聖女の力は「美味しいご飯」です!~追放されたお人好し令嬢、辺境でイケメン騎士団長ともふもふ達の胃袋掴み(物理)スローライフ始めます~

夏見ナイ

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029. アレクシスの隠された傷

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リリアーナの薬膳鍋が騎士たちの原因不明の不調――おそらくは古い遺跡で受けた呪詛か邪気のようなもの――を祓ったという報告は、アレクシス・フォン・ヴァルテンベルクにとって、もはや驚きというよりも、彼の現実認識そのものを揺るがす出来事となっていた。物理的な効果を超え、不可視の領域にまで及ぶ彼女の力。それは、彼がこれまで築き上げてきた合理的な世界観では到底説明がつかない。

(……もはや、尋常ではない……)

執務室で一人、アレクシスは指先でこめかみを押さえた。リリアーナ・フォン・クラインフェルト。彼女は一体、何者なのか。単なるお人好しな追放令嬢ではありえない。聖女か? いや、王都が認定した「聖女」マリアの力とは、比較にならないほど実質的で、強力すぎる。あるいは、何か別の、未知の存在か……。

彼女の存在は、辺境領にとって計り知れない恩恵をもたらしている。騎士団の強化、村の活性化、そして今や、呪詛さえも祓う力。領主として、これを利用しない手はない。しかし、同時に、その底知れない力に対する畏れと、彼女の行動原理への深い疑念も、アレクシスの心を蝕んでいた。彼女がもし、その力を悪用するようなことがあれば……。あるいは、彼女自身が制御できないような事態に陥れば……。辺境領は、容易く破滅へと向かうだろう。

そして、彼をさらに苛んでいたのは、リリアーナの存在が、彼自身の最も深い部分、誰にも触れさせまいと固く閉ざしてきた領域にまで、影響を及ぼし始めているという事実だった。

アレクシスには、隠された傷があった。それは、物理的な古傷であると同時に、もっと根深い、精神的な傷でもあった。幼い頃から、冷徹な父と野心的な兄たちの間で、彼は常に孤独だった。期待に応え、弱みを見せず、完璧であることを求められ続けた。唯一、心を開きかけた母は、彼がまだ幼い頃に謎の病で亡くなり、その死には不審な点も囁かれていた。(過去の伏線) 愛されることも、人を信じることも知らずに育った彼は、自らの感情を押し殺し、氷のような仮面を被ることで、かろうじて自分自身を保ってきたのだ。

しかし、その仮面の下では、常に癒えない痛みが疼いていた。夜ごと見る悪夢、時折襲ってくる理由のない焦燥感、そして、体の奥底に巣食うような、慢性的な鈍い痛み。それは、過去のトラウマか、あるいは辺境の厳しい環境や魔物の瘴気に長年晒されてきた代償か、彼自身にも判然とはしなかった。ただ、この「傷」こそが、彼の弱さの根源であり、決して他者に知られてはならない秘密だった。

だが、リリアーナのハーブティーを飲むようになってから、その「傷」に、微かな変化が現れ始めていたのだ。悪夢を見る頻度が減り、見ても以前ほど生々しいものではなくなった。日中の焦燥感も和らぎ、そして何より、体の奥底の鈍い痛みが、ほんの少しだけ、薄らいでいるような気がする。

それは、気のせいかもしれない。そう思おうとした。しかし、彼の体は、正直にその変化を感じ取っていた。リリアーナの作るものが、彼の最も深い闇にまで、静かに、しかし確実に届いている。その事実に、アレクシスは言いようのない動揺と、そして……恐れを感じていた。自分の弱さが、他者に、特にあの不可解な女に知られてしまうのではないか、という恐れ。

そんな葛藤の中にいるアレクシスの元へ、いつものように、リリアーナからの届け物が運ばれてきた。今日は、いつものハーブティーの他に、小さな包みが添えられていた。届けに来た側近(アレクシスがリリアーナとの接触を最小限にするため、固定の者を使っていた)が、少し戸惑いがちに説明する。
「……クラインフェルト嬢が、『最近特に冷え込みますので、体を温める足しにでもなれば』と……。辺境伯様のお口に合うかは分かりませぬが、と恐縮しておりましたが……」

アレクシスは、無言で包みを受け取った。中に入っていたのは、手のひらサイズの、素朴な焼き菓子だった。小麦粉(おそらく配給の黒パンを粉にしたものだろう)に、砕いた木の実と、細かく刻まれた生姜のような根、そしていくつかのハーブが練り込まれているようだった。見た目は飾り気がないが、ほんのりと甘く、スパイシーな香りが漂ってくる。

(……また、余計なことを……)

アレクシスは内心で舌打ちした。彼女のこういう、計算のない、純粋な親切心のようなものが、彼を最も苛立たせるのだ。しかし、その一方で、差し出されたものを拒むことができない自分もいた。彼は、ため息をつきながら、焼き菓子を一つ手に取り、口に運んだ。

ザクッとした、素朴な歯触り。木の実の香ばしさと、小麦の風味。そして、すぐに、練り込まれた生姜とハーブの、ピリッとした刺激と温かさが口の中に広がった。甘さは控えめだが、滋味深く、噛み締めるほどに味わいが増す。そして、ハーブティーと同じように、食べると体の内側からじんわりと温まり、力が湧いてくるような感覚があった。

(……やはり、これもか……)

アレクシスは、残りの焼き菓子もゆっくりと味わいながら、目を閉じた。温かさが、彼の冷え切った体に染み渡っていく。そして、その温かさと共に、またしても、あの感覚が訪れた。体の奥底の鈍い痛みが、ほんの一瞬、和らぐような……。

「……!」

アレクシスは、はっとして目を開けた。気のせいではない。確かに、痛みが和らいでいる。ほんのわずかな、一瞬の変化かもしれない。しかし、長年彼を苦しめてきたこの「傷」に、これほど明確な変化を感じたのは初めてだった。

激しい動揺が、彼を襲った。リリアーナの力は、やはり自分の弱さの根源にまで届くのだ。それは、希望であると同時に、恐ろしいことでもあった。このまま彼女の作るものを摂取し続ければ、いつかこの傷は癒えるのかもしれない。しかし、それは同時に、自分の最も隠したい部分を、彼女に(あるいは誰かに)晒してしまうことにも繋がりかねない。

(……どうすればいい……?)

アレクシスは、初めて明確な葛藤に囚われた。彼女の力を利用し、辺境を発展させる。それは領主としての当然の判断だ。しかし、その力が自分自身の内面にまで及ぶとなると、話は別だった。彼は、自分の弱さを克服することよりも、それを隠し通すことを、これまでずっと優先してきたのだから。

彼は、リリアーナのことを思った。彼女は、おそらく自分がアレクシスの「傷」に影響を与えていることなど、全く気づいていないだろう。ただ、良かれと思って、心を込めて、料理やお菓子を作っているだけなのだ。その無自覚さが、アレクシスにとっては救いであり、同時にもどかしくもあった。

(……あの女は、一体どこまで……私を乱すつもりだ……)

アレクシスは、リリアーナに対する感情が、もはや単なる利用価値や警戒心だけでは片付けられない、もっと複雑で個人的なものへと変質していることを、認めざるを得なくなっていた。彼女の存在は、彼の凍てついた世界に波紋を広げ、彼の隠された傷に触れ、そして、彼自身を変えようとしているのかもしれない。

彼は、窓の外に広がる雪景色に目を向けた。厳しい冬は、まだ始まったばかりだ。この冬を越える頃には、自分と、そしてリリアーナとの関係は、一体どうなっているのだろうか。答えの見えない問いが、彼の胸に重くのしかかっていた。氷の辺境伯の内に秘められた傷と、リリアーナの無垢な力が交錯し、物語は新たな深みへと向かおうとしていた。
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