人々の視線が一斉に集まる先には、金髪碧眼の美貌の王太子エドガーと、彼に寄り添うように立つ桜色の髪の可憐な令嬢、マリアの姿があった。マリアは今日も、流行を取り入れつつも清楚さを演出した純白のドレスに身を包み、計算された上目遣いでエドガーを見上げている。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように完璧で、しかしどこか作り物めいた印象も与えた。
「皆、静粛に! これより、エドガー王太子殿下よりお言葉がある!」
侍従の声が響き渡り、ざわめきが収まる。エドガーは満足げに頷くと、マリアの手を取り、一歩前に進み出た。その表情は自信に満ち溢れ、輝いている。しかし、リリアーナには、その輝きがどこか空虚なものに感じられた。
「我が臣民、そして招待された貴族諸君! 今日は、国王陛下の誕生日を祝う喜ばしい日である。だが、それと同時に、この国の未来にとって、極めて重要な決断を皆に報告せねばならない」
エドガーの声が朗々と響く。広間にいる誰もが固唾を飲んで彼の言葉を待った。リリアーナもまた、嫌な予感を胸に感じながら、その場に立ち尽くしていた。心臓が早鐘のように打ち、冷たい汗が背筋を伝う。
「長年、私はリリアーナ・フォン・クラインフェルト侯爵令嬢と婚約を結んでいた。クラインフェルト家は王家に古くから仕える名家であり、彼女自身も淑女としての務めを果たそうと努力してきたことは認めよう」
エドガーは一度言葉を切り、ちらりとリリアーナの方へ視線を向けた。その目に宿るのは、侮蔑と憐憫が入り混じったような、冷たい光だった。
「だがしかし! 我が国の王太子妃、ひいては未来の国母たるべき女性に必要なものは、ただ真面目であることだけではない! 民を導き、国を照らす輝き! そして何より、聖女としての聖なる力だ!」
エドガーは、傍らに立つマリアの肩を抱き寄せた。マリアはうっとりとした表情で彼を見上げている。
「そして、私はついに見つけたのだ! この国を、いや、この世界を救う真の聖女を! それが、ここにいるマリア・フォン・ベルンシュタインである!」
高らかに宣言するエドガー。会場の一部からは、驚嘆とも感嘆ともつかない声が上がった。マリアはエドガーの言葉に応えるように、胸の前でそっと手を組み、慈愛に満ちた(ように見える)微笑みを浮かべた。
「マリアこそ、天が我々に遣わした奇跡! 彼女の持つ『異世界の知識』は、我が国に新たな繁栄をもたらすだろう! そして彼女の内に秘めた聖なる力は、年々脅威を増す魔物や、原因不明の病から民を救う希望の光となる!」
エドガーの言葉は熱を帯びていく。まるで独りよがりの演劇を見ているかのようだ。リリアーナは唇を噛み締めた。マリアが本当に聖女としての力を持っているのか、それは疑問だった。彼女が行ったとされるいくつかの「奇跡」――たとえば、流行り病に効くという薬草の知識や、簡単な生活魔術の応用――は、確かに目新しいものではあったが、古来より伝わる聖女の御業とは比べ物にならないほどささやかなものだった。少なくとも、リリアーナが書物で学んだ知識によれば。
だが、エドガーは完全にマリアを信じ込んでいる。そして、その思い込みが、今、リリアーナにとって最悪の事態を引き起こそうとしていた。
「それに比べて、リリアーナよ」
エドガーの声が、再びリリアーナに向けられた。今度は明確な、突き放すような響きを伴って。
「お前はなんだ? 地味で、華やかさもなく、何の力も持たない。ただ家柄が良いというだけで私の隣に立とうなど、おこがましいにも程がある! お前のような女が、真の聖女であるマリアの輝きを曇らせることは、断じて許されない!」
会場がしんと静まり返る。誰もが息を止め、この前代未聞の事態の成り行きを見守っていた。リリアーナは全身の血の気が引くのを感じた。頭が真っ白になり、立っているのがやっとだった。
「よって、私はここに宣言する! リリアーナ・フォン・クラインフェルトとの婚約を、本日をもって破棄する!」
晴天の霹靂。いや、予想していなかったわけではない。心のどこかで、いつかこうなるのではないかと怯えていた。だが、これほどまでに公衆の面前で、侮辱的な言葉と共に叩きつけられるとは。
「そして、新たに、マリア・フォン・ベルンシュタインを私の正式な婚約者として迎えることを決定した!」
わあっ、と歓声が上がる。それは主に、マリアに取り入ろうとする新興貴族や、エドガーの決定を盲信する者たちからのものだった。古くからの貴族たちの中には、眉を顰めたり、リリアーナへ同情的な視線を送ったりする者もいたが、王太子の決定に異を唱える者は誰もいない。
「お待ちください、エドガー殿下!」
かろうじて、リリアーナは声を絞り出した。震える声だったが、それでも彼女なりの精一杯の抵抗だった。
「わたくしが至らない点は認めます。ですが、婚約は家と家との約束。このような形で一方的に……!」
「黙れ!」
エドガーはリリアーナの言葉を鋭く遮った。その瞳には、もはや一片の情けもなかった。
「お前のような『偽物』に、私の決定を覆す権利などない! それとも何か? お前にもマリアのような聖女の力があるとでも言うのか?」
嘲るような問いかけ。リリアーナは言葉に詰まる。彼女に、マリアが喧伝するような「奇跡」を起こす力はない。ただ、胸の奥に燻る、あの朧げな記憶の断片――温かな料理、それを食べた人々の笑顔、満たされた心――それらが、もしかしたら何かの力になり得るのかもしれない、という淡い予感のようなものはあった。だが、それを今、この場で証明することなどできはしない。
リリアーナが口ごもるのを見て、エドガーは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「見ろ、何も言えまい。やはりお前はただの役立たずだ。それに比べてマリアは……マリア、皆に君の素晴らしい力の一端を示してあげなさい」
促され、マリアは一歩前に進み出た。彼女はそっと両手を掲げると、瞳を閉じて何事か呟き始めた。すると、彼女の手のひらから、淡い、本当に淡い桜色の光が放たれた。光は蛍のようにふわりと宙を舞い、すぐに消えてしまった。
「おお……!」
「なんと、聖なる光だ!」
一部の者たちが、大げさに感嘆の声を上げる。だが、リリアーナには、それが魔術の心得がある者なら誰にでもできる、簡単な光の魔法の応用であることを見抜けた。しかも、その光はあまりにも弱々しく、聖女の力と呼ぶには程遠いものだった。おそらく、魔力の乏しいマリアが、見栄えだけを考えて無理やり放ったのだろう。案の定、マリアの額にはうっすらと汗が浮かび、顔色も少し悪いように見えた。
(これが……真の聖女の力……?)
リリアーナは愕然とした。こんな見え透いた虚飾に、王太子も、周りの多くの貴族たちも騙されているというのか。あるいは、騙されているフリをしているのか。王国の未来を思うと、暗澹たる気持ちになった。
だが、そんなリリアーナの内心を知る由もないエドガーは、マリアの「奇跡」に満足し、さらに言葉を続けた。その言葉は、リリアーナを更なる奈落へと突き落とすものだった。
「さて、リリアーナ。婚約を破棄されたお前を、これ以上王城に留め置くわけにはいかぬ。クラインフェルト侯爵家には、後日正式な通達を送るが、お前自身には、即刻、王都から立ち去ってもらわねばならぬ」
「……立ち去る、と申しますと?」
震える声で問い返すリリアーナ。まさか、と思った。
「お前のような『偽りの聖女』がいるべき場所は、ここではない。お前には、王国で最も貧しく、穢れた土地……ヴァルテンベルク辺境領へ行ってもらう」
ヴァルテンベルク辺境領。その名を聞いて、会場の空気が一変した。同情的な視線は消え、恐怖と侮蔑の色が濃くなる。そこは、王国の北東の果て、年中厳しい寒さと雪に閉ざされ、痩せた土地では作物がほとんど育たず、凶暴な魔物の巣窟となっている、まさに「捨てられた地」。罪人や厄介者が送られる流刑地同然の場所だった。
「辺境の痩せた土地と頑迷な民、そして魔物の脅威がお前には相応しいだろう。そこで己の無力さを噛み締め、生涯を終えるがいい!」
エドガーの言葉は、死刑宣告にも等しかった。貴族令嬢として生きてきたリリアーナが、そんな過酷な土地で生きていけるはずがない。事実上の、緩やかな死を意味していた。
「そ、そんな……あんまりです……!」
リリアーナの瞳から、ついに涙が溢れ落ちた。体から力が抜け、崩れ落ちそうになる。周囲の貴族たちは、もはや誰も彼女を助けようとはしなかった。王太子の決定は絶対であり、彼に見限られた者に手を差し伸べることは、自らの破滅を意味するからだ。
広間の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。エドガーの勝ち誇った顔、マリアの偽りの微笑み、周りの人々の冷たい視線。全てが歪んで、溶けていくような感覚。
リリアーナは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。足元から崩れ落ちていくような絶望感の中で、彼女の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
何故、こんなことになったのだろう。
ただ、真面目に、誠実に生きてきただけなのに。
これから、私はどうなるのだろう。
辺境の地で、ただ死を待つだけなのだろうか。
暗転していく視界の片隅で、温かな湯気を立てるスープの幻影が、一瞬だけ、揺らめいた気がした。
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